↑ 筆者(右)と共にRC機プロジェクトに邁進した盟友若松氏との懐かしきショット
↑ ラジコン技術誌 1975年11月号より
■画期的な超軽量RC機の開発
STORK開発の時系列資料を分析していたところ、2月10日から2月末日までの間、一切の記録がないことに気付いた。他の資料と突き合わせてみた所、この間ラジコン機「AKA02、AO02」の開発に集中していたことが分かった。
本機は、STORK開発にとって極めて大切な機体なので、詳細を解説する。
↑ 本機製作中に検討した、マスコットマーク
■着想とヒント
当時は受信機、サーボ、バッテリー共に現在より十倍以上重く、02エンジン機は、うまくいってもゆっくりダラダラ飛ぶのが精いっぱいだった。
何でも試算することが好きな私は、人力飛行機や室内機、手掛けた軽量ラジコン機などの数値を突き合わせ、02エンジンでもロールや宙返りが楽にできる機体を開発できそうだと気づいた。
記録によると、1974年11月24日に錦糸町駅ビルのステーションホビーで、COX TD02エンジンを購入、重量や性能に目途をつけ、初期タイプの三面図を即日書き上げている。
↑ 原案図面
■メカの軽量化
当時としては珍しい、小型ニッカド電池と最新の小型サーボモーターを二個購入、秋葉原の電気屋街で超小型スイッチも買い込んだ。
受信機やバッテリーはケースを外し、ケーブルを短く切り詰めた。安定化回路の抵抗など素子を取り外し、アンテナ線を半分に切って軽量化するなどの実験も行った。
その結果、当時の常識的な超小型メカセットに比べ重量はほぼ半分の160g~168gに仕上がった。
↑ パーツ重量をリスト化し、軽量化を検討
■非力なパワーで自在なアクロを行うとは?
非力なパワーを最大限に活かし、自在にアクロバット飛行ができる機体とはどのような機体なのだろう。ベストな機体外形はどのようにすれば見つかるのだろう。細部はどう設計したら良いのだろうと思案した。
エンジン(パワー)が決まり、搭載量(メカと動力部重量)が決まった。残る自由度は機体形状と大きさだ。そしてその形状と大きさで最も軽く作った場合、重量はいくらになるか、これが解決すべき最後の謎となる。
非力なパワーで最大限のアクロバット飛行を行うとは、科学的にどういうことなのか、と考えた。
結論の一つは、アクロに使えるパワーは「エンジンパワーから、水平飛行に必要な最小限のパワーを差し引いたもの」つまり余剰パワーが、機体を振り回す力の源だということ。
二つ目は、機体形状が大きければ重く鈍重になり、小型であれば軽く自在に引っ張り振り回せる。
三つめは、軽く大きく作れば翼面荷重が小さくなるから、小さな速度でもひらりひらりと自在に運動できる。翼面荷重が大きいと、旋回半径は大きくならざるを得ず、非力なパワーと相まってアクロ後半で余裕がなくなる。
これらをまとめると「必要パワー最小の機体が、余剰パワー最大の、求める機体である」ということになった。
この時点では、エンジンパワーの値は資料が手元に無く、知ることができなかった。そのため、他のエンジンデータや、取り付けられたプロペラと回転数実績などから値を突き合わせ、性能を算出した。その結果、COX TD02の最高出力は0.041PSと算出された。
■大きさと重量
ここまで分かると、次は機体サイズによる「大きさと重さの関係」を解明しなければならない。
アスペクトレシオの大きな細長い翼の機体や、デルタ翼の機体など、散漫な形状を比べ議論しても見通しは立てにくい。そこで航空機として常識的な無駄のない形状をモデル機とし、これを相似形のまま小型化あるいは大型化し、重量と性能を比べた。
主翼桁は強度計算にかけ、部材サイズを決めた。また胴体他も墜落破壊時の壊れ方などから、バランスの良い強度になるよう考えた。
