Kurt Vonnegutの三冊目。難しい本だった。

英語だったこともあり、ついていけなかった。

物事をストレートに描かない。あえて、デフォルメしている。

絵画でいうところのピカソとまでは言わないが、そんな感じ。

風刺というべきか、誇張した現象を描いているというべきか。

 

不思議な魅力のある作家だ。

わけわからない感じが未だにある。だけど、その世界を知りたいと思わされる。

また、懲りずにKurt Vonnegutを読んでいきたい。

 

https://amzn.asia/d/hmJy5TT

 

 

カート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』は「反小説」と言える作品だ。つまり、小説の形式をとってはいるが、一般的な小説の技法に反している。例えば、ヴォネガットは物語のあちこちに登場し、最も顕著なのは冒頭でプロット全体を語ってしまう点だ。この手法は、ルネサンス演劇に近い。そこではコーラスが冒頭の数節で物語の筋を明かしてしまう。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』もその一例で、恋人たちの悲劇的な運命は劇の冒頭で明かされる。ヴォネガットは、もう一つの小説的な常識、すなわち「正義」の概念も覆している。彼は登場人物が善人か悪人かに関係なく、無差別に罰を与える。

この小説の主な登場人物はキルゴア・トラウトとドウェイン・フーヴァーだ。トラウトは悲観主義者で、作家であり、窓枠の取り付け業者でもある。息子が一人いて、元妻が三人いる。物語の冒頭では、ニューヨークで一人暮らしをしている。彼は多作なSF作家で、何百本もの短編や複数の小説を書いている。ただし、たまに出版されることはあっても、本人はそのことを知らないことが多い。なぜなら、彼は作品をランダムな雑誌に送りつけて、その後の確認を一切しないからだ。出版された数少ない作品はポルノ雑誌に掲載されていた。だからこそ、ミッドランド・シティの芸術祭から講演依頼を受けたときは驚く。彼は、無名で成功していない作家として話をするつもりで参加を決意する。

一方、フーヴァーはトラウトの作品を読んで感銘を受け、芸術祭での講演に招く。彼は精神的な崩壊の渦中にあり、妻の自殺に打ちのめされ、成長した息子への失望も重なり、秘書との不倫に心の救いを求めている。彼は裕福な人物で、自動車ディーラーを経営しているだけでなく、ミッドランド・シティの多くのビジネスにも出資している。

トラウトは芸術や文化が資本主義に押しつぶされる姿を象徴しており、その対比としてフーヴァーが資本主義の象徴となっている。

芸術祭への参加を決めたトラウトは、大陸の半分をヒッチハイクで横断することにする。フーヴァーからは講演料として多額の金が送られてきたが、彼はできるだけ金を使わずに旅をしようと考える。ホテルを予約する代わりに、ポルノ映画館で寝泊まりしようとするが、閉館後に追い出され、通りで暴行されて金を奪われる。その夜は警察署で過ごし、翌朝、再びミッドランド・シティを目指す。このエピソードは、トラウトという人物の性格をよく表しているだけでなく、資本主義がもたらす現実を著者がどう見ているかも示している。

ようやくミッドランド・シティに到着したトラウトは、フーヴァーに出会う。フーヴァーは彼に「メッセージをくれ」と迫る。トラウトは代わりに、自分の小説の一冊を渡す。フーヴァーはそれをすぐに読み、その内容に心を奪われる。その小説の前提は、「読者こそが地球上で唯一の自由意志を持つ存在であり、それ以外の人間はすべて読者を楽しませるためにプログラムされている」というものだ。精神崩壊寸前のフーヴァーは、これを現実だと信じ込み、恋人や息子、そして他の9人に暴力を振るう。最終的に警察に取り押さえられる。

