*ペスト 翻訳 IV (3)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



IV  (3)

カステルの血清が試されたのは10月下旬だった。、事実上、それはリゥの最後の希望だったのだ。もしまた失敗すれば、都市はペストの思いの儘(まま)にされてしまうとリゥ医師は確信していた。つまり、更に何か月も疫病の脅威に晒されるか、あるいは、訳もなく疫病が突然収束するかのどちらかなのだ。

カステルがリゥを訪れた日の正に前日、オトン氏の息子がペストに感染し、一家全員を隔離しなければならなくなっていた。母親はその直前に隔離を解かれていたのだが、再び隔離の憂き目を見ることになった。予審判事は息子の体にペストの兆候を認めるとすぐに、既定の命令を守り、リゥ医師を呼んでいた。リゥが到着すると、オトン夫妻はベッドの足元に立っていた。幼い娘は遠ざけられている。男の子は身心耗弱の段階にあり、不平も言わず診察に身を任せた。リゥ医師が顔を上げると、予審判事と目が会った。判事の後ろには、口にハンカチを当てた後、目を大きく見開いてリゥの一挙手一投足を見守っている母親の青ざめた顔が見えた。

「例のあれですね?」と冷静な声で判事が尋ねた。

「そうです。」再び男の子を見つめて、リゥが答えた。

母親は大きく目を見開いたが、相変わらず言葉はない。判事も無言のままだった。それから前より低い声で言った。

「それでは、先生、我々は規定通りやらなければなりません。」

リゥは相変わらず口にハンカチを当てている母親から目をそらしていた。

「私が電話していいなら」と躊躇(ためら)いながらリゥが言った。「スムーズに運びます。」

オトン氏は、ではご案内しましょうと言ったが、リゥは母親の方を振り向いた。

「お気の毒です。奥様には必要なものを用意していただかなければなりません。ご存知だと思いますが。」

オトン夫人は呆然としているように見えた。俯いて下を見つめているばかりだ。

「ええ」と頭を振りながら彼女は答えた。「これから用意しますわ。」

オトン家を離れる前に、リゥは、必要なものは何もないのかと二人に尋ねずにはいられなかった。夫人は相変わらず無言のままリゥを見つめていた。しかし今度は、判事のほうが目を背けた。

「ええ、ありません」と彼は言って、唾を飲み込んだ。「でも、あの子を救ってやってください。」


隔離措置は、最初はただ形だけのものに過ぎなかったのだが、リゥとランベールによって極めて厳格なものにされていた。二人は特に、家族の一人一人が常に別々に隔離されることを要求していた。もし家族の一人がそれとは知らずに感染していた場合、感染の機会を増やさないためなのだ。リゥはこれらの理由を判事に説明し、判事はもっともなことだと同意した。しかしながら、夫妻がまじまじとお互いを見つめ合っている様子から、リゥ医師は二人がこの別離にどれほど途方に暮れているかが分かるのだった。オトン夫人と幼い娘の方は、ランベールが管理する隔離所代わりのホテルに収容することが出来た。しかし予審判事の方は、県庁が市立スタジアムに道路局から借りたテントを使って建設中の隔離キャンプ以外にもう収容場所は残っていなかった。リゥはそのことで詫びを言ったが、オトン氏は誰にとっても規則は一つ、それに従うのが筋だと言った。

la peste IV ⑮

ペストに罹った男の子の方は、仮設病院に運ばれ、元々は小学校の教室であり、ベッドが10床設(しつら)えられた病室に入れられた。およそ20時間後、リゥは少年の病状が絶望的であると判断した。その小さな肉体は、感染に貪り尽くされ、何の反応も示さなかったのだ。痛むのだが、見た目には殆ど目立たぬごく小さなリンパ節腫が、少年のか細い手足の関節の動きを妨げていた。少年は闘う前から負けていた。そこでリゥはカステルの血清を試してみようと考えたのだ。その晩早速、夕食後に二人は長い時間をかけて接種を試みたが、男の子からは何一つ反応を得られなかった。翌日の明け方、この決定的とも言える実験の成否を見届けるために、全員がその幼い男の子のもとに向かった。


