*ペスト 翻訳 IV (4)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



IV  (4)

衛生部隊に入隊して以来、パヌルーは病院やペストに汚染された場所を離れることはなかった。救助隊の中で、彼は当然自分が居るべき場所、つまり第一線に身を置いていたのだ。死を目撃する機会にも事欠かなかった。そして、理論的には血清によって守られてはいたのだが、自分自身の死に対する不安も彼には無縁ではなかった。表向きは、相変わらず彼は平静を保っていた。しかし、一人の少年が死にゆく様を長い間眺めることになったあの日を境にして、彼は変わったように見えた。その表情には緊張の高まりが読み取れたのだ。そして、パヌルーがリゥに、「司祭は医師の診察を受けてもよいのか?」という主題で目下小論を執筆中だと微笑みながら語った日、リゥ医師はその論文にはパヌルーの言葉以上に何か重要な問題が含まれているという気がした。リゥがその論文を自分もぜひ読んでみたいと言うと、パヌルーは、男性向けのミサで説教をすることになっているので、その機会に自分の観点を少なくとも幾つか述べるつもりだとリゥに伝えた。

「先生にも来ていただきたいのです。先生にとっても興味深い主題になりますよ。」

神父は、ある風の強い日、二回目の説教を行った。実を言えば、列席者は最初の説教の時よりもまばらだった。我が市民たちにとって、この種の催しはもう目新しさという魅力がなくなっていたからだ。都市が体験している困難な状況の中では、「目新しさ」という言葉そのものが意味を失っていた。それに大多数の人々は、宗教上のお勤めを完全には捨てきっておらず、あるいは、宗教上のお勤めと酷く不道徳な個人生活を並行させてもいなかったのだが、普段のお勤めの代わりにあまり根拠のない迷信に頼るようになっていた。彼らはミサに行くよりは、お守りになるメダルや聖ロクスの護符を進んで身に着けていたのだ。

例えば、我が市民たちがやたらに予言を引き合いに出すのがその一例である。実際、春の頃は、ペスト騒ぎはすぐ終わるものと市民たちは高を括っていた。そこで、疫病の持続期間について他人に正確な情報を訊いてみようなどと誰も思わなかったのだ。なにしろ、皆が皆、疫病は長続きしないと思い込んでいたのだから。しかし日が経つにつれて、この不幸な出来事は、実は終わらないのではないかと恐れはじめ、同時に、疫病の終息が全ての人々の希望の対象となった。こうして、占星術師のものであれ、カトリック教会の聖人のものであれ、様々な予言が口伝えに広まっていった。都市の印刷業者たちは人々のこの熱狂ぶりから引き出しうる利益をたちまち見抜き、流布しているテキストを大量に刷り増して流通ルートに乗せた。公衆の好奇心が飽くことを知らぬことに気付くと、彼らは郷土史に現れるこの手の証言について市立図書館で調査する企画を立てさせ、それらの証言を市内に流布させるのだった。歴史に現れる予言の種が尽きると、今度は新聞記者たちに予言の作成を命じ、記者たちは、少なくともこの点に関して前世紀までの先達同様に有能であることを証明した。

これらの予言の中にはなんと新聞の連載欄に載るものもあり、都市が健康だった時代にはそこに連載されていたお涙ちょうだいの物語に劣らず熱心に読まれるのだった。その中のあるものは奇妙な計算に基づいていて、年号の千の位の数、死者の数、ペストの支配下に置かれた月の数などが絡んでいた。また、別の予言では歴史上の大規模なペストとの比較が行われ、そこから類似点を抜き出し(予言はそれを恒常的類似点と呼んでいた)、これまた奇怪な計算を行って、そこから現在の試練に関わる様々な教訓が引き出せると主張していた。しかし、大衆が異論の余地なく最も評価していたのは、幾つかの打ち続く出来事を黙示録風の語り口で告げている予言だった。その予言の中の出来事がそれぞれ、今都市を苦しめている出来事とも受け取れ、その複雑な様がありとあらゆる解釈を可能にしていたのだ。こうしてノストラダムスと聖女オディリア(注:660頃~720頃。アルザス地方の守護聖女で、ホーエンブルク修道院を設立し初代院長となった。)の予言が日々参照され、常に実りある成果をもたらしていた。それに、全ての予言に共通していたことは、それらが最後には人に安心をもたらすということだ。ただ、ペストだけはそうではなかった。


