*異邦人 翻訳*(第一部 第三章) | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

ミスター・ビーンのお気楽ブログ

好きな音楽の話題を中心に、気の向くままに書いていきます。

アルベール・カミュ
$ミスター・ビーンのお気楽ブログ-一部 第1章①


36分36秒から51分23秒まで



「異邦人」(1942)

第1部

第3章


今日、僕は事務所でずいぶん働いた。社長は愛想が良い。疲れてないかと訊いてくれ、母さんの歳も知りたがった。間違えるといやなので「60代でした」と答えたが、どういうわけか社長はほっとした様子で、一件落着といった顔をしていた。

僕のテーブルの上には船荷証券が山積みになっている。全てに詳しく目を通さなければならなかった。昼飯を食べに事務所を出る前に手を洗った。僕は正午のこの瞬間が大好きだ。夕方だとそれ程嬉しくはない。手を拭くのに使う回転式のタオルがすっかり濡れているからだ。なにしろ一日中使われていたのだから。ある日、そのことで社長に文句を言った。遺憾には思うが些細なことだ。それが社長の答えだった。少し遅れて、つまり12時半に事務所を出た。配送部で働いているエマニュエルと一緒だ。事務所は海に面していて、僕たちは太陽で焼けつくような港に泊まる貨物船を見て少し時間を潰した。凄まじいチェーンや破裂音の中を、トラックが一台やって来た。「行こうか?」とエマニュエルが言い、僕は走り出した。トラックに抜かれると、僕たちはトラックの後を追いかけた。騒音と埃に包まれてもう何も目に入らない。感じるのは走ることのあの訳のわからない高揚感だけ。ウィンチや機械、水平線に踊る船のマスト、脇を流れるように過ぎて行く船腹、そんな景色の中を走るのだ。僕が最初に追いつき、素早く飛び乗った。それからエマニュエルが座るのを手伝ってやる。二人とも息が切れている。埃と陽光の中、トラックは波止場の凸凹な舗石の上を跳ねるように進んでいった。エマニュエルは息が切れるほど笑っている。

僕たちは汗だくになってセレストの店に着いた。セレストは相変わらずの格好で店にいる。出っ張った腹にエプロン姿、それに白い口髭。「大丈夫かい?」と訊いてきたので、「うん。腹がへってる。」と答えた。大急ぎで食事をし、コーヒーを飲む。それから家に帰り、少し眠った。ワインを飲み過ぎたからだ。目が覚めると、タバコが喫いたくなった。遅くなったので市電に間に合うように走る。午後は休まず仕事をした。事務所の中はひどく暑い。夕方事務所を出て、波止場沿いにゆっくり歩いて帰るのが嬉しかった。空はグリーンになり、満ち足りた気分だ。それでも家にはまっすぐ帰った。ジャガイモを茹でておきたかったからだ。