『チャンピオンたちの朝食』は、芸術家の責任というテーマを含んでいる。ヴォネガットの本が出版された1970年代以来、この議論は社会の中で繰り返されてきた。トラウトの小説は、フーヴァーに「自分だけが自由意志を持つ唯一の存在」だと信じさせた。では、小説はフーヴァーを狂気へと追い込んだ責任があるのか? トラウトには11人への暴行の責任があるのか? ヴォネガットは明確な答えを出さない。ただ、芸術の社会における価値と位置づけを問う形でこの問題を提起する。そして、もう一つの重要なテーマが浮かび上がる。芸術と文化は資本主義と共存できるのか? それとも、両者の関係は根本的に対立しているのか? ヴォネガットの物語の中で、トラウトもフーヴァーも罰せられるという事実は、両者が共存できないことを示唆している。フーヴァーの精神崩壊は、資本主義が芸術や文化に道を譲るべきだという暗示にも見える。

なお、『チャンピオンたちの朝食』は資本主義の影響というテーマに沿い、初版の装丁がシリアル食品の箱のようになっていた。ヴォネガット作品にしばしば見られるユーモアの要素を反映したデザインだ。

ーーーー

 

『チャンピオンたちの朝食』で、カート・ヴォネガットは宇宙の尻の穴に我々を連れていく。

遠回しに言う必要なんてない。ヴォネガットは1973年のこの小説で、アメリカ合衆国が犯してきた罪の数々を容赦なく並べ立てる。例を挙げれば、「国歌」と呼ばれる詩的で意味不明なナンセンス、ドル紙幣に印刷されたバロック風のゴミ、「1492年」という大罪、そして奴隷制度という国を挙げての悲劇。

だが彼はそれをまるで子供の遊びのように語る。他のどんな語り方をしても、魂が耐えきれなくなるだろうから。

『チャンピオンたちの朝食』はその調子で進んでいく。戯けているようで不穏であり、ヴォネガット独特の文体を保ちながら、どんどんその鋭さを増していく。時に、笑いすぎて脇腹が痛いのか、人間の本質を鋭くえぐる描写に胃が締めつけられたのか分からなくなる。

カート・ヴォネガットの「尻の穴」
それと、挿絵のことを言い忘れてたかもしれない。文章だけでは足りないとでも言わんばかりに、ヴォネガットはフェルトペンで描いたイラストを小説の中に散りばめる。自分でも「グロくて未熟」と認めている。最初は笑える。でも、そのうち笑えなくなる。

時おり、挿絵のひとつが道徳心の芯をがっしり掴み、こう叫ぶように訴えてくる。「見ろ!見てみろ!!これが君たちの文明だ!これが君自身だ!!」

ドウェインの化学物質が彼を狂わせ、枕の下から38口径のリボルバーを取り出させた。そしてその銃を口の中に突っ込んだ。それは、他人の身体に穴を開けるためだけに作られた道具だった。こんな形をしていた:

ドウェインの住む地域では、誰でも近所の金物屋でそれを手に入れることができた。警官は皆持っていたし、犯罪者もそうだった。そしてその間に挟まれた普通の人々も。

『チャンピオンたちの朝食』は1973年に書かれた。

じゃあ、どうしてそんなに惨めな気分にさせられる本を、わざわざ読みたくなるんだろう?どうして、盲目になりたくなるほど眩しい光を、わざわざ凝視しようとするんだ?

この本の最良の読み方はこうだ。未熟で乱暴なアメリカという存在がこの本を偶然手に取り、LSDのようにむさぼり食らい、鏡を見て、自らの光が歪む様を目撃する。そして自分の顔に刻まれた歪んだ線と、自らの本性に気づく。

もちろん、ヴォネガット自身(彼は自分自身を本の登場人物として書き込んでいる)は、それがいかに馬鹿げた話かをよく分かっている。だから彼は、この本の「成功」の基準を、自分自身から切り離す。彼はこの本が読者に本質を伝えることがどれほど困難かを、2つの方法で伝えてくる。