la peste IV ㉑

そこで我が市民たちにとっては、これらの迷信が宗教の代わりとなっていた。それ故、パヌルーの説教は定員の4分の3程しか埋まっていない教会で行われることになった。説教が行われた晩、リゥが教会に到着すると、風が入口の自在扉から入り込み隙間風となって、我が物顔に聴衆の間を駆け巡っていた。こうして、冷たく押し黙った教会の、男しかいない聴衆の中でリゥは席に着き、神父が説教壇に上がるのを眺めた。神父は前回よりも穏やかで思慮深い調子で話し、聴衆はその口調にはどこか躊躇いがあることに何度か気がついた。更に奇妙なことには、神父はもう「諸君」とは言わずに「我々」と言っていたのだ。

しかしながら、彼の声は少しずつ力を帯びてきた。彼は先ず聴衆に次のことを想起させた。長きにわたる数か月の間、ペストは我々の間に入り込んでいる。ペストが我々のテーブルに向かい腰を据え、あるいは、愛する人々の枕元に腰を据え、我々の傍らを歩き、職場で我々の到着を待ち受けている、そんな姿を何度も眺めてきたおかげで以前よりはその正体をより良く掴んでいる今、そう、おそらく今こそ我々はペストが間断なく語りかけてきたこと、最初の頃は驚きのあまり十分に耳を傾けることが出来なかったことを前よりは十分に受け止めることが出来るのだと。神父たるパヌルーがこの同じ場所で既に説教した内容は今もなお真実である。少なくとも、自分はそう確信している。しかし、それでも恐らく、これは誰にも起こることなのだが、そして自分はそれを深く後悔しているのだが、以前の説教では自分は心の思いを歯に衣(きぬ)着せず語ってしまった。とは言っても、いかなることも、常にそこには心に留めることがある。それが真実であることに変わりはない。極めて残酷な試練もまた、キリスト教徒にとっては恩恵である。そして正に、このような状況に置かれたキリスト教徒が求めるべきものは、彼に与えられた恩恵、その恩恵が拠って立つところのもの、そしてその恩恵を見出しうる方法なのだ。


la peste IV ㉒

そのときリゥの周りでは、人々はベンチの肘掛の間にどっかりと腰を据え、出来る限り楽な姿勢で腰かけているように見えた。入口のクッション張りの扉が一つ、軽くバタついた。わざわざ席を立ち、扉を抑える人がいた。リゥは、そんな騒めきに邪魔されてパヌルーの話が殆ど聞こえなかったのだが、神父は再び説教を始めていた。パヌルーは、ペストの示す光景を解釈しようとしてはならぬ、その光景から学びうるものを学ぼうと努めねばならぬというようなことを言っていた。リゥが漠然と理解したところでは、神父の考えでは、説明のつくものなど何もないということらしかった。リゥが俄然興味をひかれたのは、神父が神のなさることには説明のつくものとつかぬものがあると力を込めて語った時だ。確かに、善と悪があり、善悪を分かつものは容易に理解できる。しかし悪の内側に立ち入ってみると、事は簡単ではなくなる。例えば、明らかに必要な悪と明らかに無益な悪がある。ドン・ファンが地獄に投げ込まれる一方で、一人の子供の死という事実がある。何故なら、放蕩者が雷に打たれるのは当然だが、何故子供が苦しまねばならぬか理解できないからだ。実際、この世の中で子供の苦しみ、その苦しみを目にしたときの悍(おぞ)ましさ、そのような事態になった然るべき理由ほど重要なものは何一つない。その他の点では、神のおかげで我々にとって全てがスムーズに進んでいた。だから、それまでは宗教には功徳などはなかったのだ。ところが此処に至って、神は我々を壁際に立たせ給うている。こうして、我々はペストの城壁の下に佇み、それが投げかける死の影の下で、我々に与えられた恩恵を見出さねばならないのだ。神父たる自分は、その壁をよじ登ることを可能にしてくれる安易な方便に頼ることは断固として拒否する。その子を待ち受けている永遠の至福がその苦しみを償ってくれると言っておけば簡単だったろう。しかし、実際、自分には分からないのだ。というのも、人間の苦痛の瞬間を永遠の喜びが償ってくれるなどと誰が断言できようか?それでは主の僕(しもべ)たるキリスト者とは断じて言えない。主はその四肢と魂にその苦痛を実際味わわれたのだから。否(いな)、神父たる自分は壁の足元に留まり、十字架がその象徴である八つ裂きの刑に忠実に服し、子供の苦しみと面と向かうつもりだ。今日、自分の説教に耳を傾けてくれる諸君には敢えてこう申し上げよう。「我が同胞(はらから)よ、時が来たのだ。全てを信じるか、全てを否定するか、そのどちらかしかない。それ故、諸君の中で、敢えて全てを否定する者などいるであろうか?」

