社会の動きを客観的にどのように捉え、

その中で自身が如何に「貴族」として、

つまり、自分と異なる価値観をもった人間の存在を認め、

多様性に対して寛容になり、自分たちの不完全性を前提としながら

一生懸命善く生きなければならないと感じた。

 

オルテガのみならず、バーク、西部や親鸞の引用も参考になった。

私たちの存在は「偶然」が色濃く組み込まれ、

自分とは異なる境遇で苦しんでいる人たちのことを「まったく関係ない他人の話だ」とは言えなくなる。

だから、「自己責任」という言葉で他人事にはできない、というのは全くその通りだと思った。

 

 

 

  • 自分と異なる他者に対して、イデオロギーを振りかざして闘うのではなく、対話を通じて共存しようとする我慢強さや寛容さ。そうした、彼の考える「リベラリズム」を身に付けている人こそが、オルテガにとっての「貴族」。
  • 私という人格や人間性は、私の選択外の部分、私が選びようのない「環境」によって規定されている。「私」とはそのように存在するものであって、「私」をめぐる状況や環境と直接的につながっているというのがオルテガの考え。
  • 仏教の基本には、「私」には実体がないという考え方がある。むしろ、「私の実体とは何か」と考えること自体が「私であろうとすること」という欲望に支配され、苦しみにつながるのであって、「そもそも、私の本質というものはないのだ」と気付いたときに初めて人は解放されると考える。つまり、「無我の我」と言うように「絶対的な私はない」と気付いたときに初めて「私」という現象を引き受けることができるという逆接が仏教の本質。
  • 「私」は、 色・受・想・行・識─仏教用語で 五蘊と呼ばれる五つの要素に依っている存在。そして、その配合を決めるのが「 縁」と呼ばれるもの。「私」がさまざまな人と出会うことで、五蘊の構成は少しずつ変わっていく。つまり、「私」は多くの出会いを通じて日々刻々と変化していくものだと考える。
  • 自分の居場所をもち、社会での役割を認識していて、その役割を果たすために何をすべきかを考える人。それが、彼にとっての本来的な「人間」だった。しかし、近代人はそうではなくなり、「大衆」化してしまっている。そして、その「大衆」は、たやすく熱狂に流される危険がある。これが、「大衆の反逆」という問題設定。
  • 近代では、科学分野を中心に極端な専門化が進行し、自分の専門のことしか知らない学者が増えている。そうした専門家は、特定の事象が起こる要因を単純化・単一化し、複雑な思考を 怠る傾向があるとオルテガは言う。
  • 絶対的な正しさのようなものを特定の専門分野だけでつかむことができるという「科学主義」こそが、総合的な人間の心の機微や感性、あるいは合意形成のすべといった、分厚い文明的な、人間的なものを失わせ、人間を原始人、野蛮人に変えてしまう。オルテガにとって、断片的な専門知だけで複雑な世界に答えを出そうとする態度こそ単純化・単一化の極みだった。
  • 自分と異なる価値観をもった人間の存在を、まずは認めよう。多様性に対して寛容になろう。自分から見ると 虫酸 が走るほど嫌な思想であっても、それはその人の思想だと受け入れることが重要だと考える。これが近代的「リベラル」の出発点。
  • オルテガが使う「貴族」という言葉、これは「大衆」と対立する概念。「ブルジョア」といった特定階級や、単なる「エリート」を指しているのではない。反対者や敵対者とともに統治していこうとする人間。それだけの勇気や責任感、指揮をする能力をもった尊敬に値する人間。そうした存在を、彼は「貴族」と呼ぶ。
  • 《貴族》の本来の意味、つまり語源は、本質的に動的である。高貴の人とは《知られた人》という意味で、世間に知られた者とか、無名の大衆に抜きんでることによって自分を知名にした有名人ということだ。高貴であるということは、かれを著名にするもととなった、なみなみならぬ努力のあったことを意味する。したがって高貴な人とは、努力する人、または卓越した人ということに相当する。
  • 平均人がもつ《思想》なるものは、本当の思想ではないし、それをもつことは教養ではない。思想とは、真理にたいする王手である。思想をもとうとする者は、そのまえに、真理を欲し、真理を要求する遊戯の規則を認める用意がなくてはならない。
  • 真理を所有するということは、自分が正しさを所有していると思い込み、他者を「間違えている」と決めつけることになる。平均人である大衆は、「たくさんの人が支持している」ことをもって「正しい」としたがるけれど、それは過ちだとオルテガは考えていた。間違いやすい、有限的な存在である私たちに正しさを所有することはできない。できるのは、真理に対する王手を指すことだ。
  • オルテガは、自由主義の本質は、常に過去の経験知の中にあると言う。それが他者に対する寛容であり、またそれを可能にするための儀礼や手続きである。現代のリベラリズムがもっている弊害を乗り越えるためには、そうした普遍的な構造をきちんとつかみ取らなければならない。それが歴史主義的な自由主義。
  • 現代において自由を求める大衆は、そうした暗黙知によって構成されてきた秩序や規範を、自由の阻害要因として破壊しようとする。つまり、長く続いてきた伝統や慣習を破壊することこそが、自由への近道だと考えがちだと言う。
  • オルテガは、伝統や慣習を破壊することはむしろ、「自由を担保してきた秩序」を破壊することであり、その結果、自由そのものの底に穴が空いてしまうのではないかと考えた。その「自由を求めて自由を破壊する」大衆の姿を、オルテガは「パンを求めてパン屋を破壊する」という言葉で表現。
  • 彼が、共産主義やファシズムを、徹底して闘わなければならない対象だと考えていた。それは、そのどちらもが、一つの「正解」をみなで所有し、それに逆らう人間を抑圧していく体系だととらえていたから。オルテガの考えでは、人間というのは誤りやすい、有限な存在なので、特定の誰かが「正しさ」を所有することなどできるはずがない。だからこそ、考えの異なる者同士が議論し合意形成をしていくことが重要になる。しかし、当時のヨーロッパでは「議論の軽視」が急速に進んでいる、ともオルテガは考えていた。
