先日、インディアナ州に住む関係会社の社長と宗教観について会話する機会があった。

というのも、昨年のクリスマスカードと一緒に、聖書に関する漫画本を送ってくれて、

それに関する意見を求められたからだ。

 

彼はアメリカの田舎によくいるような敬虔なクリスチャン(キリスト教信者)である。

そうした考えやバックグラウンドの元、生活を営み、

会社も経営していることを理解してもらいたい、とのメッセージがカードには添えられていた。

 

ちなみに彼はとても魅力的な人間で、周辺の人間を気遣い、そして人を惹きつけている。

そうしたことから、事業も成功させている。

 

彼と会話した際にも、改めて、送った先の人たちに改宗を求めたり、

布教活動をする意図はもちろんなく、これから時を一緒に過ごしていく同僚として、

自身の根本にあることを理解してもらいたかったとの説明があった。

 

そして、そこから話は発展し、創造論(アダムとイブ)と進化論(ダーウィンの種の起源)の話にも及んだ。

良いチャンスだと思って、ストレートにやはり進化論は信じられないのか、と聞いてみた。

そしたら、やはり「ありえない」との話だった。人は皆、神の子であると。

 

ただ、こうも語ってくれた。

エンジニアである彼は、理屈から考えるクセもついていると。

そして、親戚が再生医療の治療を受けて、回復した事象を目の当たりにしたときに、

神が創造したはずの人体が、細胞によって治癒されるとはどういうことなのかと疑問を持つ局面はあったという。

 

彼のような敬虔なクリスチャンも、このように揺れ動くことがあるのだと興味深かった。

 

しかし、そこから理屈とはなんなのかという考えもよぎった。

自分としては、進化論を否定することはありえないことだが、

人は生きていて、理屈では説明できない大事なこと、大切にしたいことがたくさんある。

 

家族や愛する人を前に、理屈よりも優先することはいくらでもあるだろう。

それと同じ話にも思えてきた。

神の元に生きること、それが彼にとって理屈よりも大切なことなのだろう。