リゥが神父は異端すれすれの説教をしていると思う間もなく、神父は既に力を込めて説教を進め、この命令、この混じりけのない要求こそキリスト教徒に与えられた恩恵なのだと断言した。それはまたキリスト者の美徳でもある。神父たる自分は、これから述べる美徳の極端な部分が、より寛容な、より古典的な倫理に親しんでいる多くの人々にショックを与えることは承知している。しかし、ペストの時代の宗教は平時の宗教では有り得ない。神は幸福な時代には魂が安らぎ、喜びに浸ることをお認めになり、ひいてはお望みになるかもしれないが、不幸の極みにあるときは魂が極端になることをお望みになる。神は今日、その僕(しもべ)たちに特別な計らいを下されている。つまり、「全てか、然らずんば、無か」を選択する美徳、即(すなわ)ち最大の美徳を再び見出し身に着けなければならぬ不幸、その中に我々僕(しもべ)たちを立たせ給うたのだ。

今世紀に入り、ある宗教色のない作家が、カトリック教会の秘密を暴くつもりだと言って、煉獄(注:カトリックの教理で、小罪を犯した死者の霊魂が天国に入る前に火によって罪の浄化を受けるとされる場所、およびその状態。天国と地獄の間にあるという。ダンテが「神曲」中で描写。)などは存在しないと主張した。その発言で彼が仄めかしているのは、中途半端なものなどない、有るのは「天国」と「地獄」だけであり、選び取ったものに応じて、人は救われるか断罪されるかのどちらかしか有り得ないということだった。パヌルーに言わせれば、そんな考えは無信仰の者の心からしか生まれない。だから異端である。何故なら、煉獄は存在するからだ。ただ、この煉獄に期待をかけすぎてはならない時代がおそらくある。小罪について語ることのできない時代というものがある。いかなる罪も致命的であり、いかなる無関心も罪とされるのだ。「全てか、然らずんば、無か」ということなのだ。


la peste IV ㉓

パヌルーは一息ついた。その時リウの耳には、入口の扉の下から吹き込む、すすり泣くような風の音が一層よく聞こえた。風は外では勢いを増しているようだ。丁度その時、神父はこう語っていた。自分が語っているこの全てを受け入れるという美徳は普通考えられているような狭い意味で理解されてはならない。ありきたりな忍従でもなければ、不承不承の服従でもない。服従には違いないが、自ら進んで服従する、つまり恭順なのだ。確かに、子供が苦しむ様を見るのは、精神と心情にとっては屈辱的だ。しかし、だからこそ、そこに入り込まなければならない。だからこそ、ここでパヌルーは聴衆にこれから自分が語ることは容易に口には出しがたいことだと断言した。だからこそ、子供の苦しみを望まなければならない。何故なら神がお望みになっているのだから。こうすることで初めて、キリスト教徒は何事も厭わないことになり、あらゆる出口が塞がれ、必要不可欠な選択を行わざるを得なくなる。キリスト教徒は全てを否定する羽目にならぬよう、全てを信じる道を選ぶことになるのだ。そして、リンパ節腫ができれば、肉体が感染をはねつける自然の手段になると知って、今正に教会の中で、「我が主よ、我が子にリンパ節腫を与え給え。」と言っている実直な女性たちのように、キリスト教徒は神のご意志に、例えそのご意志が理解しがたいものであっても、身を預ける術を知るだろう。「あれは理解できるが、これは受け入れ難い。」などと言うことは出来ぬ。我々に供されたその受け入れ難い事柄の真只中に飛び込み、正に我々の選択を行わなければならぬ。子供たちの苦しみは我々に与えられた苦いパンである。しかし、そのパンが無ければ、我々の魂は心の飢えによって滅びることになる。