  • ここで《間接行動》という言葉が使われているが、オルテガは直接民主制を信用していなかった。人々が選んだ代表が合議して物事を決めていくという間接民主制によって、大衆のある種の熱狂を権力に伝えないための「 緩衝」を置くことが重要だと考えていた。
  • 国家とは根本的に暴力装置であって、個人のさまざまな自由を抑圧する面をもつというのが、オルテガの基本的な見方。大切なのは国家と個人の間にある中間的な領域であり、「隣家の人とうまくやっていく」といった自発的な共同性のほうが、国家よりも圧倒的に重要。
  • 大事なことは、他者と合意形成をしながら自分たちで秩序をつくっていこうとする意志であって、その延長に国家が据えられるべき。
  • 拳を振り上げて撲ることで支配するのではなく、静かに鎮座して、人々の話を聞き、着地点を探りながらその場を収めていくというイメージでしょうか。それこそが「支配する」こと。
  • 過去を直視したとき、そこに見えるのは「死者たちの風景」。死者たちの営為をじっくりと見ることによって初めて、私たちは未来に向けて前進していくことができる。
  • 柳田によれば、かつて日本では「御先祖になる」という言葉が日常的に使われていた。「あなたはよい心がけだから、御先祖になりますよ」とか、子どもに対して「精を出して学問をして御先祖になりなさい」と言っていた。そして人々は、「御先祖になる」ために、一生懸命善く生きようとしていた。
  • 平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。
  • 「必要なのは全体を見るバランス感覚で、そのためには背筋を伸ばして盤面を見なければいけないよ」
  • オルテガは「私は、私と私の環境である」と言い、「私」をある種の社会的な存在として位置づけて、近代の「裸の個人主義」を批判。近代的な理性によって設計的に進歩することができるという近代主義的な人間観に対して、ノーを突きつけている思想家。
  • 私たちは、理知的であればあるほど、あるいは理性的に世界や自分たち自身を見つめれば見つめるほど、自分たちの不完全性という問題に突き当たらざるを得ない。どんなにIQの高い人間でも間違いは犯すし、どんな秀才でも世界全体を正しく把握することなどできない。とするならば、不完全性を抱えた、間違いやすく誤謬に満ちあふれた存在であるということが、私たち有限なる人間の普遍的な姿ではないか。
  • その誤謬を含んだ人間という存在が、完成された社会をつくることができるはずがない。常に暫定的であらざるを得ず、一足飛びに高みには到達できない。その認識に立った上で、どこまでも不完全な世の中を何とかやりくりしていくしかない。これが彼の人間観・社会観。
  • バークは、裸の理性ではなく、むしろ裸の理性を超えたものの中に英知があると考えるべきだと言う。つまり過去長い間、多くの無名の死者たちが積み上げてきた集団的な経験知、良識、伝統、慣習といったもの。同時に、バークは「神」という超越的な存在を重視。絶対者を念頭に置くがゆえに、私たちは自分の不完全性を意識し続けることができる。この超越的存在のまなざしが重要。
  • 西部は、懐疑することを懐疑しないことが重要だと考えていた。疑うことを疑ってはならない。自己の存在をはじめ、あらゆるものを徹底的に疑う。それが実は健全な何かをつかむことにおいて重要。しかし近代は、近代を信奉し、そのまま進めばすべてがうまくいくと考えている。それはあまりにも軽薄だというのが西部の主張。
  • 「自民族中心の思潮」、それこそが大衆化、大衆主義の典型であるというのが西部の考え。そして、ここでもやはりヨーロッパの徹底した懐疑主義について述べられている。その懐疑的精神に立った上で、ぎりぎりのところまで自分たちを、人間を疑い、問い詰めた先に、ようやく「日本という国をどう考えるか」という問いが立てられる。それを経ずして、安易に大衆社会の中で「日本」を礼賛し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と浮かれている人間を、彼は軽蔑していた。それが、西部の考える保守という姿勢だった。
  • 私たちの存在の根本には「偶然」というものが色濃く組み込まれている。このことに目を向けると、自分とは異なる境遇で苦しんでいる人たちのことを「まったく関係ない他人の話だ」とは言えなくなる。何かの条件が一つ違っていれば、自分自身がその人の境遇に立たされていたかもしれないからだ。私が私であるという偶然性とともに、「その人であったかもしれない」可能性に目を開かれることになる。だから、「自己責任」という言葉によって、つらい境遇にあって苦しんでいる人たちのことを簡単に他人事にはできないのではないか。それがオルテガの「私は、私と私の環境である」という言葉に含まれている問いかけなのではないか。
  • さるべき 業 縁 のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(『歎異抄』第十三章)  人間は、業や縁というものによって動かされているのだから、どういう業や縁がやってくるかによっては、どんな行いをするかわからない。それが人間というものだ、ということ。業も縁も、自分の能力ではなく、自分の外部から働く力である。
  • 親鸞が言っているのは、今の自分が今の状態にあるのは偶然だ、ということです。人間とは非常に不安定な存在であって、「今の自分」は何かのきっかけで一気に崩壊してしまうかもしれない。その視点に立って「私」というものを見ていかなければ、自分は自分の力によってコントロールできると思い込んでしまう。そうなれば仏の力からどんどん離れていってしまう。これが親鸞の考えでした。オルテガも、親鸞と非常に近い視点をもっていた。