第1恥部 第3章①

暗い階段を上っていると、僕はサラマノ爺さんとぶつかった。同じ階にいる隣人だ。爺さんは犬を連れている。僕は八年前から爺さんと犬が一緒にいるのを見ている。犬はスパニエル犬で、皮膚病にかかっている。紅斑病だと思うが、皮膚は体毛が殆ど抜け、斑点と茶色の瘡蓋(かさぶた)に被われている。狭い寝室で飼い犬とだけ暮らしてきたせいか、サラマノ爺さんも飼い犬に似てきた。顔には赤みがかった瘡蓋があり、体毛は黄色くまばらだ。犬の方も猫背のところが飼い主と似てきている。鼻づらを前に出し、首がピンと張っている。どちらも同類という外見だが、互いにひどく憎み合っている。日に二回、11時と6時に爺さんは犬を散歩に連れて行く。八年前から散歩のコースは変わっていない。リヨン通り沿いに爺さんと犬の姿を見かけるのだが、犬が爺さんをぐいぐい引っ張って、挙句の果て爺さんは躓いてしまう。すると爺さんは犬を殴り、口汚く罵るのだ。犬の方は怖がって這いつくばり、爺さんに引き摺られていく。今度は引っ張って行くのは爺さんの方だ。犬がそのことを忘れると、またぞろ主人を引っ張り、またぞろ殴られ罵られる。そうなると、飼い主と犬は歩道で立ち止まりお互いに睨み合う。犬は恐怖の眼差し、飼い主は憎しみの眼差しで睨み合うのだ。毎日こんな具合だ。犬が小便をしたがっても、爺さんは時間を与えない。犬を引っ張り、犬の方は滴(しずく)を垂らしながら飼い主の後をついて行く。たまたま犬が寝室で小便でも洩らそうものなら、またぞろ爺さんに殴られる。それが八年も続いているのだ。セレストはいつも「悲しいことだ。」と言っているが、結局だれにも本当のところは分からない。階段ではちあわせしたとき、サラマノは犬を罵っているところだった。「馬鹿野郎!この悪党めが!」と爺さんは罵り、犬の方は唸り声をあげていた。「こんばんは。」と声をかけたが、爺さんは相変わらず犬を罵っている。そこで、犬が何をしたのか爺さんに訊いてみた。しかし爺さんは僕の質問には答えず、「馬鹿野郎!この悪党めが!」と言うばかりだった。どうやら爺さんは犬の方に身をかがめて、首輪の上にある何かを直しているらしい。さっきより大きな声で声をかけてみた。すると爺さんは振り返りもせずに、怒りを抑えた声で、「こいつはいつもこうなんだよ。」と答えた。それから、四足で踏ん張りながらも引きずられ、唸り声をあげている犬を引っ張り、爺さんは行ってしまった。

第一部 第3章②

丁度その時、同じ階のもう一人の隣人が入って来た。界隈の噂では、ヒモ暮らしをしているそうだ。それでも、仕事を訊かれると「倉庫番」と言っている。おおむね、あまり好かれてはいない。しかし僕にはよく話しかけてきて、ときどき僕の部屋で時間をつぶす。こちらが話を聴いてやるからだ。僕はこの男の話は面白いと思っている。それに彼と話をしない理由など何もない。名前はレモン・サンテス。かなり小柄で肩幅が広く、鼻はボクサーのようだ。身だしなみはいつもきちんとしている。彼もサラマノの話題になると、「なんとも悲しいことだ!」と僕に言った。「嫌にならないか?」と訊くので、「別に。」と答えた。


階段を上ると、別れ際にサンテスが言った。「家にブーダン(豚の脂身と血の腸詰)とワインがあるんです。一緒に食べませんか?...」それなら料理をしないで済むと思って僕は誘いに乗った。彼の家も寝室は一つ、窓のないキッチンがあるだけだ。ベッドの上部には白とピンクの漆喰の天使像、チャンピオンの写真が数枚、ヌードのピンナップが2,3枚貼ってある。寝室は汚れていて、ベッドは乱れたままだ。サンテスは先ず石油ランプを点け、次にポケットからかなり薄汚い包帯を取り出し右手に巻いた。どうしたんだと訊くと、因縁をつけてきた奴と喧嘩をしたと言う。

「お分かりでしょう、ムルソーさん」と彼は言った。「わたしゃ喧嘩っ早くはないんですが、血の気が多くてね。相手がこう言ったんです。『男なら市電から降りろ。』って。だから、『おいおい、落ち着いたらどうだ。』と言ったんです。するとまた『お前は男じゃない。』とぬかした。それで市電から降りて言ってやった。『いい加減にしろ、大人しくした方が身のためだ。さもなきゃ分別を教えてやるぜ。』って。『ふん、どうやって?』とぬかしやがった。そこで一発食らわしたんです。奴が倒れたんで、起こしてやろうとしました。でも寝たままキックを食らわせてきた。こっちは膝蹴りを一発、顔面にパンチを二発見舞ってやりました。奴の顔は血だらけです。『思い知ったか。』って訊くと、『分かりました。』と言いましたよ。」

