小坂井氏の『答えのない世界を生きる』が自分の中でヒットし、
ぜひ同著者の代表作もと思い、本書を手に取った。
今回も自分の興味・関心に刺さる内容だった。
彼の問いは、日本の閉じた社会がなぜ西洋化へと至ったのかということだったり、
アフリカ出身の同僚に「お前は裕福な国の生まれでうらやましい」と言われて考え込んでしまったことだったりする。
他の国の出身であれば、もっと厳しい道のりを歩んでいたはずなのに、
日本に生まれたことで仕事や恵まれた環境が与えられた――そのことに対する葛藤が綴られており、
自分自身の問題意識とも重なって、共感の連続だった。
自分にも社会学を学びたいと思った時期があった。
もしその道に進んでいたら、小坂井氏が本書で取り上げているような研究をしていたのだろうか。
そして、自分にその覚悟があったのだろうか、と想像した。
結局、人生は自分のやりたいことをやるしかない。
少しでも納得するために考え、自分の大切な時間を使う。
それが、小坂井氏の言いたいことなのだと思う。
何を選ぶべきかを見極めるのは難しいが、それでも追求し続けるべきなのだろう。
小坂井氏の問題意識に共感し、それを知りたいと思っている自分に改めて気づけたことが、
本書を読んで得られた大きな収穫だった。
また、本書は必ず読み返したい。
普段、同じ本を繰り返し読むことはあまりないが、本書だけはどこかのタイミングでしっかりと読み返したい。
まずは、小坂井氏が絶賛する高橋和巳を読んでから、もう一度戻ってこようと思う。
- どこの文化でも生きられる国際人の養成など本当はどうでもよい。逆に、どこにいても常識に疑いのまなざしを向ける異邦人への誘いこそ、学生のために大学がなしうる最高の贈り物だと私は信じます。
- 我々は捜すべきところを捜さずに、慣れた思考枠に囚われていないか。我々の敵は常識です。常識の中でも倫理観は特にしぶとい。感情に流されていては、人間の本当の姿は見えません。
- 真理はどこにもない。正しい社会の形はいつになっても誰にもわからない。だからこそ現在の道徳・法・習慣を常に疑問視し、異議申立てする社会メカニズムの確保が大切です。今日の異端者は明日の救世主かもしれない。無用の用という老子の言葉もあります。〈正しい世界〉に居座られないための防波堤、全体主義に抵抗するための砦、これが異質性・多様性の存在意義です。
- 「私にとって実験は発見を可能にする技術であり、証明するための道具ではない」とモスコヴィッシは言い切ります。
- 意志とは、ある身体運動を出来事ではなく、行為だとする 判断 そのものです。人間存在のあり方を理解する 形式 が意志と呼ばれるのです。人間は自由な存在だという社会規範がそこに表明されている。意志や主体はモノではなく、コトすなわち 社会現象 として理解しなければなりません。
- 行為の出発点として〈私〉を措定する発想がそもそも誤りです。〈私〉はどこから生まれるのかという疑問に答えられないからです。論理は無限遡及に陥り、行為の原因は〈私〉を通り抜けて雲散霧消する。
- 人間は簡単に影響される。しかし同時に、自分自身で考え、行動を選び取るという感覚も我々は持つ。意志と行動の乖離に、なぜ我々は気づかないのか。意志にしたがって行動を選び取るという主体感覚が維持されるのは、どうしてなのでしょう。 意志が行動を決めると我々は感じますが、実は因果関係が逆です。外界の力により行動が引き起こされ、その後に、発露した行動に合致する意志が形成される。そのため意志と行動の隔たりに我々は気づかない。つまり人間は合理的動物ではなく、合理化 する動物である。これがフェスティンガーの答えです。
- これまでの考察から、(一)自律感覚の強弱にかかわらず、外界の力によって行動が影響される度合いは誰でもあまり変わらない、(二)しかし、自分を自由だと信じる者ほど、外界の強制力に無自覚であり、行動を自分自身で決定したと錯覚するという二つの重要な結論が引き出されました。
- 母親が悟りを開いたのは、生きとし生けるものには必ず死が訪れるという事実を知ったからではない。そんなことは初めから彼女にもわかっています。事実から確信への論理飛躍がそこにある。子供の死に際して、子供を復活させようとする努力そのものが、母親の苦しみの原因でした。つまり求めている「解決」こそが、まさに彼女の問題だった。その「解決」を放棄した時、同時に彼女は問題から解放され、救われます。メタレベルに視野を広げて初めて問題の根が見える。しかしそのためには、今閉じ込められている論理の外に出る必要があります。
- 同様に、日本社会は閉ざされているのにもかかわらず、文化が開くのではない。逆に 社会 が閉ざされる からこそ、 文化 が開くのではないか。私はこう自問しました。日本が開かれた社会であり、かつ閉ざされた社会であるとは従来から言われてきました(丸山 1961、1984)。しかし社会という一つのシステムに同一性維持と変化とが同時に内包されると考えるか、あるいは社会と文化という二つのシステムを区別するかによってパラドクス解法の方向が大きく異なります。
- アメーバの無定形性はギリシアの哲学者ヘラクレイトスが挙げた「ナイル川のパラドクス」と似ています。川を構成する水は絶えず移り動くから、同じ水がいつもあるわけではない。しかし川の水がいくら変わっても、ナイル川自体は常にそこにある。「変われば変わるほど、元のまま(Plus ça change, plus c'est la même chose.)」というフランスの諺があります。
- 研究のレベルなど、どうでもよい。どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると宣う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません。
- 自分の立ち位置がわからなくなると高橋和巳だけは何度も繙いて読み直します。彼の作品を私が好きな理由は、法廷や組合闘争の場面に現れるような、現実に対抗して理屈を推し進める知識人の誠実さとともに、その脆弱さと偽善をえぐる姿勢に惹かれるからです。
