「日本哲学入門」を読んだにも関わらず、あまり理解が進まなかったこともあって、
西周と並んで、日本哲学の起源される西田幾多郎の 100分de名著を視聴した。
言葉で事象を表現しようとすると、言葉の枠に事象をあてはめてしまう上に、バイアスも入り込んでしまう。
言葉や考えを持ち込む以前に感覚で捉えたコトを「純粋経験」と呼び、その感覚を大事にすべきと説く。
そして、その純粋経験を持つことで、一つのコトが、宇宙や無限、
そして神のような「大いなるもの」と同一のものとして捉えられるようになる。
やはり、ここでも自分の中に留まらず、自分を超えて、他者やコミュニティ、人類、宇宙の一部を成している感覚から、
いのちの尊さや善を捉えていけるようになる、と言う。
生と死・主観と客観のような一見対立事項を成している事象をどのように捉えるべきかとの議論では、
一体不可分のものとして受け入れる、との話があった。
陽と陰・光と影のように表があれば裏が必ずあるように、感覚的にわかりやすい話ではある。
しかし、それが例えば、死という形で自分に迫った時に、そのような感覚で自分は捉えることができるか。
そのような場面で真価が問われる議論だ。
そういった局面をこれからの人生で直面した時に、こういった事柄を考えていくことの積み上げが、
自分を強くしていくように感じた。
- 認識する主体と認識される対象という二元論によって構築されてきた西洋哲学に対し、西田幾多郎は「愛」という独自の概念で「知」のあり方を根本から問い直す。対象を冷たく突き放すのではなく、あえて対象に飛び込み没入することでその本質をつかみ取る作用を「愛」と呼び、「知」にこの作用を取り戻そうとする試み。
- 西田幾多郎が東洋思想から練り上げた独自の哲学では、善は人間の中に「可能性」として伏在している。その可能性をいかに開花させるかが重要であり、主体/客体という区別を超え「他者のことを我がこととしてとらえる」視座が必要とされる。真にその境地に達したとき、「人格」が実現され、これこそが善であると考える。
- 音楽を聴く体験は、音源からの空気の振動を感覚器官が捉えるという物質的過程にとどまらず、主体と客体が分離される以前の、あるがままの経験として存在する。これを「純粋経験」と呼び、この立場から世界を見つめると、私たちが「実在」と見なしてきたものは単なる抽象的な物体ではなく、世界の根底でうごめいている「一なるもの」の「働き」として捉え直される。
- 西田が晩年に到達した「絶対矛盾的自己同一」という概念は、主観と客観、一と多のように一見対立する者同士が実は相補的であり、根源において同一であるという考え方である。この考え方は、自らの子供との死別という実体験を通じて得たもので、生と死は一見矛盾しているようでありながらも、その対立を超えて一つにつながっているものだとする。