*ペスト 翻訳 III (2)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



III  (2)

しかし、闇は市民全ての心の中にもあった。そして巷間伝えられている伝説同様、実際の埋葬も我が市民たちの心を安堵させるようなものではなかった。そこで、申し訳ないが、語り手としてはここでどうしても埋葬のことを語っておかなければならない。その点について、語り手は彼に向けられるであろう非難のことは十分承知している。しかし唯一言い訳がましいことを言えば、ペストの期間を通じて、実際埋葬は行われていたのであり、語り手も全市民同様、ある意味、埋葬に没頭しなければならなかったのだ。いずれにしろ、それは語り手がこの手の儀式を好むからではない。それどころか、語り手は生きている人々の社会、一例を上げれば、海水浴の方が好きなのだ。しかし、結局、海水浴はそのとき出来なくなっていたし、生きている人々の社会は、死者の社会に道を譲る羽目になることを一日中恐れていたのだ。それは、明白な事実だった。それでも無論、その事実を見ず、両目を塞ぎ、拒否しようと努力することは出来た。しかし、明白な事実には恐ろしい力が有り、最後は常に全てに打ち勝ってしまうのだ。例えば、愛する人々を埋葬しなければならぬ日に、埋葬を拒むことなど出来ようか?

ところで、最初我が都市の葬儀を特徴づけていたのは、その迅速さだった!ありとあらゆる形式が簡略化されてしまい、概して葬式は割愛されていた。病人は遺族から遠く離れた所で亡くなり、しかも通夜をするのは禁じられていたので、夜亡くなった者はたった一人で夜を過ごし、昼間亡くなる者は直ちに埋葬されるのだった。無論、遺族には知らされるのだが、たいていの場合、遺族は移動することが出来なかった。遺族が病人の傍らで暮らしていた場合、彼らは隔離されていたからだ。故人と別居していた場合は、遺族は指定された時間、つまり、亡骸(なきがら)を洗い、棺に納めた後、墓地に向けて出発する時間に姿を現すのだった。

仮に、このような葬儀が、リゥが管理している仮設病院で行われたとしよう。小学校には本校舎の後ろに出入り口が一つあった。廊下に面する大きな物置には、棺桶が幾つか収められていた。廊下に入ると、故人の遺族は既に蓋の閉まっている棺桶を一つ目にする。直ちに、最も重要な手続き、つまり、家長によって必要書類のサインが行われる。次に、亡骸(なきがら)が車に積み込まれるのだが、車は本物の霊柩車の場合もあるし、霊柩車仕立ての大型救急車の場合もある。身内の者がまだ営業を認められているタクシーに乗り込む。そして、それらの車列は全速力で都市周辺部の街路を通って墓地に到着する。門の所で、憲兵たちが車列を止め、公式の通行許可証に検印を押す。それがないと、我が市民たちが「終(つい)の棲家(すみか)」と呼んでいる物を手に入れることが出来ないのだ。憲兵たちは姿を消す。車列は進み、正方形の一区画の近くに停車する。そこでは沢山の穴が埋められるのを待ち受けている。司祭が一人、亡骸を迎える。何故なら、教会では「死者追悼のミサ」が行われなくなっていたからだ。祈りの声の中で、棺が引き出され縄がかけられる。棺は引きずられ、滑り、穴の底にぶつかる。司祭が灌水器を振り聖水を振りまくと、既に最初の土が棺の蓋の上で跳ね上がっている。救急車はその少し前にもう出発しており、消毒液を散布されることになる。シャベルで墓穴に放り込まれる粘土の響きが次第に小さくなっていく間に、故人の身内はタクシーに飛び込む。15分後には、彼らはもう自宅に戻っているのだった。

こうして、実際何もかもが最大限のスピードで、リスクを最小限に抑えて行われていた。おそらく、少なくとも最初のうち、遺族の自然な感情は、このような葬儀のやり方に明らかに傷つけられていた。しかし、ペストの時は、遺族の気持ちに配慮するなどということは不可能なのだ。全てが効率を上げるために犠牲にされていた。それに、きちんとした形で埋葬されたいという願いは一般に考えられているより多くの人々が抱いているので、初めのうちこそ、このようなやり方に住民の士気は損なわれていたのだが、幸いなことに、食料補給の問題が微妙になり、住民の興味はもっと切実な関心事に向けられることになった。食料を手に入れたければ、列を作り、手続きを済ませ、書式を満たさなければならない、そんな雑事に心を奪われ、人々は周りで死んでいく人間の死に様、また、いつの日か訪れる自分自身の死に様などにかまけている時間は無かった。こうして、本来災いであるはずの物不足が、後には恩恵であることが明らかになったのだ。そして、もし既に見てきたような形で伝染が拡大していなかったならば、万事この上なく上手くいっていたことだろう。


