↑ 搭乗準備

 

■最初のチャンス

 5月14日から海上自衛隊下総基地をお借りし、記録飛行に挑戦することになった。但し利用が許された時間帯は通常早朝に限られた。飛行は、15、17、18日に中禮さんによって行われた。

 15日早朝、朝露で翼が濡れ、紙が弛んだのでしばらく乾燥の後、404mを飛行。パイロットの疲れが目立つ。

 5月16日 風は強いままおさまらず、飛行することはできなかった。

 5月17日 飛行回数は一回のみ。距離325.4m、時間48.6秒。

 ↑ 朝露による外皮のたるみ(最悪の状態)

 

■5月18日 

 早朝は朝露で、翼が乾燥するまで待機。

中禮さんにより最長470mを57秒で飛び、日本航空協会公式立会人により日本記録として公式に認められた。正確な計測ができなかったが、同日約656mの飛行も行った。その後新4年生の加藤隆士さんが一回の走行に続き、初めてのジャンプ飛行を体験した。

 ↑ ガンピ紙の張替え

 

■胴体フレームの改良案

 5月19日メモには胴体フレームの改良案として、バルサ製の箱構造を用いた軽量フレーム案を検討している。この方式で外面にカーボンクロスを貼れば理想的なフレームが出来上がるとのアイデアだ。

 

■検討

 広い飛行場をお借りしたにもかかわらず、大学構内での成績を実質超えることが出来なかった点に納得がいかなかった。

 学内試験路で446mを余裕をもって飛んだ姿から、その2倍程度の飛行は射程範囲にあると皆が思っていたのだ。

 考えられる原因を検討したメモが残っている。

1 チェーンのジャンピングが発生した。

2 3月の飛行以来、パイロットの体力訓練量が明らかに低下している。

3 メンバーが新学年で経験不足。

4 睡眠不足。

5 期待が大きすぎた。

6 プレスが入り過ぎ、飛行中混乱が発生した。

7 メンバーの動きが昨年度に比べ弱い。

 

■本原稿を書いている現時点で、改めて原因を考える

1 前年度3月の初飛行以来、プレスなどに囲まれることも多く、緩みが広がり特に中禮さんの脚力訓練に向かう意欲が下がった。世界記録を狙おうという状況において、練習量の低下や喫煙を続けるという姿勢には、甘えと同時に違和感を感じる。

2 パイロットが軽飛行機出身者であるからパワーに頼りたがるのかも知れないが、パワーを下げた飛行を指示しても、飛行に変化はなく高速飛行が続いた。つまり「理解した」と答えたが、脳の指令で自分の動きを変えることは、全くできていない。

3 湿度により外皮が緩み、思った以上の抗力増加が発生した。(当時は外皮の緩みによる性能低下をそれほど大きいものと思っていなかった)。

4 プレスが多すぎ、飛行の妨げになった。

5 チェーンのジャンピングが高い頻度で発生した。

 

■報道関係を規制

 5月14日からの挑戦では、お世話になった方々に加え報道各社からも多数が駆け付けてくれ、大きな期待と同時に浮いた気分になっていた。

 機体を滑走路上定位置に置き準備をした。報道各社には、低空飛行かつパイロットは全体力全神経を集中させているので、機体の前方に出ないよう念押しをした。

 スタートの合図とともに滑走が始まり、離陸、高度1.5~2m程度の飛行が始まった。

 この時、車に乗った報道チームの中に機体前方に割って入り減速、至近距離で飛行を撮影しようとする者が出た。他にも前方滑走路上に飛び出し撮影するものも出て、現場は取材合戦の場となってしまった。

 飛行の度に滑走路上前方に出ないよう話したが、抑制は徹底しなかった。

 この経験から、取材は選ばれた者に絞らざるを得ないと確信した。メモには「次回のチャンスでは、NHKと朝日新聞社以外シャットアウト」と書かれている。大学構内であれば立ち入り禁止措置は実質無理だが、自衛隊基地となれば入場名簿に無いものは隊門を通過できない。

 

■5月24日

 米国視察を計画した。出発は6月23日。

 親戚先に滞在し写真家の瀬尾央さんのかばん持ちをしながら、ボーイング社やセスナ社、米国カナダの航空博物館などをめぐり、オシコシで自作機のフェアを見学し、10月初旬に帰国する計画だ。