ここで、一般に神父の説教が一段落すると始まる密やかな騒めきが聞こえてくると、この説教師は思いがけず力強い調子で説教を再開した。如何にも聴衆に成り代わって問うてみるという顔つきで。では要するに、とるべき行動は如何なるものなのか?自分は十分予想していたのだが、皆さんは宿命という恐ろしい言葉を口に出そうとしていらっしゃる。ところで自分は、その言葉にただ「前向きの」という形容詞を付け加えることを許していただけるなら、その恐ろしい言葉を前にしても怯むものではない。確かに、改めて申し上げるが、以前お話ししたアビシニア(注:エチオピアの旧名)のキリスト教徒たちの真似をしてはならない。あのペルシャのペスト患者の例に倣おうなどと考えることももっての外だ。彼らは大声で天に向かって祈願し、神が差し向けた悪と戦おうとしているあの不信人者たちにペストを与え給えと祈り、自分が着ているぼろ布を最前線にいるキリスト教徒の衛生部隊に投げつけたのだった。しかし、逆に、カイロの修道士たちの真似をしてもいけない。彼らは前世紀に起きた疫病の最中(さなか)、感染が疑われる熱く湿った口との接触を避けるために、火箸でオスチヤ(注:ミサで拝領する聖体のパン)を摘まみ、聖体拝受を行っていた。ペルシャのペスト患者たちも、カイロの修道士たちも等しく罪を犯している。何故なら、前者にとって、子供の苦しみなどは眼中になく、逆に、後者にとっては、苦痛に対する極めて人間的な恐れが全てを支配していたからだ。どちらの場合も、問題を回避している。皆が皆、神の声に耳をふさいでいたのだ。しかし、このパヌルーが皆さんに思い起こしていただきたいと思っている例も他にある。マルセイユの大規模なペストを記録した年代記作者の言を信じれば、ラ・メルシー修道院の81人の修道士のうち、この熱病で生き残ったのはたった4人だった。そして4人のうち3人は修道院から逃亡した。以上が年代記作者たちの話だが、それ以上語ることは彼らの職分ではない。しかし、この記事を読みながら、神父たるこのパヌルーは、77人の死者をものともせず、そして特に、3人の同僚が逃亡したにもかかわらず、一人踏み止まった修道士に思いを馳せるのだ。神父は拳で説教壇の縁を叩きながらこう叫んだ。「親愛なる諸君、踏み止まる者にならなくてはなりません!」

予防措置を、そして災禍の混乱の中に社会が導入した賢明な秩序を拒否せよと言うのではない。跪き、全てを放棄せよと語るあの道徳家どもの言葉に耳を傾けてはならない。少々盲滅法であれ、闇の中をひたすら前進し始めねばならない。そして善をなそうと努めねばならない。しかし、その他のことについては、子供たちの死に関わることであっても、個々の手段に訴えることはせず、踏み止まり、神にお任せする道を受け入れねばならぬ。


ここで、パヌルー神父は、マルセイユがペストに見舞われた頃の高位聖職者、ベルザンス司教の話を引き合いに出した。そして、司教にまつわる以下の話を再び持ち出した。疫病が終息に向かう頃、司教は為すべきことは全てやり終え、最早手立ては無いと信じ、食料を持ち込んで自宅に引き籠り、家の周りに塀を廻らせた。司教を崇拝していた住民たちは、苦しみが極みに達するとよくあることだが、崇拝が憎しみに変わり、そんな司教に腹を立てた。そして司教をペストに感染させてやろうと思い、司教の家の周りを死体の山で囲んだ。それどころか、より確実に司教を亡き者にするために、塀越しに死体を投げ入れさえしたのだ。こうして、司教は土壇場で気持ちがくじけ、死の世界の中で自分だけは隔離されていると思い込んだのだが、空から死体が彼の頭に降り注ぐことになった。我々も同様だ。ペストの中では、身を隠す島など無いことを肝に銘じておかねばならぬ。そう、中間などは無いのだ。言語道断な事態であっても、それを受け入れなければならない。何故なら、我々は神を憎むか、神を愛するか、そのどちらかを選ばねばならぬからだ。そして敢えて神を憎む方を選ぶものなど果たして居るであろうか?