la peste III ④

というのも、そのころ棺桶が一層品不足になり、経帷子(きょうかたびら)用の布地も不足、墓地では埋葬場所が不足していたのだ。葬儀のやり方について、熟慮しなければならなかった。一番簡単に思えるのは、これもまた効率を考えてのことだが、共同葬儀を行い、必要とあらば病院と墓地の間で車両の往復を増やすことだった。そんなわけで、リゥが勤める部署については、病院が当時使える棺桶は5つ、その5つが一杯になるとすぐに、救急車に積み込まれた。墓地に着くと棺桶は空にされ、鉄色の亡骸(なきがら)は担架に載せられ、死体置き場用の倉庫の中で埋葬を待つことになる。棺(ひつぎ)は消毒剤の溶液をかけられ、病院に引き返す。必要となる度にこの操作が繰り返される。このやり方は大変上手く行ったので、知事は満足の意を表した。知事はリゥに、昔のペストの記録に見られるような二輪馬車、つまり死体を積み込み黒人が御者を勤める二輪馬車よりは、結局の所、この方がずっといいとまで言った。

「ええ」とリゥは言った。「埋葬の仕方は同じですが、我々はカードを作っています。議論の余地のない進歩です。」

これらの行政面での成功にもかかわらず、今やこのような葬儀のやり方に付き物の悍(おぞ)ましさ故に、県庁は死者の身内を埋葬からは遠ざける処置を取らざるを得なくなった。ただ、身内の者が墓地の入り口に来ることは大目に見ていたが、それとても公に認めていたわけではない。何故なら埋葬に関しては、少々様子が変わってしまったからだ。墓地の端の、ランティスク(注:ウルシ科の高木。地中海産で乳香(マスチック樹脂)を採取する)で被われた空き地に、二つの巨大な穴が掘られていた。つまり、男性用の穴と女性用の穴だ。このように穴を二つにすることで、行政側は礼儀を重んじていたのであり、事の成り行きでこの最後の羞恥心も消え去り、品位などはお構いなしに男も女もごっちゃに積み重ねて埋葬したのは随分後になってからの話だ。それぞれの穴の奥では、分厚い生石灰の層が煙をだし、泡を立てていた。穴の端にも、山積みになった生石灰が空気にさらされて泡を飛ばしている。救急車の往復が終わると、列になって担架を運び、軽く捻じれた裸の死体を殆ど隣り合わせになる様に穴の底に滑り落とす。そしてそのとき死体を生石灰で覆い、それから土を被せるのだが、後からやって来る死体を重ねる場所を残しておくために土を被せるのは一定の高さまでに限られる。その翌日、身内の者が名簿にサインをするように促される。この手続きが人間と、例えば、犬との違いを表しており、常に身元のチェックが可能だったのだ。


la peste III ⑤

これら全ての作業には人手が必要であったが、常に人数はぎりぎりの状態だった。最初は公式の、次に、急ごしらえの看護師や墓堀人の多くがペストで死んだ。どんなに用心しても、いつの間にか病気が伝染していったのだ。しかしよくよく考えてみると、何とも驚くべきことに、ペストが流行している間ずっとこの手の仕事に従事する人間には決して事欠くことはなかった。危機に見舞われたのは、ペストがその頂点に達する直前の頃だ。そしてその時期、リゥ医師の不安ももっともだった。管理職についても、リゥが「荒仕事」と呼んでいる仕事についても、人手が足りなかったのだ。しかし、ペストが現実に都市全体を占領してしまってからは、正にそのペストの苛烈さが大変都合の良い結果をもたらしてくれた。何故なら、ペストのためにあらゆる経済活動が崩壊し、かなりの数の失業者を生み出したからである。たいていの場合、失業者たちが管理職の募集枠を埋めることは無かったが、荒仕事の方は失業者で楽に補充が出来た。というのも、それ以来常に貧困の方が恐怖よりも力を発揮したのだ。なにしろ仕事は危険の度合いが高いほど支払われる賃金は高いのだから。衛生部隊の手元には志願者のリストが有り、空きが出るとすぐに、リストの最初に載っている人々に連絡が行った。連絡を受けた人々は、もし彼らも(あの世への)長期休暇に入っていなければ、必ず出頭して来るのだった。こうして、この種の仕事に、有期刑であれ無期刑であれ、罪人を充(あ)てるのを長い間躊躇(ためら)っていた知事は、最後の手段に訴えずに済んだのである。失業者がいる限り、やらずに済むと考えていたのだ。