男の子は麻痺状態を脱し、体を痙攣させ毛布の中で寝返りを打っていた。リゥ医師、カステル、それにタルーは、朝の4時から少年の傍らに付き添い、病状の進退を慎重に見守っていた。ベッドの枕元では、タルーがそのがっしりとした体をやや前屈みにしている。ベッドの足元では、立っているリゥの近くにカステルが座り、表向きはいかにも落ち着き払った様子で古い書物を読んでいた。一人、また一人と、元は小学校の教室だった病室が明るくなるにつれて、他の連中もやって来るのだった。先ずパヌルーがやって来て、壁に背をつけ、タルーの向かい側に座を占めた。パヌルーの顔には苦しげな表情が読み取れ、体を張って闘ってきたこれらの日々の疲労が充血した額に幾本もの皺を刻みつけている。今度はジョゼフ・グランが到着した。時刻は7時、市職員は息を切らしていることを詫びた。自分はほんのわずかしか居られない。おそらくもう、正確なことは分かっていると思うのだが。リゥは無言で、男の子を指差した。少年は引きつった顔で両目を閉じ、あらん限りの力で歯を食いしばり、体を動かさぬまま、むき出しの長枕の上で頭を左右に振っていた。ようやく室内が明るくなり、教室の奥に置き去りにされた黒板の上に、昔書かれた方程式の消し跡が見分けられる時刻になると、ランベールがやって来た。彼は隣のベッドの足元に背をつけて、タバコの箱を取り出した。しかし、ちらっと男の子を見た後、再び箱をポケットに戻した。

カステルは相変わらず座ったまま、眼鏡越しにリゥを眺めている。

「父親のことは何か聞いているかね?」

「いいえ」とリゥは答えた。「彼は今、隔離キャンプにいます。」

リゥ医師は、少年が呻き声を上げているベッドの横木を、ぎゅっと握っていた。彼はその幼い患者から目を離すことはない。少年は突然体を硬直させ、再び歯を食いしばり、胴のあたりを少しへこませ、ゆっくりと両腕と両脚を開いていく。軍用毛布で覆われた裸の小さな肉体から、羊毛とすえた汗の臭いが立ち上って来た。少しずつ少年の緊張が解け、再び両腕と両脚がベッドの中心に戻る。それから相変わらず両目を閉じ、無言のままだ。前よりも呼吸が速くなったように見えた。リゥはタルーと目が会ったが、タルーは目をそらしてしまった。


何か月も前からこの身の毛もよだつ病は犠牲者を選ばなかったのだから、二人は子供たちの死をこれまで既に何度も見てきた。しかし、今朝のように、その苦しむ様子を分刻みに見届けたことはまだ一度もなかったのだ。無論これまでも彼らの目には、この罪なき者たちに課された苦痛は、絶えずその真の姿、つまり言語道断なものに見えていた。しかし少なくともこれまでは、彼らの激しい憤りは言わば観念的なものであったのだ。何故なら、罪なき者の断末魔をこれほど長く、正面から見据えたことは一度もなかったからである。

丁度その時、少年はまるで胃が痛むように、か細い呻き声を上げて再び身体を折り曲げていた。こうして数秒の間身をかがめ、悪寒と痙攣で身を震わせていたのだが、それはまるで少年の華奢な骨組みがペストの烈風で撓(たわ)み、繰り返し襲ってくる熱の息吹を浴びて軋(きし)んでいるようだった。発作が終わり、少し緊張が解けた。熱が引き、激しくあえぐ少年を湿った毒々しい砂浜に置き去りにしたように見えた。しかしそこでは、休息が既に死の影を宿しているのだった。体を焼き尽くすような波が三度目にまた少年を襲い、その体を少し持ち上げたとき、彼は体を縮め、自分を焼き尽くす炎を恐れるあまりベッドの奥へ後ずさり、毛布を跳ね除け、気が狂ったように頭を振った。大粒の涙が熱で火照った瞼の下から湧き上がり、鉛色の顔の上を流れ始める。発作が治まると、精も根も尽き果て、48時間ですっかり肉が落ちてしまった骨ばった両脚と両腕を痙攣させ、少年は乱れきったベッドの中で十字架に架けられたようなグロテスクなポーズをとるのだった。

タルーは身をかがめ、そのずんぐりした手で涙と汗に濡れた小さな顔を拭ってやった。少し前から、カステルは書物を閉じ患者を眺めていた。彼は何か言おうとしたのだが、突然声が上ずってしまい、咳払いをしてから何とか言い終えた。

