*ペスト 翻訳 III (3)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



III  (3)

いずれにしろ、こうした明白な事実、あるいは不安故に、我が市民たちは流刑と別離の感情を心に抱き続けていた。この点について、極めて残念ではあるが、真に華々しい事柄をここでは何一つ報告できないこと、語り手はそれを十分承知している。例えば、古(いにしえ)の物語にあるような、人々を鼓舞するヒーローの存在や目覚ましい行為といったものは何一つ報告できない。というのも、災禍ほど華々しさに欠けるものはないからなのだ。大いなる災いは、長引けば長引くほど単調なものになる。災いを実際に体験した人々の思い出の中で、ペストのあの恐ろしい日々は、華々しく燃え盛る残酷で大きな炎というよりはむしろ、足元にあるものを全て押し潰すいつ果てるとも知れぬ足踏みのように見えていたのだ。

そう、ペストは感染の初期にリゥ医師の心に付きまとっていた刺激的で壮大なイメージとは程遠い存在だった。ペストとは先ず、慎重で、完全無欠の、有効に機能する管理機構であった。ついでに申しあげれば、だからこそ語り手は何事も歪めぬように、とりわけ、語り手自身の思いを歪めぬように客観的に語ることを目指してきた。ほぼ首尾一貫した報告を行うのに最低限必要な場合を除き、語り手は芸術的効果を狙って事実に修飾を加えようとしたことは殆ど無い。そして語り手は、正にその客観性の命ずるままに語るのだが、別離はこの時期の大きな苦しみであり、最も広く見られた、最も深い苦しみであったが、また、ペストがこの段階に達した時期に、その苦しみを新たに詳述することは確かに必要不可欠であるのだが、それでもこの別離の苦しみ自体がその痛切な感情を一部失っていたことも事実なのだ。

我が市民たち、少なくともこの別離に最も苦しんでいた人々は、その状況に慣れてしまったのだろうか?そう断言してしまうのはやや正確さに欠けるだろう。彼らは肉体同様心もやせ細っていったと言う方が正確なようだ。初めの頃、彼らは別れた人のことを非常によく覚えており、その不在を悲しんでいた。しかし、愛する人の顔や笑い、あの日は幸福だったと後に思い返す日のことを鮮明に覚えてはいたのだが、彼らが正にその人のことを思い起こしていた時間に、今やひどく遠く離れた地で相手が何をしているのかを想像することは難しかったのだ。要するに、そのとき彼らには思い出は有ったのだが、想像力が不十分だった。ペストが第二段階にさしかかると、彼らはその思い出も失った。愛する人の顔を忘れてしまったからではない。しかし、結局同じことになるのだが、愛する人の肉体を失ってしまったのだ。彼らは自己の内側にその人の肉体をもう認めることは無くなっていた。最初の数週間何かにつけて彼らは、もはや愛する人の持ち物に漂う影法師しか相手に出来ないと嘆いていたのだが、後に、その影法師すら次第にやせ細っていき、思い出が残してくれたごく微かな色合いすら失われていくことに気付くのだった。そしてこの長い別離が終わる頃は、かつて二人の間にあった親密さも、いつでも手で触れらる筈の相手が自分たちの傍らでどのように暮らすことが出来たのかということも、もはや思い描くことは無かったのだ。


la peste III ⑧

このように見てくると、彼らはペストが課した秩序そのものの中に入り込んでいた。その秩序はずっと冴えないものであっただけにますます効力を発揮したのだ。我が市民は、もう誰一人として燃えるような想いを抱くものは無かった。誰もが変化に乏しい単調な感情を抱いていたのだ。「もう終わってもよい頃だ。」と彼らは口にしていた。何故なら、災禍に見舞われたときには、集団全体が味わっている苦痛が終わることを願うのは当然であり、実際、彼らは事態が終息することを願っていたのだから。しかしその願いは全て、初めの頃のように熱っぽく、辛辣な感情をこめて語られることは無かった。ただ単に、相変わらず明確ではあるが取るに足らぬ理由をいくつか挙げて語られていたのだ。初めの数週間に見られたような荒々しく、激しい感情は影をひそめ、落胆の思いが支配していた。それを諦めと取っては誤りであろうが、それでもそれは、ある種の馴れ合いを表すものであった。

