フーコーについてもう少し知りたいと思い、本オーディブルも聞いた。

マルクスと対比する形でフーコーの考えを捉えることができるのは興味深い。

フーコーはその中でも権力の在り方に着目しているようである。

まだまだ、フーコーの考えの表面をなぞっているだけなので、

もう少し深堀りして理解できるようになりたい。

  • フーコーはマルクス主義とは異なる視点から権力や国家を分析し、独自の方法論を提唱。
    • マルクス主義では、権力は経済的基盤に基づいており、権力の構造は経済的なクラス闘争によって決定。一方で、フーコーは権力と知識の関係を強調し、知識の生成や流通が権力関係を形成し、維持することを強調。
    • マルクス主義はしばしば権力を支配的なエリートの手に集中していると見なす。フーコーは権力が社会全体に広がり、個々の人々が権力の抵抗に対して可能性を持っていると主張。
  • フーコーの方法論は「全方位的な思想」として知られ、特に「知の考古学」を用いて宗教と法の境界を探求し、普遍的倫理と法律の融合を考えることを重視。
  • フーコーは日本の歴史や宗教、特に新宗教の例を挙げながら、宗教や法の役割について考察。
  • フーコーの考えはマルクス主義の枠組みを超えており、未来志向で包括的なものとされている。

 

 

 

1. 全方位的な思想
フーコーの方法論はマルクス主義とは全く異なり、権力や国家の問題を別の視点から分析する。フーコーは、マルクス主義の枠を超えて様々な分野に適用できる独自のアプローチを持つ。このため、現代思想が多くの断片的な理論に分かれている中で、フーコーの方法は総合的に現代の問題に対応できる最後の思想とされる。フーコーの「言葉と無」を読んだときに、この新しい方法論に驚きを感じたのが印象的だった。

2. ヘーゲル・マルクスの国家の考え方
ヘーゲルとマルクスの国家論は、国家と社会を分けて考えることに特徴がある。国家は幻想の共同体として市民社会の上に存在し、法律などを通じて市民社会を規制する。マルクスは市民社会が国家よりも大きなものであり、別個に扱うべきだと主張した。国家は法律を介して市民社会に影響を及ぼすか、国家経営の組織を市民社会に設けて関与する。社会主義国家では国家が市民社会を完全に規制するのに対し、資本主義国家では部分的に規制するだけである。この違いは規制の度合いの違いに過ぎない。

3. アジア的な国家の考え方
アジア的な国家観では、国家は市民社会を完全に規制し、個人の生活や心の中まで包み込む存在として捉えられている。これは、戦前の日本においても一般的で、国家や天皇を中心とした包括的な存在とみなされていた。戦後、日本でもヘーゲルやマルクスの影響を受けて国家と市民社会を分けて考えるようになったが、心情的には依然として国家を包括的な存在とする東洋的な考え方が残っている。オウム真理教の事件などを通じて、この古い国家観が現代でも見られることに驚きを感じている。

4. 国家と市民社会
ヘーゲル・マルクス流の考え方では、国家と市民社会は別々の歴史を持つ概念として分類される。国家は観念の共同体であり、市民社会は人々が日常生活を営む場である。これらは独立して考えられるが、現実には互いに影響し合うことが多い。極端な例では、発達した市民社会に古代的な国家が乗っかる場合や、逆に市民社会が国家をリードする場合がある。現代では、特に高度に発達した産業社会が国家を先導し、国家はそれに追随する形で存在している。国家の規制力は産業の国際化によって弱まり、産業の自由な活動が強調される一方で、国家は依然として地域の産業を守ろうとするため、国際的な摩擦が生じる。この矛盾が現代の国家と社会の状況を特徴づけている。

5. 国家ができる前、何があったか
フーコーの理論に基づくと、国家の前には法があり、その前には宗教があったとされる。国家が成立する以前の社会は、村の掟や法が社会秩序を維持していた。掟や法は、部族や村の共同体が持つ規制力で、争いがあったときには武装して防衛する役割を果たした。国家の特徴は、独立した枠組みを持ち、特に武装力を独占する点。国家の初期段階では、村の長老たちが独自の武装力を持ち、村を守るための武装力とは異なる力を持つようになったことが重要だった。これにより、村の掟が国家の法律に取って代わらた。さらに、法律の前には宗教があり、神託による指示が法の役割を果たしてた。こうして、宗教から法、そして国家へと歴史が進展してきたと考えらる。近代国家以降、国家は民族国家としての枠組みを保ち続けており、産業経済の発展と対立しながらも、その枠組みを守り続けている。