「親愛なる信徒諸君」これで話を締めくくると告げて、最後にパヌルーは言った。「神を愛するのは容易なことではない。先ず、自己を完全に放棄し、我(が)を捨てることが前提だ。しかし、神のみが子供たちの苦しみと死を消し去ることが出来るのであり、いずれにしろ、神のみが子供たちの苦しみを必要なものに為しうるのだ。何故なら、人はその苦しみの理由を理解することは不可能であり、ただそれを望むしかないからだ。以上が、私が諸君と共有したいと願っている辛い教訓である。以上が、人間の目には残酷に映るが、神の目には決定的なものとして映る信仰であり、我々が是非とも身につけねばならぬ信仰である。その恐ろしい姿に、我々は怯んではならない。その頂点に立つとき、全てが混じり合い、全てが平等になり、一見不公平に見えるものから突然真実が姿を現すのだ。かくして、南フランスの多くの教会では、ペストで亡くなった者たちが何世紀も前から内陣(注:典礼で聖職者、聖歌隊が専有する部分で、一般に主祭壇の前方に左右向かい合わせの形で設けられる座席)の床下に眠り、神父たちは彼らの墓の上で信徒たちに語りかける。そして神父たちが広める精神は、子供たちの亡骸もその中に含まれる灰の中から迸り出るものなのだ。」


la peste IV ㉕

リゥが外に出るとき、激しい風が半開きの扉から吹き込み、真正面から信者たちを襲った。風は教会の中に雨の臭いと湿った歩道の香りを運んできた。その湿った香りから、信者たちには、外に出てしまう前に都市の様子が窺がえた。リゥ医師の前には、老司祭と若い助祭がいた。そのとき二人は外に出かかっていたのだが、帽子を押さえるのに苦労していた。それでも、老司祭の方はパヌルーの説教に絶えずコメントを加えた。彼はパヌルーの雄弁ぶりを称賛していたが、その思想に表れていた大胆さを懸念していた。司祭の考えでは、あの説教には力強さよりむしろ不安が表れている、それに、パヌルーの年齢では、司祭たるもの不安になる権利はないと言うのだ。若い助祭の方は、風から身を守るために頭を下げたまま、自分はパヌルー神父とはよく会うので、彼の変化には精通している、彼の論文はあの説教よりはるかに大胆なものになるだろうが、恐らく出版許可は取れないだろうと断言した。

「では、彼の思想はどんなものなのかね?」と老司祭は尋ねた。

二人は教会前広場に来ていた。風が唸りをあげ二人を囲み、助祭の言葉を遮っていた。まともに話が出来るようになると、助祭はただこう言った。

「司祭が医師の診察を受けるのは矛盾であるということです。」

リゥがパヌルーの言葉を伝えると、タルーは、自分はある司祭を知っている、その司祭は戦時中両目を潰された若者の顔を見て信仰を失ったのだと言った。

「パヌルーの言い分はもっともだ」とタルーは言った。「罪もない者が両目を潰されれば、キリスト教徒は信仰を失うか、両目を潰されることを受け入れるか、そのどちらかを選ばねばならなくなる。パヌルーは信仰を失いたくないのだ。だからとことんまで突き進むのさ。それが、彼が言いたかったことだ。」