 この間学生たちには、卒業研究テーマとして翼の風洞試験、主翼振動試験、機体改造などを進めてもらい、10月入間航空ショーへの出展などに対応し、機体の飛行や運用は軽い範囲に留めるようメンバー達と打ち合わせした。

 

■5月31日 スプロケット組み合わせ

 動力の伝達系統は2種類ある。一方はペダルからタイヤまで、もう一方はペダルからプロペラまでだ。実際の系統はタイヤをローギヤで、プロペラを巡航(トップ)ギヤで結び、切り替えはラチェットで自動的に行うことにした。

 5月31日の吉川さんのメモにこの時点でのスプロケットの歯数が残されている。この図によると、ペダルから中継部までをRS-35チェーンで結び、他をRS-25としている。

 プロペラ回転数は巡航速度で3.5回転/秒(210回転/分)なので、この歯数の組み合わせであればタイヤ回転数は巡航速度で2.625回転/秒(157.5回転/分)となる。

 速度で言えば、巡航速度(プロペラ100%推力)は8.60m/秒、この時のタイヤ周速度(理論値)は5.44m/秒となり、タイヤ回転数が負けているから、タイヤはラチェットにより切り離され自由回転している。

 

■二度目のチャンス

 一度目の経験から大急ぎで対策を講じ、なるべく早い時期に再度挑戦できるよう飛行場の借用をお願いした。二度目のチャンスは6月1日からと決まった。

 飛行結果(全記録)は図の通りだ。

 

■6月2日

 早朝から、中禮さんと加藤さんが交互に飛行。

 チェーンガイド破損、修理。

 3時過ぎ中継部がパイロンより脱落したため修理。

 飛行結果は、余力があるはずの中禮さんが学内での飛行距離以上に成績を伸ばせない結果となった。

 私は飛行のたび中禮さんと打合せし「なぜ500mで降りるのか」と聞いた。これに対し中禮さんは「まだ飛べる」と毎回精神論で答えた。私は「ならもっと飛べよ」と返した。

 飛行姿勢は機首を下げ尾部が上がった状態、つまりパワーを過大とし低い揚力係数(高速)で飛行しておりこの姿勢では必要パワーは大きくなるので、距離的に不利で「パワーを落としゆっくり飛べ」と指示した。しかし飛行姿勢に変化はなく、飛行距離も伸びなかった。

 これに対し加藤さんは、速度を下げた設計揚力係数ピッタリの優しい飛び方で、一発目の飛行で中禮さんの全記録を上回る結果を出した。この時の様子が加藤さんの手記に残っている。

 ↑ 下総基地での飛行

 

■加藤隆士手記((有)エアワークス『TURN POINT 2009/12』より抜粋)

 「人力飛行機を飛ばすパイロットとしては、競輪選手並みの筋肉と競馬のジョッキーのような軽いパイロットが望ましいのである。

 しかし体重が軽くパワーがあっても、機体をうまくコントロールする能力がないと人力飛行機は失速してしまうか滑走路からはみだしてしまう。

 人力飛行機のパイロットとして要求されるのは動力源と操縦、この二つを同時に調和させコントロールすることであった。

 私たち10人の卒業研究は、このSTORK号を改善し、飛行実験を繰り返しながら世界記録を目指すことであった。私はこのプロジェクトに何か運命のようなものを感じ始めていた。特に人より優れたものを持ち合わせていない私は、この1年必死になって頑張れば自分の一生が変わるような気がした。

 そのチャンスはまもなくやってきた。1976年6月、海上自衛隊の下総基地でのテスト飛行で、たまたま2号エンジン(パイロットのまたの名)の私が慣熟飛行のために乗り込み、595mの日本記録を作ってしまったのだ。特に体力的な訓練もせずに出してしまった記録だけに、これで本格的な訓練をしたらキット世界記録も夢ではないと思った。

 それからは夏祭りのおはやしが聞こえてくる中でも、グランドに霜が降りる時でも自転車とランニングのトレーニングを欠かさなかった。」

 この他に後の話として、「あまり飛ぶと中禮さんに悪いので、二度目は控えめに飛んだ」との加藤談を聞いた。

 