ひとつは、おなじみのキャラクターを再登場させること。キルゴア・トラウトという、エロ雑誌のページ埋めとして短編を書いていた、風変わりなSF作家。彼の作品を初めて評価したのが、悪意を持つ大金持ちエリオット・ローズウォーターだった。彼はトラウトの熱烈なファンだ。

ローズウォーターの招きに応じ、トラウトはミシガンの架空の町ミッドランドで開催される芸術祭に向かう。それがきっかけで、キルゴア・トラウトは人類史上もっとも尊敬される人物のひとりとして評価されるようになる。あまりにも荒唐無稽だが、これはつまり、ヴォネガットのメッセージ——「それほどの奇跡がなければ、この国には真実は届かない」という、悲観的な確信。

ふたつ目は、はっきりと言葉にして伝える。ヴォネガットは、人間が化学物質に支配されたプログラムされた機械だという考えを本気で語る。ここに、彼がどんな人間で、どんな才能を世界に遺したのかを示す一節がある。彼のギフトは、最悪の状況を希望ある物語に変え、絶望ではなく、ぎこちなくとも笑いを残してくれることだった。

少年時代のヴォネガットは、梅毒の末期症状に苦しむ男たちの姿をしばしば目にしていた。その一人との遭遇が、彼の原体験として描かれる。彼は嫌悪や恐怖で目をそらすこともできたはずだ。だが、そうしなかった。

ある時、僕はマーリディアン通りとワシントン通りの交差点に立つその男を見た。そこには父が設計した、突き出し時計があった。その交差点は「アメリカの交差点」と呼ばれていた。

その男は、ワシントン通りを渡るにはどう足を動かせばいいのか、必死に考えていた。体が微かに震えていた。まるで体内にアイドリング中の小さなモーターがあるみたいだった。彼の問題はこうだった。脳では「足を動かせ」という指令が出ているのに、その指令を運ぶ「配線」がもうボロボロで、どこかのスイッチが壊れっぱなしだった。

彼はひどく年老いて見えたが、実際は30歳そこそこだったのかもしれない。考えに考えて、やがて、ショーガールのように足を2回蹴った。

僕にはその姿が、完全に「機械」に見えた。

アメリカは病んでいて、配線がイカれている。愛するように生まれたのに、憎むようにプログラムされている。感染は広まり、病と否認の末期段階にある。救われるには奇跡が必要だ。

ヴォネガットは、集中治療室で鎮痛剤に酔いながらいびきをかいているアメリカのそばに座り、人類の現実、人間の内面、そして作家としての自らの優しさと気高さを示す。「人間=機械」という冷徹な枠組みを使って、そこに人間らしさを吹き込む。そのギャップが魔法のようだ。説得力があり、語り口は見事だ。

終章では、SF作家キルゴア・トラウトが創造主と出会う。レンタカーで彼に近づいたヴォネガットは、自分がそのキャラクターの「神」だと打ち明けようとする。だが、車の室内灯のスイッチを探して手間取る。間違えてワイパーを動かしたりしながら。そこには自己認識と謙虚さがある。ヴォネガットにとって、茶化せないものなんてない。自分の不器用さすらも。

そして、ついにトラウトに真実を告げる。彼の精神を壊したことを謝罪し、穏やかな愛を伝える。「今まで君に感じさせたことのない、内なる調和と充足感を、これからは与えたい」と。

『チャンピオンたちの朝食』を読み終えた今、希望はまだあると感じている。アメリカという国に深く絶望した人間のなかで、ヴォネガットほど深く傷ついた者はそう多くないだろう。それでも、彼はなおも「内なる平穏」に手を伸ばそうとする。

これは彼自身への50歳の誕生日プレゼント。ヴォネガットは「これからやってくる全く異なる年月に備え、身を清め、生まれ変わろうとしている」と語る。

どうせ無駄だと知っていながら、それでも世界を理解しようと試みる意志。それこそが、人類に対する彼の贈り物だった。