重量は、構造形式によって同じ形の機体でも違ってくるから、これまでに作った機体の実績を考えながら、最適最軽量な構造を考えた。小型、中型、大型でそれぞれ最適な構造の機体を設計し、部品重量を積算、各型ごとの機体重量をプロットし、グラフ化すると思った大きさの機体重量を知ることができた。
機体重量が分かれば、サイズごとの翼面荷重や失速速度、パワー重量比などが算出できる。
この関係から、翼面積8d㎡、総重量300gを設計計画値とした。もう少し大きな機体の場合でも余剰パワーは同等で、性能はあまり変わらないことが計算で分かった。しかし大きい機体は素早い姿勢変化に有害なので、小さめに決めることにした。
アスペクトレシオや尾翼面積などは、モデル機に近いものとして全体形状をまとめた。
↑ モデル機の大きさを相似形に変化させたときの、重量と翼面荷重
■翼型
飛行性能を決める重大な要素として、主翼翼型がある。この時点での私の知識は、軽飛行機からレシプロ戦闘機辺りの理論と実際であったから、模型飛行機クラスのレイノルズ数におけるデータは、あまり持ち合わせていなかった。というより経済的に価値の小さな、模型飛行機や鳥・昆虫レベルの飛行には世界的に研究予算は配分されずほぼゼロで、ほとんど何も解明されていなかった。
NACAのデータや、わずかに手に入った低レイノルズ数実験結果(多くはあいまいなデータに思えた)を手掛かりに、本機専用の翼型を開発した。
必要パワー最小の機体を狙う訳だから、最大揚力係数のなるべく大きな翼型(翼厚13.5%、前縁半径大きめ)にしなければならない。さらに背面飛行やロールも素直に一直線に行いたいから、キャンバーはなるべく小さく(1.75%)する必要があった。失速は穏やかで最後までエルロンの効く翼型にするため、13.5%の翼厚と共に、30~35%位置の曲率を強くした。翼下面は、背面時の飛行性能を考慮し決定した。さらに、前縁Dボックスを止め、前縁材がなくなるところにできるわずかな角を利用して、翼上面に小さな乱流を発生させ層流剥離を防止する作戦とした。これで翼型的には、穏やかで扱い易い物になるはずだ、と踏んだ。予測される翼型性能は図のグラフにある通りである。
↑ 新開発の翼型座標
■抗力係数の見積もり
抗力係数は、主翼形状抗力係数、主翼誘導抗力係数、胴体抗力係数、尾翼抗力係数、干渉抗力による増加を織り込んで算出した。
↑ 揚力係数ごとに、抗力係数を積算し揚抗比を求める
■双垂直尾翼
垂直尾翼をなぜ二枚に分けたのか、その理由を説明しよう。単に特徴を持たせるためと思われがちだが、これには切実な問題があった。
千葉県から飛行場まで、電車で都心を抜けて移動することが多かった。時間帯によっては身動きできないほどの乗客で、紙袋に入れた機体を守るため、全神経と全体力を使った。飛ばしに行くにはこの修羅場で機体を守り切り、壊さず突破する必要があった。
主翼は取り外して胴体に添えてあったから、邪魔で守りにくい部分は袋から飛び出した垂直尾翼で、周囲の人に挟まれると壊されてしまう。そこで、面積が半分の垂直尾翼を二枚取り付ける形にした。空力的には二枚が干渉し、抗力が増え尾翼効率は下がったと思う。
■全機の空力性能
抗力係数が算出できると、空力性能が決まる。揚力係数の変化に応じ、抗力係数がどのように変化するか分かるわけだ。
↑ 翼型の空力性能
■手応えと自信
ここまでの話は、計算遊びのように思われるかもしれないが、パイロン・コースを飛んだ実績から計算値が概ね正しいと分かった。
この結果は、人力飛行機の設計を温めていた私にとって、極めて大きなものがあった。
これまで取り組んできた石井流の数値による性能追及が、相当程度正確で正しいと自信を持って語ることができると分かったのだ。