このタルーの考察は、その後に続いた不幸な出来事、パヌルーの行動が周囲の目には不可解に思えたあの不幸な出来事を多少なりとも明らかにしてくれるのだろうか?その判断は読者に任せよう。


la peste IV ㉖

説教の数日後、パヌルーは引っ越し作業に余念がなかった。その頃になると、ペストが進行したおかげで、都市では始終引っ越しが行われていたのだ。そこで、タルーがホテルを引き払ってリゥの家に居を移さねばならなかったように、神父もまた教団が用意してくれたアパルトマンを引き払い、教会に始終出入りし、まだペストには感染していない、ある老婦人の家に身を置く羽目になった。その引っ越し作業の間、神父は疲労と心労が一層ひどくなっていくのを感じていたのだ。こうして、彼は家主の敬意を失うことになった。というのも、老婦人は聖女オディリアの予言の功徳を熱烈に褒め称えていたのだが、恐らく疲労のせいだったのだろう、神父の方はそんな老婦人に対してほんの僅かばかりの苛立ちを示してしまったからだ。その後、彼女からせめて当たり障りのない好意を示してもらおうとどんなに骨を折っても上手くいかなかった。神父は悪印象を与えてしまったのだ。毎晩、鈎針編みのレースで溢れた寝室に戻る前に、客間に座っている家主の背中を眺めねばならなくなり、後ろを振り向きもせず、素っ気なく彼に投げかけられた「今晩は、神父さん」という言葉だけを土産のように持ち帰るのだった。そんなある晩のこと、ベッドに入ろうとすると、頭がずきずき痛み、数日前からくすぶっていた熱が、手首とこめかみの辺りで一挙に解き放され、駆け巡っているのを感じた。

その後のことは、家主の話で知るしかない。その日の朝、彼女はいつものように早く起きていた。しばらくして、神父がまだ寝室から出て来ないのに驚き、随分躊躇った後、意を決して寝室のドアをノックした。神父は一晩中眠れぬまま、まだ床に就いていた。彼は息苦しさに苦しみ、普段よりも顔が充血しているように見える。家主の言葉をそのまま借りれば、自分は神父様に丁重に、お医者をお呼びしましょうかと言ってみたのだが、神父様はひどく荒々しくお断りになり、自分は残念に思っているということだった。彼女はそのまま引き下がるしかなかった。その少し後、神父は呼び鈴を鳴らし、婦人を呼ばせた。神父は、先ほど癇癪を起したことを詫び、これはペストのはずがない、ペストの兆候は一つも現れていないのだから一時的な疲労に過ぎないと断言した。すると老婦人は、毅然としてこう答えた。自分が医者を呼ぼうと言ったのはそんなことを心配したからではない。自分の身の安全のことなど眼中にはない。それは神様にお任せしているのだから。そうではなくて、自分は神父の健康のことだけを考えているのだ。神父の健康については自分にも責任の一端があると思っているからだと。しかし、神父がそれ以上何も言わなかったので、彼女の言葉を信じれば、家主としての義務を全て果たそうと望んで、彼女はもう一度神父に、自分のかかりつけの医者を呼ぼうかと言ってみた。神父はその申し出を再び断り、その理由を幾つか付け加えたのだが、老婦人にはそれがひどく混乱しているように思えた。彼女が唯一分かったと思えたことは、そしてそれは彼女には理解しがたいものに思えたのだが、神父が医者の診察を拒むのは、それが自分の信条と一致しないからだということだった。そこで彼女は、神父は熱のせいで頭がおかしくなっていると結論付けて、煎じ薬だけを神父に持ってくることに留めたのだった。


それでもとにかく、こうなったからには自分に課せられた義務をきっちり果たそうと心に決めて、老婦人は2時間おきに規則正しく病人を見舞っていた。彼女が一番驚いたのは、神父が一日中絶えず身体を動かし、じっとしていなかったことだ。掛布を跳ね除けたかと思うと、再びそれを引き寄せ、絶えず汗ばんだ額に手を当て、しばしば半身を起しては喉が締め付けられるような、しわがれてじめじめした咳をしていたが、それはまるで何かを吐き出そうとするようだった。そのとき、神父はまるで喉を詰まらせている綿タンポンを喉の奥から吐き出せないように見えた。こんな発作を繰り返した後、神父は仰向けに倒れこみ、精も根も尽き果てた様子だった。最後に、神父は再び半身を起こし、ほんの一瞬前方を凝視していたが、その様子には休みなく身体を動かしていた時以上に激しいものが感じられた。それでもまだ、老婦人は病人の意志に逆らい医者を呼ぶのを躊躇っていた。どんなにただならぬものに見えても、それはただの熱の発作にすぎないかもしれなかったからだ。

