休日に好きな 100分 de 名著を立て続けに観た。

ここで紹介する「ハイデガー“存在と時間”」の前に、

実は「フッサール“ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学”」を視聴している。

 

ところが、内容を思い出せないばかりでなく、メモを見ても意味がわからない。

講師役の西研氏の解説はわかりやすかったはずなのに、、、なんとも恥ずかしい話である。

 

フッサールから、同氏の弟子にあたるハイデガーの回を、そのまま流れで視聴したわけだが、

これは印象にも残り、ハイデガーの主張していることを理解できたかは横に置いたとしても印象に残った回だった。

 

これまで哲学者の間で多いに議論されてきた「存在の意味」。

ハイデガーは視点を変えて、自分以外の存在者との関係を持ち出す。

他者との関係から自分自身の存在のしかたを自ら決めていかざるをえない、と。

 

但し、それが「不安」から逃れるために「世間」に従属しようとすることは「非本来的」であると指摘する。

そこで、誰かの代わりに死ぬことはできないことから、「死」が本来的な生き方へ向かうきっかけになるとしている。

 

ここまでは、なるほどとの思いで、視聴することができた。

そして、自分も知らなかったことだが、ハイデガーはナチスに入党している。

ナチス入党を契機に、国家のために「本来的な生き方」をすべきことを当時、声明としても打ち出している。

 

この事実は当然にして、世間から、そしてアーレントやバンス・ヨナスなどの哲学者からも多いに批判されている。

「公共性」という概念が欠落していたこと、「何に対して責任を取るのか」という視点が欠けていたことが批判内容である。

 

一方で、当時の世の流れ、特にドイツにおける世間の形成状況を鑑みると、

「公共性」や「責任」をどう捉えるべきだったのか。

確かに、ハイデガーは自身の言う通り、「世間」に従属しようとすること、

すなわちナチスという「世間」の波に飲まれることは「非本来的」な状態に陥ってしまったのかもしれない。

しかし、それが「公共性」や「責任」が欠落していたとの批判はどうも当てはまらない気がしている。

あくまで結果論ではないのか。

 

100分 de 名著を視聴しただけの印象論、そして理解が表層的な状態で、

このように偉そうに主張するのは適切ではないだろう。

しかし、あえて「ナチス入党」という、誰が見ても批判の対象となってしまう人であったとしても、

参照すべき書物を世に出し、今でも引用され、

このように100分 de 名著でも紹介されるハイデガーが世に問うたことは、

大きな価値があったと言えるのだろうと思った。

 

ということで、今回も大変印象に残った100分 de 名著であり、視聴できてよかった。