*ペスト 翻訳 IV (2)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



IV  (2)

9月初旬にかけて、ランベールはリゥの傍らで真剣に仕事をしていた。彼は一日だけ休暇を願い出たのだが、それは男子高校の前でゴンザレスとあの二人の若者と会うはずの日だった。

その日の正午に、ゴンザレスと新聞記者は笑いながらやって来る二人の若者の姿を見かけた。二人の若者は、この前は運が悪かったが、そういうことも覚悟しておかなければならないと言った。いずれにしろ、今週はもう自分たちが歩哨に立つ週ではない。来週まで大人しく待っていなければならない。それからまたやり直そう。ランベールはそれで結構だと言った。そこで、ゴンザレスは来週の月曜日に会うことにしようと言った。しかし今回は、その日にランベールをマルセルとルイの家に落ち着かせることにする。「俺とあんたと二人で会うことにするんだ。もし俺が現れなければ、あんたは直接二人の家に行くことにする。連中がどこに住んでいるかこれからあんたに説明するよ。」しかしその時、マルセル、あるいは、ルイが一番簡単なのは今すぐにランベールを家に案内することだと言った。もしランベールが好き嫌いを言わなければ、4人分の食べ物もある。そうすれば、ランベールも納得してくれるだろう。ゴンザレスは、それは頗(すこぶ)る良い考えだと言って、4人は港の方へ下って行った。

マルセルとルイは海軍地区の端っこに住んでいた。崖っぷちの道に面している市門の近くだ。それは塀で囲まれたスペイン風のずんぐりした小さな家で、ペンキ塗りの木製の鎧戸があり、部屋は暗く家具がなかった。家には米があり、若者たちの母親がそれを出してくれた。皺だらけで、微笑みを浮かべたスペイン人の老婆だ。ゴンザレスは驚いた。というのも、都市では既に米は品不足になっていたからだ。「市門の所で手に入るのさ。」とマルセルが言った。ランベールは飲み食いし、ゴンザレスは、こいつはまぶダチなんだと言った。その間、新聞記者はこれから過ごさねばならぬ一週間のことだけを考えていた。


la peste IV ⑨

ところが、ランベールは二週間待たねばならなかった。何故なら、シフトの数を減らすために歩哨の巡回当番は2週間に引き伸ばされたのだ。そこでその2週間、彼は朝から晩まで、骨身を惜しまずぶっ続けに、いわば余計なことには目をつぶって働いた。夜は遅く床に就き、熟睡していた。無為の生活から突然体力を消耗する労働に切り替わったおかげで、彼は殆ど夢を見ることもなく体力も残っていなかったのだ。近々都市を脱出することについては、殆ど口にすることはなかった。ただ一つ注目すべきことと言えば、一週間後に、前の晩初めて自分は酔っぱらったとリゥ医師に打ち明けたことぐらいだった。バーを出ると、ランベールは突然、鼠蹊部(そけいぶ)が腫れ、腋の下のあたりで両腕がうまく動かない気がしたのだ。そしてその時彼が取り得た唯一の反応、彼もリゥもそれが理にかなったものではないことは認めたのだが、それは都市の高台に向かって走ることだった。そしてそこにある小さな広場、海が見えることは常にないのだが、少しばかり広い空が見えるその広場から、ランベールは都市の城壁越しに、大声で「妻」の名を呼んだのだった。家に戻り、体には感染の兆候が何一つ見当たらぬことが分かると、彼にはこの突然の発作があまり誇らしいものには思えなかったのだ。人がそんな行動をとることがあるのは自分にはよく分かるとリゥは言った。「いずれにしろ」と彼は言った。「そんな気持ちになるのは有りうることだよ。」

「今朝、オトン氏が君のことを話していたよ」ランベールが立ち去ろうとすると、突然リゥが付け加えた。「僕が君のことを知っているかと尋ねてね、『それじゃ、彼に忠告してください』と言ったんだ。『いかがわしい連中とは付き合わないように。そのことで目をつけられていますよ。』とね。」