それでも午後になると、婦人は神父に話しかけてみたのだが、神父からは支離滅裂な返事が返って来るだけだった。彼女はもう一度、医者を呼びましょうかと訊いてみた。すると神父は身体を起こし、半ば息を詰まらせながら、医者は要らないとはっきり答えた。そこで彼女は、翌朝まで待ち、神父の容態が良くならないようなら、ランスドック通信が毎日10回ほどラジオで繰り返している番号に電話をしてみようと心に決めた。とにかく、家主としての義務を果たそうという気持ちから、彼女は、夜間この間借り人を見舞い、世話をしようと考えていた。しかしその晩、病人に新しい煎じ薬を与えた後、彼女は少し横になりたくなり、目が覚めたのは翌日の明け方だった。婦人は神父の寝室に駆けつけた。

神父は身じろぎもせず横たわっていた。昨日の酷く充血した顔色が蒼白に変わり、顔の形がまだふっくらしていただけにその青白さがますます際立っていた。神父は、ベッドの上に吊ってある様々な色の飾り玉のついた小さなシャンデリアを凝視していた。老婦人が入ってくると、彼は顔を婦人の方に向けた。家主の言によれば、そのとき彼は、一晩中何かに打ち据えられた挙句、最早抵抗力をすっかり失ってしまったように見えた。婦人は神父に、具合はどうかと尋ねてみた。すると神父は、妙に冷静な響きを帯びた声で、具合は良くないが医者は要らない、全て規則通り運ぶために自分を病院に運んでくれればそれで十分だと答えた。婦人は不安に駆られ、大急ぎで電話をかけた。


リゥは正午にやって来た。家主の話を聞いて、彼はただ、パヌルーの言う通りだ、もう手遅れに違いないと答えた。神父は相変わらず冷静な様子でリゥを迎えた。診察してみると、喉の詰まりと息切れを除けば、腺ペスト、あるいは、肺ペストの主な兆候が全く見当たらないことにリゥは驚いた。いずれにしろ、脈は弱く、病状は総じて深刻であったので殆ど希望は持てなかった。

「ペストの主な兆候は一つもありません」と彼はパヌルーに言った。「しかし、実のところ、その疑いはある。あなたを隔離しなければなりません。」

神父は、まるで取ってつけたように奇妙な微笑みを浮かべたが無言だった。リゥは部屋を出て電話をかけ、戻って来た。彼は神父を見つめていた。

「私が傍についていましょう。」と彼は優しく神父に言った。

パヌルーは元気を取り戻した様子で、リゥに目を向けたが、その目には何か熱気のようなものが蘇っているように思えた。それから神父は苦しげに一語一語区切りながら言葉を発した。その言葉に悲しみが込められているか否かは定かではない。

「ありがとう」と神父は言った。「しかし、修道士には友人はいません。全てを神に預けているのです。」

彼はベッドの枕元に置かれた十字架を取ってほしいと言った。そしてそれを手にすると、リゥから顔を背け十字架を見つめた。

病院では、パヌルーは一言も口をきかなかった。彼はまるで物になったように自分に加えられるあらゆる治療に身を任せていたが、もう二度と十字架を手放すことはなかった。しかし、神父の病名は相変わらず曖昧なままだ。リゥの心にはまだ疑念が滞っていた。これはペストとも言えるし、ペストでないとも言える。それに、ここしばらくの間、ペストは診断をはぐらかしては喜んでいるように思えた。しかし、パヌルーの場合、ペストかペストでないかは何の意味もない。その後の経過がそのことを示すことになった。

熱が上がった。咳はますますしわがれたものになり、一日中病人を責めさいなんだ。晩になってようやく、神父は喉を詰まらせていた例の綿のようなものを吐き出した。それは真っ赤だった。急激に熱が上がっている最中でも、パヌルーの眼差しは平然としていた。そして翌朝、ベッドから半身を乗り出して死んでいる姿を発見されたとき、彼の眼差しには何の表情もなかった。パヌルーのカルテには、こう記載された。「ペストの疑いあり」。


la peste IV ㉙

(ミスター・ビーン訳)

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