その間ずっと、サンテスは包帯を直し、僕はベッドに座っていた。「お分かりでしょう。こちらから仕掛けたわけじゃない。失礼なのは奴の方です。」その通りだし、僕もそれを認めた。するとサンテスは声高に言った。だからこそこの件でご相談したい、あなたを男と見込んでいるし、あなたは世間の事も分かっている、だから自分を助けてもらえそうだし友だちになりますよといった具合だ。僕が何も言わなかったので、自分と友達になりたくはないかと重ねて訊いてきた。「どちらでも」と僕が答えると、それで満足した様子だ。それからブーダンを取り出し、フライパンで焼く。そしてグラスと小皿、ナイフとフォーク、ワインを二本並べた。その間、ずっと無言のままだ。それから僕たちは食卓についた。食事をしながらサンテスは僕に身の上話を始めたが、最初は少しためらっている。「一人のご婦人と知り合いましてね…まあ、言ってみれば愛人てやつです。」取っ組み合いをした例の男はその女の弟だった。自分がその女を養っていたとサンテスは言う。僕は何も返事をしなかったが、彼はすぐにこう付け加えた。街の噂は知っているが、良心に恥じる所は無い。自分は倉庫係をして働いている。


第一部 第3章③

「話を元に戻しますが」と彼は言った。「何か誤魔化しがあるのに気づいたんです。」女にはちゃんと生活費は渡している。部屋代も自分が払うし、食費として日に20フラン渡している。「部屋代300フラン、食費が600フラン、ときどきストッキングも買ってやりますから、1000フランになります。おまけにマダムは働いていない。でも、それじゃきつい、私が渡す金じゃやってけないとおっしゃる。しかし私も言いましたよ、『なぜ半日ぐらい働かないんだ?その金を細々した買い物に当てれば、随分俺も楽になる。今月は一切合財お前さんに買ってやっただろう。日に20フラン渡しているし、部屋代も渡している。ところがお前ときたら、お友だちと午後のコーヒーとしゃれ込んでいる。コーヒー代も砂糖代も奢ってやる始末だ。お前に金を渡しているのはこの俺だ。随分良くしてやってるのに、恩を仇で返すんだからな。』でもマダムは働きません。相変わらずこれじゃやってけないの一点張りです。そんなわけで、何か誤魔化しがあると気づいたんですよ。」

サンテスの話によると、それから女のバッグに宝くじの券が見つかり、女の方はそれをどうやって買ったのか説明ができなかった。その少しあとで、今度は女の部屋で質札が見つかりブレスレットを二つ質に入れたことが分かった。それまで自分は、ブレスレットがあるなんて知りもしなかった。「これで誤魔化しがあるのがはっきりしました。それで、女と別れたんです。でも最初は叩いてやりましたがね。それから歯に衣着せず言ってやったんです。お前の望みは、ただただ遊び暮らすことだってね。お分かりでしょう、ムルソーさん、あの女に言った通りに言えば、こうですよ。『お前にゃわかっちゃいない。お前に与えてやる幸福な暮らしを世間じゃ羨んでるってことがな。後になって、自分がどんなに幸せだったかわかるだろうよ。』」

サンテスは血が出るまで女を殴ったのだ。それ以前は殴ったことは無い。「叩いたことはありますよ、でもまあ優しくですがね。女は少し泣いて、私は鎧戸を閉める。普段ならそれでおしまいです。でも今度ばかりは許せない。私にしてみれば、あの女をまだ十分懲らしめていないんです。」

