以前あるamebaブログで紹介いただいた本、ヘンリー・W・ライト博士の「病の霊的原因を暴く」は医学的見地からの考察がなかなか深く、読み応えのあるものだった。ライト博士はクリスチャンで牧師でもあるので造詣が深く、聖書知識があっても原因不明の不調や病に苦しんでる人々には、新たな視点が与えられてよいだろう。カルトにもあらゆる病が潜んでいるけど、そこから脱した者でもその影響力から逃れるのは容易じゃないのである。
さて、先日ある牧者による講演録を視聴してたら、やたら執拗なくらいに「サマリヤの女」に対する侮蔑的な言動に、霊の攻撃を感じた。ニコデモとサマリアの女の対比で、イエスがどのように彼らに関わられたかを説いているのだが、最高峰にいるユダヤ人ラビと底辺の異邦人女、つまりピンからキリと表現し、彼らを丁寧に教えるイエスの素晴らしさはよいのだが、その牧者の底辺の女への過剰なるまでの侮蔑性を無視できなかった。
イエスはどんな立場の者に対しても憐れみ深かったし、決して貧しい者、卑小なものに対しても憐れに思いはしても見下しはされなかった。どんな身分、立場、性別、年齢に関わりなくだ。
一世紀当時、ユダヤ人と付き合いのない異邦人扱いのサマリアの女とて例外ではない。
その説教者は明らかな侮蔑を込めてサマリア女を槍玉に挙げて、あのとんでもない女(ろくでもない、堕落した女)に対しても、イエスはフラットに接して、自分がメシアであることを明かしたのだと説かれた。つまり最も底辺の侮蔑的人間に対してもそうされたことも、イエスの宣教目的があってのことで、わざわざその底辺を選んで、弟子にすらまだ明かしてない教えを彼女に垂れたのだと。
ヨハネ4:10‐12
イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、
また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知って
いたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに
生きた水を与えたことであろう。」
ヨハネ4:25,26
女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤが来られる
ことを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、一切の
ことを知らせて下さるでしょう」。
イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
イエスは一体、そんな侮蔑を持って彼女に語ったろうか。どんな立場の人であろうと関係なく接せられた。まずそんな感情を持って接されたとしたら、もう二度と話を聞く気を失うだろう。4度も死別や離婚の繰り返しをしたのか、現在一緒にいるのが夫ではないという、彼女のような生き方を擁護するわけじゃないが、語り手に相手への侮蔑がある段階でそれはもう壁となる。底辺女を宣教拡大の駒にしようとの計算だけが働いてたとしたら、それは愛でなく打算だろう。
自分がそんなサマリヤの女の生き方をしたわけでなくても、聞いていて不快で腹立たしさを覚える解説で、底辺への攻撃が哀しくなった。サマリヤの女だってそんな生き方をしたかったわけじゃなかろうに…。パリサイ人のふるまいと変わらないのではあるまいか。
ヨハネ8:7、9
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
敵(サタン・悪霊)からの非難という重荷をいつも背負ってる者には、救いは喜びに至ってはないし、他人の理解の無さに接すると、つくづく愛されてないことを思い知らされるものだ。他者攻撃型の人の前に、自己攻撃型の者は二重の責苦に遭う。
聖書中には多くの人のタイプが出て来て、ダニエルのようにほとんど完璧と思える人も中にはいるが、例外なしにアダム譲りの罪人である。あの最もイスラエルが繁栄をした時代のダビデやソロモンですら、到底許せない類の罪を犯したのだ。なら、現代の信者だって、例外なく皆罪人に違いないし、弱者攻撃する根底に横たわる他者への見下しに、己の高慢さ、驕りや罪がないだろうか。
健康でないのに語っても意味がないなら、語らない方がましかもしれない。このブログはどちらかと言うと脱カルト系の人々に向けたニッチなブログで、カルトを知らない人々よりもその痛みが余計に分かるが故に、もし自分が一歩でも先を歩いてるなら、彷徨える人たちに少しでも参考になればと、ポツポツと書いてきたのだ。しかし、それ以外の方々の方がこんな弱小ブログを読んでくださってる気がする。多方向からの気づきや励ましをそれとなく感じ取ってはいる。
無宗教であってもなくても、結局各々が自分で神を求め、見出すしかない。聖書に答えがあると言っても、聖書は知性だけでは理解できないし、それを超えて霊的に求めるしかない。そうするかしないかは自己責任だろう。幸いなことに、人は神に直接訴え、祈り求めるという手段が与えられてる。誰も助けてくれないと思える中でも、心の叫びは祈りによって聞かれることを知ることが、信仰体験になるのだ。
マタイ7:7-8
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、
門をたたく者はあけてもらえるからである。
しかし、病人が道案内人にはなかなか成れないものだ。自分の問題を解決しなくてはね。失うものは何もないし、この世に何の未練もない。だからあとは神に委ねる。