■6月4日 直線飛行

 飛行一回目は中禮さんにより、144mを24.1秒で飛行。

 二回目は加藤さんにより、162mを10+17秒で飛行したと記録されている。

 

■旋回飛行一回目

 三度目の飛行は強めの向かい風の中、中禮さんにより行われた。

 ↑ 旋回中のストーク

 

 離陸後一度接地した後、上昇しすぐ右バンクの後旋回に入った。この旋回は一切の事前打ち合わせが無いままいきなり強行された。前半は7~8度の適度なバンクできれいに旋回飛行したが、180度旋回終了少し前から高度を下げ始め、そのまま着陸すればギリギリナイスランディングかと思われたところ、エルロンを左にいっぱい切り替えし、そのまま左上昇旋回に入ろうとしたところで速度を失い、失速と同時に左翼端から接地した。

 離陸前から後方を伴走してきた複数の車や人は、予告なく旋回し目前に迫ってくるストークをかわし、追いかけて行く様子が8ミリフィルムに残っている。

 事情の分からない大学の若手の先生などは「スパイラル不安定で墜落した」などと説明していたが、これは違う。体力がデッドポイントに達し、上昇姿勢のままパワーオフしたため、バンクを取ったまま失速落下(墜落)したのだ。これは中禮さんの過去の実績と照らし合わせても体力的限界を超えていることが分かる。

 左翼を確認した。翼端付近で外皮の発泡シートに皺が入り、接地の瞬間10度か15度くらいの曲がりが発生し、直後スプリングバックし定常な形に戻ったことが分かった。本機の翼端車輪から外は、実質強固な桁は無く、強度の殆どは外皮発泡スチロールシートとガンピ紙によって受け持たされている。

 このまま大学に持ち帰って修理し次のチャンス(次のチャンスはもうないかもしれない)を待つか、飛行させ、翼端に曲がりが発生しない方に懸けるか、どちらを取るべきかと考えた。

 この時点では、私はまだパワー切れとは気づいておらず、中禮さんに「なぜ降りたのか」と聞いた。「翼端が草に当たりそうになったから降ろした、まだ飛べる」との返事。

 再度飛行させ途中もし翼端1mほどが強い上反角様に曲がっても、それで急に墜落するほどの事は起こらないとの私の見込みもあって、再度旋回飛行に挑戦することにした。

 

■旋回飛行二回目

 結局、離陸後右旋回に入り少し進んだところで、左翼端が上方に折れ曲がり、これに驚いた(パイロットから見ると主翼の先端の一部であっても垂直に立ち上がると大きく見える)中禮さんはパワーオフ、右バンクのまま急速に降下しハードランディング、タイヤと金属フレームが曲がり、中禮さんはカウルを突き破り飛び出してきた。

 状況は派手に見えるが、速度は人の走る速度程度なので、怪我などはしてない。

 ↑ 左翼端折れ曲がり

 

■反省

1 非力なパワー、かつスパイラルの危険と紙一重の人力飛行機で、事前打ち合わせなくいきなり旋回し、後続車両などとの接触の可能性もあり今思えば正気の沙汰とも思えない。この時点で旋回は世界中まだ誰も成功していなかった。

2 不用意な現象に驚いても、パワーを抜いてはならない。運動中パワーを抜くことは、即失速墜落を意味する。

3 一度目の旋回では「翼端が草に触れそうになったから降りた」と聞いたが、高度が下がった地点はすでに滑走路上で、草は生えていない。

4 「まだ飛べる」と毎度言うが実は体力限界、飛行距離を延ばすためもう少し機首を上げた姿勢で飛行速度を下げ、パワーをセーブするように言っても何一つ変化が起こらなかった。

5 これらを通じて、このまま改善がなければ主パイロットとして今後の飛行を中禮さんに任せることはできないと思った。

 

■疑問

 旋回ましてや八の字飛行は、これまでの飛行実績から体力限界を遥かに超えていることはだれの目にも明らかだった。にもかかわらず何の事前打ち合わせも無いままなぜ旋回を強行したのか。

 そして180度旋回後、何も知らない伴走車達を混乱させ高度を下げながらすり抜けた。

 一連の行動はなぜ強行されたのか、何がそうさせたのか。本人は「離陸後急に旋回したくなった」というが、私には今も理解できない。