「それはどういう意味ですか?」

「君は急がなくちゃならんということさ。」

「ありがとう。」とリゥ医師の手を握りながらランベールは答えた。

戸口の所で、ランベールは突然振り返った。リゥは、ペストが始まって以来初めてランベールが微笑んでいることに気が付いた。

「何故先生は僕が出ていくのを妨げようとはしないのです?先生ならそうする手段がおありでしょう。」

リゥはいつもの調子で頭を振り、こう言った。それは自分が口出しをすることではない。ランベールが幸福を求める道を選んだのだから、自分の方は彼にとやかく言う理由はない。このことについて、何が良く何が悪いのか自分には判断出来ないと感じているからだ。

「もしそうなら、何故僕に急げと言うのですか?」

今度は、リゥの方が微笑んだ。

「多分、僕も幸福を実現するために何かしてみたいと思っているからだろうね。」


la peste IV ⑩

翌日、二人はもう何も話さなかったが、一緒に仕事をした。翌週、ランベールは終にあのスペイン風の小さな家に落ち着くことになった。居間には彼のためにベッドが持ち込まれていた。二人の若者は食事の時間には戻らず、それにランベールは出来るだけ外出しないように言われていたので、殆どの時間家に一人で暮らし、若者たちの年老いた母親を相手に話をしていた。彼女は痩せこけてはいるが活発だった。黒い服を着、とてもきれいな白髪で、その下から覗く顔は浅黒く皺だらけだった。寡黙な女で、ランベールを眺めるとき、目だけが微笑んでいた。

彼女はランベールに、「妻」にペストをうつすのが怖くないのかと何度か尋ねていた。ランベールは、それは有り得ないことではないが、結局可能性は少ない、しかし、自分がこのまま都市に残れば、二人は永久に離れ離れになる危険があると考えていた。

「優しい娘(こ)かい?」微笑みながら老婆が尋ねた。

「ええ、とても。」

「綺麗なのかい?」

「そう思います。」

「ああ!」と老婆が言った。「だからだね。」

ランベールはよく考えてみた。多分それもある。でもそれだけが理由のはずがない。

「あんたは神様を信じていなさらないのかね?」と老婆は尋ねた。彼女は毎朝ミサに行っているのだ。

ランベールが信じていないことを認めると、老婆は再び「だからだね」と言った。

「それじゃ、その娘さんのところに行かなきゃ。もっともな話だよ。さもなきゃ、あんたには何も残らないからね。」

その他のときは、ランベールはむき出しの漆喰壁の周囲をぐるぐると歩き回り、壁に鋲で止められた扇を撫でたり、テーブルクロスを縁取っている毛糸玉の数を数えていた。晩には二人の若者が戻って来る。彼らはまだ決行の時期ではないと言う以外はあまり口を開かなかった。夕食が済むと、マルセルがギターを弾き、3人はアニスの香りのするリキュールを飲むのだった。ランベールは物思いにふけっているように見えた。

水曜日、マルセルは家に戻るとこう言った。「いよいよ明日の晩、真夜中に決行だ。準備をしといてくれ。」若者二人と一緒に歩哨を勤めている二人の兵士がいるが、その内の一人がペストに罹ったのだ。もう一人の方は、普段その兵士と寝室を共にしているので、観察措置を受けることになる。だから、2、3日の間、歩哨はマルセルとルイだけだ。夜の間に、自分たちは最後の詰めを行う。明日、いよいよ決行出来るだろう。ランベールは礼を言った。「嬉しいかい?」と老婆が訊いた。ランベールは「ええ」と答えたが何か別のことを考えていた。


la peste IV ⑪

翌日、空はどんよりとして蒸し暑く、息が詰まるようだった。ペストのニュースは相変わらず芳しくない。それでも、スペイン人の老婆は落ち着いたものだ。「罪深い世の中だからね」と彼女は言っていた。「だから、仕方がないのさ!」マルセルもルイも、それにランベールも上半身裸だった。しかし何をしたところで、汗がランベールの両肩の間と胸の上を流れ落ちていった。鎧戸を閉じた薄暗い家の中で、3人の上半身は浅黒く、汗でニスを塗ったように光っていた。ランベールは無言のままぐるぐると歩き回っている。午後4時になると、彼は突然服を着て、外出してくると言った。