6. 宗教とは何か
歴史的に見ると、国家ができる前には法律があり、その前には宗教がありました。宗教は神の言葉として社会を規制し、法律や国家の成立後もその影響を残している。現代社会では、高度な産業社会であっても宗教は存在し、新宗教も登場。これは、人間の社会や思想が宗教的な形態を取り続けるため。イデオロギーも同様で、資本主義や社会主義などの思想が宗教的性質を持ち、人々を規制しようとする。イデオロギーは本来、社会生活を便利にし自由にするものであるにも関わらず、宗教的な信念と結びついて他人を規制しようとする傾向がある。現在の社会における理想的な宗教のあり方として、僧侶も市民社会で働き、余暇の時間で宗教活動を行うことが挙げられる。これは、宗教が本来持つ「自分を超えたい」という願望を実現するための方法。しかし、多くの宗教者は伝統的な形態を維持し、現代の社会に適応できていないという問題がある。

7. 知の考古学という方法
宗教と法の境界:宗教が法になる瞬間やその境界を考えることは重要。フーコーは「知の考古学」という手法で、知恵の蓄積を考古学的に解析し、現代に至ると述べている。

段階的な考え方 vs 考古学的な層:ヘーゲルやマルクスの段階的な考え方に対し、フーコーは知恵が層状に蓄積されると主張しています。この層を理解するために、境界面の考察が有効。

日本の宗教例:日本の浄土宗の法然や親鸞が宗教と法の境界を明確にし、その始まりが中世の鎌倉時代にあったことを挙げている。

仏教の修行:仏教の修行は精神の集中に重きを置き、頭頂部に達することで悟りを得るとされている。この修行法はオウム真理教の麻原彰晃の実践と似ているとも述べられている。

価値観の批判:現代のジャーナリズムや一般的な価値観(美人やテレビキャスターの評価)について、これを盲信すると誤ると批判。

全体を通じて、フーコーの「知の考古学」を用いた知恵の解析と、宗教の修行や価値観の検討が議論の中心となっている。


8. 宗教と法の境界面

新宗教の教祖たちは、旧仏教の修行を否定し、南無阿弥陀仏を唱えることで極楽浄土への到達を提唱。これに対し旧仏教の名僧たちは強く批判し、宗教的修行を倫理の問題に変換し、普遍的な善悪の基準に目指すことを説く。法然は修行を一部認めつつも、親鸞は修行を否定し、一念義を重視している。

9. 宗教を普遍的倫理という面で切る

宗教を普遍的倫理の観点から考えることで、法との接点や普遍的な善悪の問題に焦点を当てる。これにより、信仰や悟りへの到達といった宗教的問題も普遍的倫理の問題として捉え直される。宗教のあり方を普遍的倫理の観点で分析することで、宗派ごとの違いを超えた共通の倫理的枠組みを見出すことが可能になると主張している。

10. 考古学的な層と段階

歴史的な段階論と考古学的なアプローチを結びつけながら、浄土系統の歴史的経緯を考察する。ただし、歴史的段階と考古学的層は必ずしも一致せず、普遍的倫理と法律の融合や、国家形成のプロセスについて論じる。日本の憲法の例を挙げながら、倫理と法の境界が曖昧であり、国家形成における道徳的要素の変遷を分析する。

11. 「法的な規定」という切り口

12. 天皇条項のあいまいさ

幕府時代から明治時代への移行における法的規定と、明治憲法の天皇条項について、そのあいまいさや意味について議論されています。幕府時代の法は徳川幕府によって定められ、武士階級や諸藩の法度がありましたが、国家法としての明確な枠組みは欠けていました。明治憲法では、天皇の地位を神聖視する条項が含まれていますが、これが法律か道徳か、または普遍化した道徳を表すものか、明確ではありません。このあいまいな点は、日本の伝統や価値観と共に引き継がれ、今なお議論されています。

 

13. 近代日本の原罪
近代日本の原罪は、幕末から明治に至る革命の過程で国民憲法を作らなかったことにあると主張される。ただし、これを原罪とみなさない見方もある。日本の特殊性を考慮し、各自が自分の憲法案を持つことが重要だとされる。
 

14. 自分の憲法案を持ったほうがいい
各自が自分の憲法案を持つことが重要である。憲法は現状と個人の理想を合わせたものであるべきであり、これによって国家は進歩し、未来に向けて適切な方向に進むことができる。その際、ヨーロッパの例を参考にすることが有益であるとされる。

15. マルクス主義系統の枠外の人

フーコーはマルクス主義の枠外に立ち、考古学的なアプローチを通じて、普遍的でありながらも科学的でないものを含む方法論を開発した。彼の方法は、歴史や社会を包括的に理解し、未来性を持たせることが可能であると考えられている。彼のアプローチは、現在の思想の中で最も有効かつ未来志向であると見なされており、マルクス主義以外の枠組みでさえも包括的に扱うことができる。