我が市民たちは足並みをそろえ、言わば、順応していた。他に取るべき手段が無かったからだ。当然彼らには、まだ不幸であり苦しんでいる様子が見られたが、もうその痛みを鋭く感じ取ることは無くなっていた。それに、例えばリゥ医師の考えでは、それこそ正に不幸であり、絶望に慣れることは絶望そのものよりも悪かったのだ。それ以前は、別離に苦しむ人々は本当の意味で不幸ではなかった。彼らの苦しみの中にはまだ消えたばかりの光の名残があった。今や、街角で、カフェで、あるいは彼らの友人の家で、心乱れることも無く放心している彼らの姿が見られる。いかにも退屈そうな眼差しであり、彼らのおかげで都市全体が一つの待合室のような趣(おもむき)になっていたのだ。まだ職に就いている者は、いかにもペスト風の流儀で仕事をこなしている。つまり目立たず、細心の注意を払ってやっていた。別離に苦しむ人々は初めて、不在者を話題にすること、それをありきたりの言葉で語ること、まるで疫病の統計数字を扱う様に別離を検討することに何の嫌悪も感じなくなっていた。彼らはそれまで頑として自分の苦しみを都市全体の不幸からは切り離していたのだが、今やその二つを混同するようになっていた。思い出も失い、希望も失った彼らは「現在」に腰を据えていた。確かに、彼らにとって何もかもが「現在」になっていたのだ。これは是非言っておかねばならぬが、ペストは全ての人から愛する力を、いや、友情を育(はぐく)む力をすら奪っていたのである。何故なら、愛するには多少なりとも未来が必要だからだ。ところが我々には、もはや束の間の「現在」しか残されていなかったのである。


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無論、こうした事態が常に絶対的であったというわけではない。何故なら、確かに別離に苦しむ全ての人々が結局はこのような状態に陥ってしまったのだが、正確を期して付け加えれば、彼ら全員が同時にそうなったわけではない。また、ひとたびこのような精神状態に陥っても、閃光のように突然正気が蘇(よみがえ)り、より若々しい、より苦痛に満ちた感覚に立ち戻ることが何度かあったのだ。そうなるには、こうした放心の瞬間が必要だった。彼らはペスト終焉も含む計画のようなものを立てていたのだ。そのとき思いがけず、何か恩寵のようなものが訪れて、対象の定まらぬ嫉妬の念に苛(さいな)まれねばならなかった。週の何日か、つまり日曜日は勿論だが、土曜の午後などに無気力状態から抜け出し、突然感情が蘇る者たちもいた。何故ならそうした曜日には、不在者が傍らに居た頃、二人で決まってやることが有ったからだ。あるいは、日が暮れる頃に彼らを捉える憂いにも似た気持ちは、常に確実とは言えないまでも、再び記憶が蘇ってくることを予告してくれるのだった。この夕暮れ時は、信者にとっては良心の糾明の時なのだが、検討すべき対象が空虚なものでしかない囚人あるいは流刑者にとっては耐え難い時間なのだ。その時彼らは一瞬高みに上るのだが、それから再び無気力に戻り、ペストの中に引き籠るのだった。

既にお分かりのように、ペストの下で暮らすということは最も個人的なものを捨て去ることであった。初めのころ、彼らは自分にとっては重要であるが他人にとっては無に等しい細々としたことが沢山あることに驚き、職業生活を営んできた。しかし今は逆に、彼らは他人が興味を持つことにしか興味を持たず、もはや一般的な観念しか頭には無かった。そして彼らが愛する人の姿すら、極めて抽象的なものになってしまったのだ。彼らはそれ程までペストに身を任せていたので、ときにはもはや眠りだけを頼みとし、「リンパ節だ、もうけりをつけてくれ!」と思わず考えてしまうこともあった。しかし、実際、彼らはもう眠っていたのであり、この期間は全て長い眠りにすぎなかったのだ。都市は目を開けたまま眠っている人々に溢れていた。そして、実際ごく稀にしか彼らがその境遇から逃(のが)れることは無かったのである。そのときは、閉じていたかに見えた傷口が夜中に突然また開くのだ。すると彼らは、はっと目を覚まし、うずく傷口を半ば呆然として探り、突然蘇った苦しみと、同時に、愛する人の動転した表情を鮮明に思い起こすのだった。そして朝が来ると、彼らは再び災禍の世界、つまりいつもの決まりきった生活に戻って行くのだ。


