お気に入りのAlbert Camus(アルベール・カミュ)と比較される
Jean-Paul Sartre(ジャン=ポール・サルトル)。
実存主義の代表者であり、「実存は本質に先立つ」と主張していることは認知していたものの、
その真意は理解できていなかった。
本書はその何たるかを平易な言葉で示してくれている。
サルトルはこう説明する。
「人間は後から人間になる存在であり、自らが作るものになる。
本性を考える神が存在しないため、人間の本性そのものも存在しない。」
Athée (無神論者) として知られるサルトルは、人間が超越的な存在に頼らず、
自らの意味と本質を創造する必要があると説く。
人間は生まれた時点で定義された本質を持たず、まず存在し、
その後に選択、行動、経験を通じて自らを定義する。
医者や芸術家、活動家といった選択肢は、その人の行動によって本質となる。
これは、自由と責任を同時に伴うものだ。つまり、人間は自己の選択を通じて、自らの本質を創り上げる責任がある。
この考え方から、サルトルが日本で支持された理由も理解できる。
ここで説明される自由と責任の関係は、多くの日本人の価値観に合致する。
しかし、日本独特の「自己責任論」は、サルトルの思想とは乖離があるかもしれない。
また、サルトルは実存主義とマルクス主義を統合しようと試みた。
人間の自由を軸に、硬直化したマルクス主義を柔軟で知的なものに再構築しようとしたのだ。
この試みは、現代日本の発想とは異なる印象を受ける(但し、斎藤幸平氏の考え方は近いかもしれない)。
もっとも、自分のサルトルへの理解は表層的に過ぎない。
理解を深めるためには、原著に触れ、彼の言葉を直接味わうことが重要と感じる。
サルトルの代表作『嘔吐』。
難解とされる代表作だ。どこかでチャレンジしなくてはとの気持ちにさせられる。
- 第一の定式は「実存は本質に先立つ」。第二の定式は「人間は自由の刑に処せられている」。「自由の刑に処せられている」は「人間は自由に運命づけられている」とも言える。ここには「自由」と「運命」の逆説的な関係が暗示されている。
- 「実存」とはこの世界に現実に存在すること。「本質」とは目に見えないもので、物の場合、その性質の総体。素材、製造法、用途などの総体。
- ペーパーナイフをつくるには、その製造法や用途を知る必要がある。職人はペーパーナイフの本質を理解し、それに基づき実存としてのペーパーナイフをつくる。これが「本質が実存に先立つ」という例。
- 人間は後から人間になる存在。人間は自らがつくるものになる。本性を考える神が存在しないため、本性そのものが存在しない。
- サルトルの考えでは、人間はまず実存し、その後に自分の本質をつくる。「人間はみずからつくるもの以外の何ものでもない」というのが実存主義の第一原理。
- 実存とは、不条理で偶然の産物であり、根拠がない存在。
- 世界と人間に関する真実発見の物語。「実存」という真実は偶然性でしかない。「存在」の必然性とは相反するもの。
- 自由として世界に投げ出された人間は、自らの行為の価値を自分で決める責任を負う。神は存在せず、行動を正当化する理由や逃げ道として神を頼ることはできない。価値を決定するのは自分自身である。この状況を「自由の刑に処せられている」と表現する。
- 自由による新たな企てとは、偶然に身をゆだねるのではなく、新たな自分をつくり出す行為。芸術作品を生み出すことで自己を新たにする挑戦。
- サルトルは、まなざしを向けられることを「他有化」と考える。他人のまなざしによって、自分の世界が構成され、所有されるからである。他人が自由である限り、この他有化は避けられない。「自由の受難」として受け入れるべき人間の条件。
- 自由とは、条件付けられた社会的存在を主体的人間へと変える運動。他者によって客観化された自己を主観で引き受け直す中での変化。ジュネの泥棒から詩人への道。意識の自由は、どんな逆境でも自己を救う可能性を持つ。
- 人間はつくるべき存在。未来へ向けて投企し、状況を変え、意味を与える存在。「投企」と「主体性」を結びつけたヒューマニズム。これが実存主義的ヒューマニズム。
- サルトルは実存主義とマルクス主義を統合することを目指した。人間の自由を軸に、硬直化したマルクス主義を柔軟で知的なものに再構築する試み。
- アポロンの忠告。「倫理よりも芸術作品を創造する欲望を持て。人間がつくるもの以外に美しいものはない」。芸術創造を労働とする考え方。『嘔吐』のロカンタンの決意とも通じるもの。