「朝の小康状態は無かったな、リゥ?」

ええ、でもこの子は普通よりは長く持ちこたえていますとリゥは答えた。パヌルーは少しぐったりした様子で壁にもたれていたのだが、そのときぼそっとこう言った。

「死を免れないとしたら、この子は普通より長く苦しんだことになる。」

リゥは突然パヌルーの方を振り向き、何か言いたげに口を開いた。しかし黙ったまま、明らかに自分を抑えようと努めながら、少年の方に視線を戻した。

病室に光が溢れてきた。他の5つのベッドでは、人影が蠢き、うめき声が上がっていたがその声は申し合わせたように控えめだった。病室の向こうの端で一人だけが叫んでいた。しかしその等間隔で発せられる小さな叫びは苦痛よりはむしろ驚きを表しているように思えた。どうやら患者たちにとっても、それは最初の頃感じていた恐怖ではなくなっていたようだ。今は病気の受け止め方にある種の同意のようなものが出来ていた。ただ一人、この男の子だけが全力で苦闘していたのだ。リゥはときどき、少年の脈を取っていた。その必要があるというよりは、手の施しようがなくじっとしていることに耐えられなかったのだ。リゥは両目を閉じ、少年の脈拍が自分の脈拍と交じり合うのを感じていた。そのとき彼は、拷問の後死刑を宣告された少年と一体となり、まだ無傷の自分の力を出し尽くし、少年を支えようとしていたのだ。しかし、一瞬二人の脈拍は揃ったものの、次第に揃わなくなり、少年は彼の手を逃れ、リゥの努力も無に帰するのだった。リゥはそのか細い手首を離し、元の席に戻っていった。

漆喰が塗られた壁に沿って、光は薔薇色から黄色に変わっていった。窓ガラスの向こうでは、弾けるような朝の暑さが始まっていた。また戻ってきますと言って、グランは出て行ったのだが、その物音は殆ど聞こえない。誰もが待ち構えていた。男の子は相変わらず目を閉じたまま、少し落ち着いているように見えた。鳥の鉤爪(かぎづめ)のようになった両手が、静かにベッドの両脇を掻きなぞっている。その両手が再び上がり、膝の辺りの毛布を掻き毟(むし)った。それから突然、少年は両脚を折り、腹に両腿をつけ動かなくなった。そのとき少年は初めて両目を開け、目の前にいるリゥを眺めた。今や灰色の粘土で固められたような落ち窪んだ顔、そこにある口が開き、開くと同時にそこからただ一つの切れ目ない叫び声が迸(ほとばし)った。それは呼吸による抑揚を殆ど感じさせず、突然、単調で不調和な抗議で病室を満たした。それは全ての人間から同時に発せられたような非人間的な響きを帯びている。リゥは歯を食いしばり、タルーは顔を背けた。ランベールはベッドに近づき、カステルの隣に来た。カステルは、膝の上で開いたままになっている本を閉じる。パヌルーは、病に汚され、歳の区別もつかぬその叫び声で溢れたいたいけな口を凝視した。それから思わず跪(ひざまず)き、止むことのない誰とも知れぬような呻き声の背後から、やや押し殺した声だが、はっきりと聞こえる声で、「主よ、この子を救い給え。」と言った。誰もがその祈りを聞き、無理からぬことと思うのだった。

しかし少年はそのまま叫び続け、周りの患者たちも動揺した。病室の向うの端で、絶えず小さな声を上げていた患者は、その声のリズムを速め、終にはその声も本物の叫び声となった。一方、他の患者たちの呻き声もますます強くなっていく。すすり泣きの声が潮(うしお)のように病室の中で砕け、パヌルーの祈りの声を覆い尽くしていった。リゥはベッドの横木にしがみつき、疲労と嫌悪感に酔いしれて両目を閉じた。

目を開けると、隣にタルーがいた。

「僕は出ていくしかない」とリゥは言った。「もうこれ以上聞くに堪えないのだ。」


しかし突然、他の患者が沈黙した。リゥ医師はそのとき、男の子の叫び声がもう弱くなっていて、それが更に弱まり、今しがた止んでしまったことに気がついた。少年の周りでは、再び呻き声が聞こえてきたが、それは押し殺したような声で、あの終わったばかりの闘いの遠い木霊のようだった。そう、闘いは終わっていたのだ。カステルはベッドの向こう側に移って行き、終了を告げた。少年の口は開いていたがもう言葉はなく、彼は乱れた毛布の窪みに横たわっていた。その身体は突然小さくなり、顔には涙の跡が残っていた。