la peste III ⑩

しかし、愛する人と引き裂かれたこの人々はどんな表情を浮かべていたのかと人は問うだろう。答えは簡単である。彼らは何の表情も浮かべていなかったのだ。あるいは、もしこう言ってよければ、皆と変わらぬ表情、全く皆と同じ表情をしていた。都市全体に広がっている冷静さと子供っぽい心の動揺、彼らもそれを共有していた。冷静な外見を手に入れる一方で、彼らはそれまでの批判センスが窺える外見を失っていた。例えば、彼らの中で最も知的な連中ですら他の市民たちと同様に新聞やラジオ放送の記事の中に、ペストの急速な終息を思わせる理由を探したり、新聞記者が退屈のあまり欠伸をしながら書きなぐった考察を読んで、どうやら荒唐無稽な希望を抱いたり、根拠のない恐れを抱く素振りをするのが見られたのだ。それ以外は、ビールを飲むか病人の看護をしたり、だらだら時間を過ごすか疲れてへとへとになったり、カードを分類するかめくら滅法にレコードをかけたりしていたのだった。言いかえれば、彼らはもう何も選ばなくなっていた。ペストは価値判断を奪ってしまっていたのだ。そしてそのことは、誰ももう購入する服や食料の質など気に掛けなくなってしまったことにも見て取れた。つまり、全てを丸ごと受け入れていたのだ。

最後に言えるのは、愛する人と切り離された人々は、最初彼らの身を守っていたあの奇妙な特権をもう持っていなかったことだ。彼らは愛のエゴイズムとそこから引き出される利益を失っていた。少なくとも、今や状況は明らかであり、災禍は全員に関わる問題となっていた。市門で鳴り響く銃声に囲まれ、我々の生と死を分かつ消印の間で、火事と分類カード、恐怖と様々な手続きの間で、悍(おぞ)ましい煙を眺め救急車の静かな鐘の音を聞きながら、屈辱的ではあるが記録はされる死を約束され、我々は皆流刑という同じ糧で身を養い、等し並に心揺さぶる再会の時と平和の訪れを、それとは知らず待ち受けていた。おそらく我々の愛は常に消えることは無かったのだが、ただそれは役には立たず、運ぶには重く、心の中で眠りこけ、まるで犯罪や刑罰の様に不毛なものになっていた。愛はもはや未来を持たぬ忍耐、依怙地な待ちの姿勢にすぎなくなっていた。こう見てくると我が市民のある者たちの態度は、町の四隅に見られる食料品店の前に並ぶあの長い待ち行列を思わせるものだった。そこには同じ諦めと、際限のない、と同時に、何の幻想も抱かぬ同じ辛抱強さがあった。ただ、「別離」に関してはこの感情はきっと千倍も激しいものだったに違いない。何故なら、そこには肉体的な空腹感とは別の空腹感があり、それは全てを貪りつくしかねないものであったからだ。

いずれにしろ、仮に我が都市で別離を味わっている人々の精神状態を正確に理解したいと望むなら、あの常に変わらぬ夕暮れ、黄金の光に包まれ埃にまみれた夕暮れ、男も女もありとあらゆる街並みに繰り出してくる間、立木一つない都市に訪れるあの夕暮れを再び思い起こさねばなるまい。何故なら、不思議なことに、そのときまだ陽に照らされたテラスに立ち昇って来るのは、普段ならいかにも都市の言語そのものと言える車や機械の音ではなく、足音と微かな人声が混じりあった大きなざわめき、重苦しい空にひゅうひゅうと響く殻竿(からざお)のリズムに合わせて何千もの靴底が苦しげに地を引きずる音だけになっていたのだ。いつ果てるともしれぬ息苦しい足音、それが少しずつ都市全体を満たし、夕闇が訪れる毎に当時我々の心の中で愛に置き換わっていた盲目的な執着心を最も忠実に、そして最も陰鬱に表しているのだった。


la peste III ⑪

(ミスター・ビーン訳)

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