國分功一郎のベストセラー『暇と退屈の倫理学』の続編。

冒頭ではアガンベンを参照し、コロナ禍によって浮かび上がった本質的な問題に触れる。

単に「生きていること」ではなく、「人間として生きること」の重要性、そして「移動の自由」の意味が改めて問われている。

 

また、目的と手段の関係についてはハンナ・アーレントを引き合いに議論が進む。

一般に「目的によって手段が正当化される」とされがちだが、著者はそうではなく、「そもそも目的という概念そのものが手段の正当化を内包している」と指摘する。つまり、手段を正当化しない目的は存在しないということだ。

 

アーレントは『全体主義の起源』においてこう語る。

「全体主義の支配者にとっては、チェスも芸術もまったく同じ水準の活動である。人間が何かに没入している限り、それは完全には支配できない」。

芸術やチェスは、何かの目的のために行なうのではなく、それ自体が楽しく、それ自体のために行なわれる。したがって、支配の論理にとって障害となるのは、「いかなる場合でもそれ自体のために行動する人間」である。

 

現代社会では、「目的のために行動する人間」が高く評価されている。

目的に向かって一心不乱に努力する姿は理想的とされ、異を唱える声は少ない。

だが、著者はそうした人間像こそが、消費社会の徹底によって生み出されたものだと説く。

「アーレントが言っているのは、行為にとって目的が重要なのは確かだが、行為は目的を超越することで初めて自由になる、ということだ」。

 

ここで言う「目的を超越する」とは、行為そのものに喜びや意味を見出すことに他ならない。

本書では、こうした目的合理性から逸脱する営みを「遊び」と呼ぶ。

 

「目的のために手段や犠牲を正当化するという論理から離れられる限り、人間は自由である。自由とは、必要や目的を超えて行動することを志向する。その意味で、人間の自由は、広義の『贅沢』と不可分だと言ってよい。そこにこそ、人間らしく生きる喜びと楽しみがある」。

 

現代では「無駄を省き、常に目的を意識する人間」が理想とされ、そのような行動様式こそが生産的で価値あるとされる。

目的合理性を説く言説が社会を覆うなかで、國分はあえて「自由による目的への抵抗」を唱える。

 

自分自身、かつて上司に「フランス語なんて使わないのに、なぜ学んだのか」「役に立たないのではないか」と問われたことがある。自分でもそう問うたことはある。

けれども、フランス語を学んでいたおかげで救われた瞬間もあったし、言語を通じてフランス文化に触れられる感覚は、自分にとってかけがえのないものだった。それでいいではないか。

 

目的を超えたところに自由があり、人間らしい生の喜びがある。

國分の言葉に自分も共感するし、その価値をこれからも大切にしていきたい。

 

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