松本清張の作品は『点と線』および『日本の黒い霧』を読んだことがあり、
特に前者が面白かったという記憶がある。今回、久しぶりに同じ著者の作品を手に取ってみた。
あまり下調べもせずに選んだのが『砂の器』だったが、
後からレビューなどを見ると、この作品も有名で、映画化やドラマ化もされていたようだ。
自分自身はそのことを把握していなかった。
オーディブルで断片的に聴いていたことや、比較的長編であったこともあり、
ストーリーをところどころ追いきれなかった部分もあったが、
それでも十分に楽しんで聴くことができた。
昭和初期のさまざまな差別が、人の行動をゆがめ、
それが社会現象としてよくない形で表れている——そんなことを描いている作品だった。
知らず知らずのうちに社会の中に形成される“良くない圧力”が、
特定の人々を苦しめ、それが結果として社会に負のかたちで跳ね返ってくる。
世の中はそうしたことを繰り返してきたのだと思う。
当時あからさまに存在していたそうした負の圧力は、今では多少なりとも穏やかになり、
相対的に状況は改善されているのではないかとも感じる。
ただ、それを客観的に評価できるのかはよくわからないし、
今は今で、当時とは異なる種類の負の圧力が現れ、人間社会を悩ませている。
人間が生きている以上、それが根絶されることはおそらくない。
それでも、少なくとも日本の社会は、昔に比べて良くなっているのではないかと感じる。
今の社会を松本清張が見つめたとき、彼は何を思うだろうか。
もちろん、社会の課題に切り込み、それを暴き出すことはできるのだろうが、
おそらくそれは、当時とはまったく異なる種類の問題であり、
人々が受けるダメージの性質もまた違うものになっているのだろう。
だから、「良くなった」「悪くなった」と単純に比較できるものではないのだな、
と、自分でもこうして書きながら思わされる。
また、松本清張の作品を読んでみたい——そんな気持ちにさせられた。
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JR(旧・国電)の鎌田操車場で男性の殺害死体が発見される
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被害者は前夜、駅近くのバーで連れの男と東北訛りのズーズー弁で会話していた
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二人の会話には「カメダ」という名前が頻繁に出ていた
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刑事・今西栄太郎が「羽後亀田」という秋田の駅名に着目し、若手刑事・吉村とともに現地調査を行う
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調査の成果は乏しかったが、若手文化人集団「ヌーボー・グループ」と接触
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グループには評論家・関川重雄や前衛音楽家・和賀英良が所属していた
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養子の申し出により、被害者の名前が三木謙一であることが判明
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養子・三木彰吉が「父は東北弁を使うはずがない」と証言
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今西は島根県出雲地方の方言が東北に似ていることに気づき、「亀嵩」という駅を地図で発見
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現地を訪れるも、被害者が好人物だったこと以外に決定的な手がかりは得られなかった
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その後、関川重雄に関係する第二・第三の殺人事件が発生
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捜査が難航する中、「ヌーボー・グループ」内でも人間関係に変化が生じていく
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今西は吉村とともに粘り強く捜査を続け、ついに犯人の過去にたどり着く
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犯人は本浦秀夫という男で、石川県の寒村出身
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父・千代吉がハンセン病を患い、母に捨てられ、父とともに巡礼姿で放浪する生活を送る
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島根県の亀嵩で巡査・三木謙一に保護され、父は療養所へ、本人はすぐに逃亡
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大阪で戦災による戸籍焼失を利用し、年齢を詐称して新たな戸籍を得る
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和賀英良として活動していた本浦秀夫は、自らの過去を知る人物を殺害していた