それからサンテスは、そんなわけで自分には助言が必要だと僕に説明した。そして話を中断して焦げて黒くなったランプの芯を調整する。僕の方は、相変わらず彼の話を聴いていた。ワインを1リットル近く飲んでしまったので、こめかみのあたりがひどく熱い。もう自分のタバコは残っていなかったのでレモンのタバコを吸っていた。市電の終電が通り、街のざわめきを今は遠くに運んで行った。レモンは話を続けた。厄介なのは、「自分がまだ女とのセックスに未練があることです。」でも、女を懲らしめてやりたい。最初考えたのは、女をホテルに連れ込んで風紀警察を呼んで騒ぎを起こす、そして女を公娼に登録させる。次に、ヤクザの友人何人かに声をかけた。しかし連中も妙案は浮かばない。レモンが僕に言っていたのだが、それでヤクザとは聞いてあきれる。彼が連中にそう言ってやると、女に「焼きを入れる」のはどうかと言ってきた。しかし自分はそんなことはしたくない。これからじっくり考えることにする。その前に僕に頼みたいことがある。それに、頼む前に僕がこの話をどう思うか自分は知りたい。そこで僕は、別にどうも思わないが面白い話だと答えた。誤魔化しがあると思うかと訊いてきたので、それは大いにありそうだと答える。女を懲らしめなきゃいけないと思うか、自分が同じ立場ならどうすると訊くので、はっきりしたことは分からないが女を懲らしめたいという彼の気持ちは分かると答えた。僕はまた少しワインを飲んだ。レモンはタバコに火を点け、自分の考えを打ち明けた。自分はパンチが効いていて、しかも女を後悔させる内容の手紙を書きたい。手紙を読んで女が戻ってきたら、自分は女と寝る。そして事が終わった途端、女の顔に唾をはきかけ外に放り出す。確かに、そのやり方なら女を懲らしめたことになると僕は思った。しかしレモンは、自分には然るべき手紙が書けそうもない。そこで代わりに僕に書いてもらおうと考えたのだと言った。僕が黙っていると、今すぐ書いてもらって差し支えないかと訊く。僕は「別にかまわない」と答えた。


第一部 第3章③

それからワインを一杯飲んだ後、彼は立ち上がった。小皿と食べ残し冷たくなったわずかばかりのブーダンを押しやり、蠟引きのテーブルクロスを念入りに拭いた。ナイトテーブルの引き出しから、方眼紙と黄色い封筒、赤い木製の小さなペン軸と紫のインクが入った四角いインク壺を取り出す。女の名前を聞かされたとき、女がムーア人だと分かった。僕は手紙を書いた。少々いい加減に書いたのだが、レモンを満足させるように気を配る。彼を満足させない理由はないからだ。それから大声でその手紙を読み上げた。レモンはタバコを吸い、頷(うなず)きながら聞き、もう一度読んでくれと言ってきた。レモンはすっかり満足している。「思った通り、あんたは世間を知っている。」と彼は言った。最初、僕は彼が「あんた」呼ばわりしていることに気付かなかった。彼が声高に、「これで、あんたはマブダチだ。」と言ったとき初めてそれに気づきショックを受けた。同じ言葉を繰り返すので、僕は「そうだな。」と言う。僕が彼の友だちかどうかはどうでもいい。レモンは本当に僕と友だちになりたそうな様子をしていたのだ。彼は手紙に封をし、僕たちはワインを飲み終えた。それから無言のまましばらくタバコをふかす。外は全てが静まりかえり、一台の車が滑るように通り過ぎて行くのが聞こえた。「夜が更けたな。」と僕が言う。レモンもそう思っていた。時が過ぎるのは早いとレモンは言ったが、ある意味、それは本当だ。僕は眠かったがなかなか立ち上がれない。きっと疲れた顔をしていたのだろう。投げやりになっちゃいけないぜとレモンが言った。最初、その言葉の意味が分からなかったが、彼はその後こう続けた。自分はあんたの母さんが死んだことは知っている。でも、それはいつかは起こることなのだと。僕も同じ意見だった。

僕が立ち上がると、レモンは僕の手をぎゅっと握り、「男同士、いつでも分かり合えるさ」と言った。彼の部屋を出てドアを閉め、踊り場の闇にしばらく佇む。ハウスは静まりかえり、階段の吹き抜けの奥から暗い湿った風が吹き上がってくる。聞こえるのは耳元で鈍く鳴っている拍動だけだ。僕は動かずじっとしていたが、サラマノ爺さんの部屋では例の犬が低い唸り声を上げていた。


第一部 第3章⑤

(ミスター・ビーン訳)

ペタしてね


宝石赤夜のガスパールより「オンディーヌ」(ラヴェル)