「忘れるなよ」とマルセルが言った。「決行は午前零時だ。手筈は全て整っている。」

ランベールはリゥ医師の家に向かった。リゥの母によれば、リゥは都市の高台にある病院にいるということだった。衛兵詰所の前では相変わらず大勢の人々が円を描いて歩き回っている。「立ち止まるな!」と目が飛び出た軍曹が叫んでいた。群衆は前に進んだが、ぐるっと一回りするだけだ。「待っていても何もないぞ」と軍曹は叫び、汗が上着にも滲んでいた。群衆の方もそれは百も承知だった。それでも、殺人的な暑さにもかかわらず彼らはその場に留(とど)まっていた。ランベールが軍曹に通行許可証を見せると、軍曹はタルーのいる事務所を教えてくれた。事務所のドアは前庭に面している。ランベールは、事務所から出てくるパヌルー神父とすれ違った。

薬品と湿ったシーツの臭いがする薄汚れた白い小部屋の中で、タルーはシャツの両袖を捲り上げ、黒い木製のデスクの向うに座っていた。肘の内側を流れる汗をハンカチで拭っている。

「おや、まだいたのか?」とタルーは言った。

「うん、リゥに話があるのだが。」

「リゥなら病室にいるよ。でも彼の手を煩わせなくて済むなら、その方が有り難い。」

「何故だい?」

「疲れ切っているからね。出来るだけ仕事を省いてやりたいのだ。」

ランベールはタルーを見つめていた。タルーは前より痩せていた。疲労のため目が曇り、冴えない表情をしている。頑丈だった両肩も今は小さく丸まっている。ノックの音がして、白いマスクをかけた看護士が一人入ってきた。タルーのデスクの上にカードの束を置くと、マスクのせいでくぐもった声で「6人です」と言ったきり、部屋を出ていった。タルーは新聞記者を眺め、それから6枚のカードを見せ、扇形に開いた。

「綺麗なカードだろ、そう思わないか?実は、そうじゃない、昨夜の死者なのだ。」

タルーの額には深い皺が刻まれていた。彼は扇形に開いたカードを元の形に戻した。

「もう我々に出来ることは、帳簿をつけることだけだ。」テーブルで体を支え、タルーは立ち上がった。

「じき出ていくのか?」

「今晩の午前零時だ。」

それは嬉しい、体に気をつけろよとタルーは言った。

「君は本音でそう言っているのか?」

タルーは肩をすくめた。

「この歳になったら、本音を言うしかないさ。嘘をつくのはしんどすぎる。」

「なあ、タルー」と新聞記者は言った。「先生に会いたいのだ。申し訳ないが。」

「分かっているさ。リゥは俺より人間的だからな。さあ行こう。」

「そういうことじゃないのだ。」とランベールは口ごもり、立ち止まった。

タルーはランベールを見つめ、突然彼に微笑みかけた。


la peste IV ⑫

二人は、明るい緑色に塗られた壁のある小さな廊下を進んで行った。そこには水族館のような光が漂っている。その先には二重のガラスドアがあり、その背後では奇妙な人影が蠢(うごめ)いていた。ドアに着く直前でタルーはランベールを壁一面が戸棚で覆われたひどく小さな部屋に入らせた。タルーは戸棚の一つを開け、滅菌器から吸水ガーゼのマスクを二つ取り出し、一つをランベールに渡して着けるように言った。新聞記者が、これが何かの役に立つのかと訊くと、タルーは、いや、しかし周りの連中が安心するからと答えた。

二人はガラスドアを押し開けた。そこは巨大な病室で、こんな季節なのに窓が密閉されている。壁の上部では換気装置が唸り声を上げ、その湾曲した羽が二列に並んだ灰色のベッドの上でねっとりとして過熱した空気を撹拌していた。病室のあちこちから、鈍い、あるいは、鋭い唸り声が聞こえ、それらが合わさり一つの単調な呻(うめ)き声になっていた。格子のはまった上部の開口部から注がれる強烈な光の中を、白衣を着た男たちがゆっくりと移動している。ランベールはこの病室の酷い暑さで気分が悪くなり、呻き声を上げている人影の上に身をかがめている人物がリゥだと気付くのに苦労した。リゥ医師はその患者の鼠蹊部を切開していたのだが、ベッドの両側では二人の看護婦が大の字に開いた患者の両脚を押さえつけていた。上体を起こすと、リゥは助手が差し出す皿の中に手術道具を落とし、少しの間身じろぎもせずに、患者が包帯を巻かれている様子を眺めていた。

「何か新しい知らせはあるかね?」近づいてくるタルーに向かってリゥは尋ねた。

「検疫所では、パヌルーがランベールの代わりを引き受けてくれる。パヌルーはもうずいぶん仕事をしてくれた。後は、ランベールが抜けた後の第三調査チームを再編成する仕事が残っている。」

