今日、出張していた幹部への報告があった。

その幹部には、先月日本に帰国して出社した際にたまたまお会いして、

あまり接点がないので、恐縮しながら名前を名乗り、挨拶をした。

 

今日、その幹部に最初にかけられた言葉が、「そういや日本にいたな」と言われた。

認識してもらえていたんだな、と少しポジティブに捉えたが、その後に出てきた言葉が、

「なんだか神経質そうな奴がいるなと思った」と言われた。

 

もちろん良い気持ちはしなかったが、そこは笑ってごまかした。

 

「神経質そう」と言われると確かに自分に対してその認識はある。

基本的に人から接しやすい人とは捉えられていないだろうな、との感覚はあるし、

なんだか怯えている感じが伝わっているような気はする。

 

しかし、あまり面識もない部下にあたる人間に対して、

「神経質そうな奴」と呼ぶのはどういうことなんだろう、と考えてしまった。

 

そして、「神経質そうな奴」に見えるのは残念だし、格好の良いことではないな、と思い、

打合せの冒頭は、そういったことで頭の中がグルグルとしてしまった。

 

こういう時こそ、変な妄想は辞めるべきだし、

自分のことを良く知らない人の言っていることを気にしてもしょうがないと思うようにした。

 

しかし、この神経質というのはどういうことなのか調べてみたくなる。

アマゾンでそれに類する本を探してみたが、ピンとくるものがない。

自律神経や神経症に類する本が出てくるが、ちょっと違う気もする。

 

ところで、自分は神経質だと思うのだが、決して「気が付」いたり、「気が利」いたりする感じではない。

他の人と比べて、自分のことを考える時間が多く、周りが見えていないことが多い。

 

なんだかこう書くと人間社会を生きる上で未熟な感じを受けてしまう。

 

こういった自覚がある中で、そうでない自分になるべきなのだろうか。

気が付き・気が利く人間になるべく意識したことは過去にもあるが、

自分ではない何かに無理してなろうとするのは難しいし、やっぱりできないとの感覚があった。

 

そして、これまでの「自己理解」での議論からも、不得意の領域に踏み込んで努力するのは辞めた方がよくて、

強みを生かすべきだと説く。

 

確かに強みをより伸ばしていくべきなのだろう。

しかし、人間として何か重要なことが欠落しているような気がする。

 

このことを自分の中でどう整理し、納得させるかは難しい問題である。

瞑想(妄想ではない!)でもすればいいのかしら。