つまり、レシプロ戦闘機からラジコン機までを数字で説明できるという事実は、レイノルズ数的にその中間に位置する人力飛行機もまた、正確に説明することができるだろうことを意味する。
この後引き続き人力飛行機の設計製作に取り組むことになるが、AKA02、AO02の理論骨格を変えず、これを精密な計算式で補強し拡張することで、人力機の最適値を探すことになる。
「STORK」成功の出発点は、本機の成功とその理論骨格にある。
■予想される性能
必要パワーとエンジン出力の比を、これまで製作した機体データと比較した。すると、本機の値がどの機体に近いか分かった。これによってどの程度のアクロバット飛行が可能か掴むことができた。予想された性能は次の通り。
・失速速度 7.6m/秒
・水平最大速度 22.9m/秒=82.4km/秒
アクロバット飛行で言うと、
・垂直上昇ロール
・ダイブなしで、水平面での一直線ロール
・ダイブなしで、キューバンエイト
・逆宙返り
・連続背面飛行
などが比較的スムーズに行え、これらを組み合わせたアクロバット飛行が可能、と予想できた。
■三面図と構造
構造を決める上での要点は、
1 主翼曲げ強度は計算で、他は経験から最小限の重量(材料)とする。
2 尾翼は強度余裕を小さくし、軽量化に努める。
3 後部胴体を軽量で無駄のないものにする。
4 開口部は合理的な補強とする。
5 墜落時に受ける、搭載物と後部胴体重量からの衝撃を、最小限の補強で受け止める。
6 毎回の胴体着陸でも、傷が付かない形状と補強と下面硬化を考える。
本機は同型機を数機作ったが、総重量は265g~280gで仕上がり、「計画重量300g」をかなり下回る結果になった。
参考までに書き添えると、265gが実現できるということを前提に再度設計し直すなら、一回り高性能な機体を実現できるはずだ。
↑ 胴体構造と強度実績
■パイロン・レース用コースを飛行
1975年6月8日、ハーフAパイロン・レース第1回大会で、エキシビション飛行のチャンスをいただいた。
本機の5週ラップタイムは1分04秒、本レース優勝タイムが、10周で2分04秒1と、ほぼ同等のタイムで、もしパイロンギリギリを狙えば、タイムはさらに短くなったかも知れない。またアクロでは、キューバンエイト他の飛行も披露した。
これらは、本機が計算通りの性能に仕上がったことを物語っていた。
↑ 当時の記録ノートより
■ラジコン技術誌に連載
レースを取材に来ていたラジコン技術誌上原俊典氏から、記事を書かないかとの打診を受けた。
本機は、着想から設計・開発・飛行までを詳細に記録していたこともあって、「資料をベースにして、是非連載させてほしい」と希望した。
共同執筆者の若松君は工作を、私は数値を担当した。編集からは「何回でも良いから、書きたいだけ書いてよい」との快諾もいただき、1975年11月号から10回に及ぶ連載記事となった。
連載終了後、田所良夫編集長から「記事掲載中は発行部数が大きく伸びたよ、ありがとう」と嬉しい言葉をいただいた。
本記事を執筆していると、50年前が鮮明によみがえってくるが、本当に多くの方々に、大変お世話になったと、感慨深く、又深く感謝している。
木村先生からも声をかけられた。「ラジコン記事、読ませてもらったよ。立派な論文で面白かった。」とお褒めの言葉を頂いたのだが、「論文」に引っかかった。模型飛行機の製作記事としか考えていない私は、論文というもが何なのか知らず、ピンとこなかった。
■最先端の超小型機
若松君はその後模型飛行機を中心に最新作を追いかける仕事に就いた。後日若松談として「いろいろ調べたが、本機に対抗できる機体は当時どこにもなく、間違いなく世界一の機体だった」と聞いた。