リゥは黙って頷いた。

「カステルが最初の血清を完成したよ。試してみたいと言っている。」

「ああ!」とリゥが答えた。「それはなによりだ。」

「最後に、ランベールがここに来ている。」

リゥは振り向いた。マスク越しに、両眼を細めると新聞記者の姿が見えた。

「ここで何をしているのかね?」と彼は言った。「君はここにはいない筈だろう。」

タルーが今晩午前零時に出発すると言うと、ランベールは、「予定では」と付け加えた。

三人がそれぞれ喋る毎に、ガーゼのマスクが膨らみ、口のあたりが湿っていた。そのため、まるで彫像が話しているような具合で、会話にはやや現実味が欠けていた。

「先生にお話があるのですが。」とランベールが言った。

「もし君がよければ、一緒に帰ろう。タルーの事務所で待っていてくれ給え。」


la peste IV ⑬

その少し後、ランベールとリゥはリゥ医師の車の後部座席に座っていた。運転しているのはタルーだった。

「もうガソリンがないね」エンジンをかけながらタルーが言った。「明日は、先生と僕は徒歩で行くことになる。」

「先生」とランベールが言った。「僕は出て行きません。先生たちと一緒に残りたいのです。」

タルーは微動だにしなかった。そのまま車を運転し続けている。リゥは疲労から抜け出せないように見えた。

「それじゃ、彼女は?」リゥはくぐもった声で言った。

ランベールは、自分はもう一度よく考えてみた、自分の信念に変わりはない、しかし今出ていくことは恥だと思うと言った。こんな気持ちのままではパリに残してきた彼女を愛することはできないと。しかしリゥは上体を起こし、強い声で、そんな考えは馬鹿げている、幸福を選ぶからといってなんら恥じるところはないと言った。

「ええ」とランベールは答えた。「でも、自分だけが幸福になるのは恥ではないでしょうか?」

タルーはそれまで黙っていたのだが、二人の方を振り返ることなく、もしランベールが他の人々と不幸を共にするつもりなら、もう二度と彼は幸福を求める時間は持てなくなる、どちらかを選ばねばならぬと指摘した。

「そうじゃないんだ」とランベールは言った。「僕は今までずっと、自分はこの都市ではよそ者だ、だから君たちとは無関係だと思ってきた。でも、これまでの出来事を見てきた今、望もうが望むまいが、自分もこの土地の人間であると思うのだ。この出来事は我々全員に関わっている。」

二人とも返事をせず、ランベールは苛立っているように見えた。

「それに、君たちにはそれがよく分かっているのだ!さもなきゃ、君たちはあの病院で何をしているというのだ?選んだのか、君たちは?幸福を捨てたのか?」

タルーもリゥもまだ返事をしなかった。リゥ医師の家に近づくまで長い沈黙が続いた。そしてランベールは、一層力を込めて最後の質問を繰り返した。すると、リゥだけがランベールの方を向き、大儀そうに上体を起こした。

「すまない、ランベール」と彼は言った。「しかし、私には分からんのだ。君がそう望むのだから、我々と一緒に残ればいいさ。」

車が急カーブを切ったので、リゥは口をつぐんだ。それから正面を見据えながら再び口を開いた。

「この世には、愛するものから目を背けてもいいと言えるほど価値のあるものなどない。それでも、この僕も愛するものから目を背けている。理由は分からんがね。」

リゥは再びクッションに身を沈めた。

「それは一つの事実だ、それだけのことだ」と大儀そうに彼は言った。「その事実を肝に銘じ、そこから結論を引き出してみよう。」

「どんな結論です?」とランベールが尋ねた。

「ああ!」とリゥは答えた。「治療することと、理由を探ることを同時にすることは出来ない。だから出来るだけ速やかに治療をしよう。そちらの方が急務だからね。」

真夜中、タルーとリゥはランベールが調査を担当する地区の地図を作っていた。そのときタルーが腕時計を見た。タルーが顔を上げると、ランベールと目が合った。

「恋人には知らせてあるのか?」新聞記者は目をそらした。

「一言電報を打っておいた」と大儀そうにランベールは言った。「君たちに会いに来る前にね。」


la peste IV ⑭

(ミスター・ビーン訳)

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