良い本だった。
大人が社会の中で生きていく上ので姿勢と説いている。
謙虚に生きること。
状況を受け入れること。
そして、その中で自分が周囲のためにできることに精を出す。
当たり前のことだけど、つい変な自我・プライドが邪魔をする。
そんなものは解放してしまい、自分がみんなのために「やれること」をやっていく。
- 「目には目を歯には歯を」に込められた智慧。どのような損害であれ、それを原状に復元して、「なかったこと」にすることはできない。(中略)ですから、「もう起きてしまったこと」について「責任を取る」ということはできません。原理的にできないのです。
- 責任というのは、誰にもとることのできないものです。にもかかわらず゛責任というものは、人に押し付けられるものではありません。自分で引き受けるものです。
- でも「なぜルールがあるのか?」を問わない人間がルールを管轄し違反者を罰するということをしていると、集団の「生き延びる力」は必ず弱まってしまう。だって「絶対に変えてはいけない大切なところ」と「どうでもいいところ」が識別できなくなるんですから。
- 自分が無意識のうちに仕組んだことを「きっとこうなると思っていた……」というふうに総括するのが「取り越し苦労」です。こういうのはよした方が良いですよ。
- 「労働」の対立概念は遊び?それなりに愉快に日々の仕事をしている人にとっては、どこから労働でどこから遊戯か、截然 と識別することは限りなく困難なのであります。繰り返し言いますけれど、愉快に仕事をしている人間には「オンとオフのデジタルな境界線」なんかありません。仕事しているんだか、遊んでいるんだか、本人にもよくわからない。それはたぶんその生き方が「生物として理にかなっている」からです。「労働と遊戯の区別がつかない状態」がある種の理想であるならば、それをわざわざ切り分けて、「労働とは何か」などと力む必要はありません。
- 「遊びの要素が全く含まれていない」仕事は「労働」ではありません。ただの「苦役」です。できるだけ早く逃げ出したほうがいい。
- 社会集団について「最適サイズ」というものはあるのか。生物学的には「ある」ということになっています。150という数が集団を形成するときの一つの目安のようです。ダンパーさんは(勝手に)これを「ダンバー数」と名付けました。
- そういうときに、人間は「絶対に変えてはいけないところ」を変え、「どうでもいいところ」に固執するようになる。必ず、そうなります。今の若者は「やるべきこと」「やりたいこと」に関心を持つけれど、自分が「やれること」にはあまり関心を持ちたがらないようです。しかし、これからの世の中で生き残るために必要なことは、「自分は何をやれるのか」を知ることではないでしょうか。
- 「自分がやらねばならぬこと」「自分がしたいこと」というのは個人的な事柄です。それに対して「自分にできること」は公共的なことがらです。「個人的なことがら」というのは、ひとことでいえば、他人の同意や参与抜きで自己決定できることです。「公共的なことがら」というのは、他人の同意や商人抜きでは決定できないことです。
- 「カーテンを開いて、静かな木漏れ陽の、やさしさに包まれたなら、きっと、目に映る全てのことはメッセージ」。木漏れ陽は誰かからのメッセージじゃありません。ただの自然現象です。でも、ユーミンはそこに「メッセージ」を読みだした。自分を祝福していてくれるメッセージをそこから「勝手に」受け取った。そしてその贈り物に対する「お返し」に歌を作った。その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。「世界は住むに値する場所だ」と思った。そういう思いを与えてくれたユーミンに「ありがとう」という感謝を抱いた