そこで8月末までは、我が市民たちは、きちんとした形ではないにせよ、少なくとも行政側がちゃんと義務を果たしていると考える形で終の棲家に運ばれていたのだ。しかし、結局は頼らざるを得なくなった最後の手段を報告する前に、少しばかり、一連の出来事を先取りして話しておかなければならない。実際、8月からはペストは安定期に入っていたのだが、累積する犠牲者の数は我が都市の小さな墓地の収容能力を遥かに超えてしまった。墓地の塀を幾つか取り壊し、死者のために周辺の土地に避難所をこしらえたのだが、それも無駄だった。速やかに別の手段を見つけねばならなくなった。最初は、夜間に埋葬することが決められた。夜間なら、あまり死者に対して気を使わずに済んだからだ。ますます増える死体を救急車に山積みすることが出来た。外出禁止時間後も規則を冒して周辺地区に遅くまで出歩いている連中(あるいは仕事で夜間、周辺地区に来ている人たち)は、ときどき白い救急車の長い列を目にするのだった。救急車の列は、閑散とした夜の街路に虚ろな鐘の音を響かせながら全速力で駆け抜けて行く。大急ぎで、死体が穴に放り込まれる。ますます深く掘られた穴の中で、死体が底に落ちる暇(いとま)も無く、シャベルで掬(すく)われた生石灰が死体の顔に激しく当たり、死体は誰とも分からぬまま土で被われるのだった。



la peste III ⑥

しかし少し経つと、別の場所を探さねばならなくなった。しかも、広い場所を手に入れなければならない。県条例により、永代使用墓地に眠る死者からその権利が没収され、掘り返された亡骸(なきがら)は全て火葬場に運ばれた。やがて、ペストで亡くなった死者たちも火葬場に運ばねばならなくなった。しかし今度は、都市の東、市門の外にある旧火葬炉を使用しなければならない。市門の外の衛兵詰所がさらに遠くに移され、ある市職員の発案で、かつて海側の崖を走っていて、今は使われていない市電をペスト患者の死体の運搬に使うことになった。そのおかげで市当局の仕事は随分楽になったのだ。死者を運ぶため、座席を取り払いトレーラー(注:動力車に牽引される客車)と牽引車の内部が改造され、高台の旧火葬炉に向けて路線が変更された。こうして旧火葬炉が始発駅となった。

そして夏の終わりを通じ、その後秋雨の降る中、毎日真夜中に乗客のいない奇妙な市電の列が、海の真上を崖に沿って揺れながら通過する姿が見られた。その正体は終に住民の知るところとなった。人が崖に近づかぬようにパトロール隊が派遣されていたのだが、幾つかのグループは頻繁に、波立つ海の上に張り出している岩壁の中に何とか滑り込み、市電が通過するとき、トレーラーの中に花を投げ込むのだった。そのとき、花と死体を積み込んだ車両が夏の闇の中でまだがたがたと揺れている音が聞こえて来るのだった。

いずれにしろ初めの頃は、朝方に胸の悪くなるような濃い煙が都市の東地区に漂っていた。医者たちは口をそろえて、この臭気は不快ではあるが人を害するものではないと言っていた。しかし東地区の住民たちは、ペストがこうして空から自分たちに襲いかかっているのだと思い込み、直ちに当局に抗議し東地区から離れると脅した。そこで複雑な排気システムをこしらえて煙を迂回させる羽目になり、住民の気持ちも落ち着いた。ただ、風の強い日々には東から微かな臭気が漂って来て、住民たちに自分たちが新たな秩序の中で暮らしていること、ペストの炎が毎晩その貢物を食らい尽くしていることを思い起こさせるのだった。

以上がペスト感染のもたらした極めて深刻な結果だった。しかし、その後感染が拡大しなかったことは幸いである。もし拡大していたら、それは我が役所の智略を、県庁の取り得る措置を、更に火葬炉の焼却能力をもおそらく超えてしまったであろうと考えられるからだ。リゥは、その当時絶望的な解決策、例えばペスト患者の死体を海に投棄する計画を立てていたことを知っていた。リゥには青い海に死体が投げ込まれたときに立つ泡の様子が目に浮かぶようだった。リゥはまた、もし統計数字が増え続ければ、どれほど優秀であっても、いかなる組織も抵抗できないこと、県庁が制止しようがお構いなしに、人々が表に出て折り重なって息絶え、街路で腐り果てて行くこと、そして、公共広場では瀕死の患者たちが、無理からぬ憎しみと愚かしい希望がない交ぜになった気持ちを込めて生き残っている市民たちにしがみつく有様が見られることを知っていた。


la peste III ⑦

(ミスター・ビーン訳)

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