la peste IV ⑲

パヌルーはベッドに近づき、祝別の仕草をした。それから法衣を手に取ると、中央の通路から出て行った。

「一からやり直さねばなりませんか?」とタルーがカステルに尋ねた。

老医師は首を振っていた。

「多分ね」引きつった微笑を浮かべて、老医師は答えた。「それでも、あの子は長く持ちこたえてくれたよ。」

しかしリゥは既に病室を出るところだった。ひどく急ぎ足で、血相を変えていたので、リゥがパヌルーを追い抜いたとき、パヌルーは腕を伸ばしリゥを引き留めた。

「まあまあ、先生」とパヌルーはリゥに言った。

相変わらず怒りに任せてリゥは振り向き、パヌルーに激しい言葉を浴びせかけた。

「ああ!少なくとも、あの子には罪はなかった。それはあなたもよくご存じのはずだ!」

それから踵(きびす)を返し、パヌルーより先に病室の出口を抜けて、小学校の中庭の奥にやって来た。彼は埃にまみれた小さな木々の間にあるベンチに腰掛け、既に目の中にまで流れ込んでくる汗を拭った。リゥは彼の心を粉々に砕くこの荒々しいしこりを解きほぐすために、もう一度叫びたい気持ちだった。イチジクの枝の間から、ゆっくりと熱気が降りて来る。朝の青空がたちまち白いヴェールで覆われ、周りの空気を一層息苦しいものにしていた。リゥは、ぐったりとベンチに身体を預けた。枝を眺め、空を眺めながら、ゆっくりと呼吸を整え、少しずつ疲労を呑み込んでいく。

「何故あんなに腹を立てて私に話されたのですか。」リゥの背後で声がした。「私にとっても、あの光景は耐え難いものだったのです。」

リゥはパヌルーの方を振り向いた。

「おっしゃる通りです」と彼は言った。「赦してください。しかし、疲労が重なると気持ちが狂ってしまうのです。それにこの都市では、もう激しい怒りしか感じられなくなることが時々あるのですよ。」

「なるほど」とパヌルーが呟(つぶや)いた。「激しい怒りを覚えるのは、事態が我々人間の尺度を超えてしまうからですね。しかし、おそらく我々人間は、理解できぬものも含めて愛さねばならないのです。」

リゥはすっくと立ち上がった。彼は有らん限りの力と熱を込めてパヌルーを眺め、首を横に振っていた。

「それは違います、神父さん」と彼は言った。「愛について私には別の考えがある。だから子供たちが塗炭の苦しみを味わうようなこの世の中を、死ぬまで愛そうとは思いません。」

パヌルーの顔に、惑乱の影が走った。

「ああ!先生」と彼は悲しげに言った。「私は今しがた、神の恩寵と呼ばれているものが分かったのです。」

しかしリゥは再びベンチの上にぐったりと身体を預けていた。再び訪れた疲労の奥底から、彼は前よりは穏やかに答えた。

「それは私には無いものです、それは分かっている。しかし、あなたとそのことを論じたいとは思わない。冒瀆や祈りを超えて我々を結びつけているもの、それがあるから我々は共に働いているのです。肝心なのはそのことです。」

パヌルーはリゥの傍に座った。彼は感動しているように見えた。

「そうです」と彼は言った。「そうですとも、先生も人類の救済のために働いていらっしゃる。」

リゥは微笑もうとしていた。

「僕のような人間に、人類の救済なんて言葉は大袈裟すぎる。そんな大それたことじゃない。僕に興味があるのは人の健康です、先ずは健康ですよ。」

パヌルーは躊躇った。

「先生」と彼は言った。

しかし、それっきり何も言わなかった。パヌルーの額にも滝のように汗が流れ始めていた。彼は、「いずれまた」と呟き立ち上がったが、その両目は輝いていた。パヌルーが立ち去ろうとすると、思いに耽っていたリウも立ち上がり、パヌルーの方に一歩近づいた。

「改めてお詫びします」とリゥは言った。「もうあんな癇癪は二度と起こしません。」

パヌルーは片手を差し出し、悲しげに言った。

「でも、私はあなたを納得させられなかった!」

「それが何だと言うのです?」とリゥは言った。「私が憎んでいるのは、死と悪です。それをあなたはよくご存じのはずだ。それに、あなたが望もうと望むまいと、我々は共にそれらに苦しみ、それらと闘っているのです。」

リゥはパヌルーの手を握っていた。

「お分かりでしょう?」パヌルーから目をそらしてリゥは言った。「神ですら、今我々を引き裂くことは出来ないのです。」


la peste IV ⑳

(ミスター・ビーン訳)

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