酔いどれ詩人になるまえに
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・あの素晴らしいAVをもう一度〜ハチャメチャな猥談シリーズその1〜

 

どうだ、最近お前らはAVを見てるか?

 

飲み会で楽しくハチャメチャな猥談をしてるか?

 

そろそろ30代が見えてくる。アラサーになっちまった。なんだったらもう30代後半。

 

だからこそ、逆にいい大人だからこそ猥談を楽しくしてるか?

 

俺はしてるよ。ハチャメチャな猥談。ハチャメチャなAVもまだ見てる。

 

むしろ、年々食いつくようにAVを見てるよ。これだけは胸を張って言える。俺はAVを真剣に見ている。

 

食いつくように、噛みつくように。祈るように観てる。

 

 

 

というのはウソで俺は最近AVにときめくことがなくなった。むしろ女にときめくことがなくなったと言っても良い。

 

俺は今年で30歳になる。幸いなことにこんな俺でも結構いろんな女の人と付き合うことができた。

 

客観的に見て、俺には勿体無いような美人だったり、可愛い娘だったり、優しい娘が付き合ってくれた。

 

だからそんな女性たちにすごく感謝してる。でも、なんだろうね。年々女の人にときめくってことがなくなってる。

 

AVとかにも興味があまり出ない。いや、だからと言ってオナニーをしないってわけじゃない。

 

でも今俺がしてるのは惰性のオナニーだ。あんまり食欲が湧かないけど食っておかないと午後の仕事が持たないから立ち食いそばでも食うか。

 

そんなオナニーをしてる。

 

年々、性欲に関する熱量が下がっている。

 

もしかしたらそれが歳を取るってことなのかもしれない。村上春樹の小説(たしかダンス・ダンス・ダンス)にもそんな文章があった。

 

たしか30代後半の主人公が15歳の女の子に性欲についてレクチャーするシーンだ。

 

歳取るほどセックスは上手になっていく、でもそれに比例してセックスをしたいという欲求が薄れていく。

 

歳を取るほど空を上手に飛べるようになるけれども、飛びたいという欲求は薄れていく。

 

そんな内容だったと思う。

 

最近は俺もそんな感じだ。歳を取ったこと。あとは色んな女性と付き合うことで良くも悪くも経験を積んだことで、なんとなく恋愛とかセックスに対して興味が薄れてしまったのだと思う。

 

だから、俺は最近AVを見ないしハチャメチャな猥談もしてない。

 

そんな風になっちまったからこそ、ハチャメチャな猥談をしていたあの頃や、AVを見てドキドキした頃がすごく懐かしい。

 

俺の人生で、まだ30歳しか生きてない人生で、一番良かったAVってなんだろうか。

 

俺のピークAVと言うものが実はある。

 

それは大学生になってすぐのフレッシュマンセミナーとかそういうやつで知り合って仲良くなった女の子と一緒に見たAVだ。

 

なんとなくフレッシュマンセミナーで意気投合して、一緒に飲みに行ったり、お互いの家に行って酒を飲んだりカレーを作ったりしてた頃だ。

 

たしか女の子の家で酒を飲んでた時にエロい話になって(大学生というものはエロい話をしてしまう生き物だから)、盛り上がってその場でAVを見よう、みたいな話になったんだと思う。

 

それでたしかネットでエロ動画を検索して一緒に見たような気がする。

 

多分ネットだったと思う。そこらへんの記憶は定かではないのだけれども、女の子家にAVがあるとは思えないからおそらくネットだったと思う。

 

で、一緒にAVを見て酒が入ってたこともあってメチャクチャ爆笑したのを覚えてる。

 

AVっていうのは結構馬鹿らしいものだから、まじまじと見てみると笑える箇所が結構ある。

 

でも、インタビューが終わって、前戯も終わって、女優と男優がガチで絡んできて最後は割と真剣に見た気がする。

 

で、AVを見ながら女の子が「こういうプレイは絶対に痛い」、とか「こんなに声を出すのは演技だ」みたいなことを言い始めた。

 

それで俺はちょっと動揺した。こいつ経験者なんか?と。

 

当時は悲しいかな、俺は童の貞だったから(いわゆる童貞、cherry boy)すごくドギマギしてしまったのだ。

 

今思い返すとあれはすごく勿体無いシチュエーションだった。

 

今だったら、じゃあどんなプレイが良いの?みたいなことを聞いて、じゃあ試しに俺とやってみようよ。

 

とか言って、とりあえずモミモミを始めてたと思う。

 

でも、その時は貞の童(いわゆるcherry boy、童貞)だったから、なんだか一方的に緊張して結局女の子の家に泊まったけどなんも手を出さずに終わってしまった。

 

そんな俺も最近はAVにも女の子にもドキドキしなくなってしまった。

 

俺はなんだかそれが悲しい。最近はハチャメチャな猥談もないし、ハチャメチャなAVもない。

 

恋愛もセックスもオナニーもどこか予定調和的で惰性の匂いがする。

 

だから、俺は今童貞が少し羨ましい気もする。だってそこには興奮とか熱量があるから。

 

若さとかパッションがそこにはあるからね。

 

というわけで、俺はときめきを求めてる。女の子と一緒にAVを見て緊張したりしてみたい。

 

でも、それは一種の無い物ねだりで多分もう叶わないことなんだとも思う。

 

あの素晴らしい愛をもう一度じゃないけれど、こういうドキドキは若さ故だと思う。

 

俺のあの素晴らしいAVはすごく遠い、もう手の届かないところに行ってしまった。

 

そんなことをしみじみと思いながら今この文章を書いている。

 

3月の午前2時、なんとも想い出に浸るには良い季節だと思う。

 

 

 

 

・ペットにするならケンシロウではなく、モヒカンしかあり得ない

 

今日、午前中にお客さんとの打ち合わせを終えて渋谷でラーメンを食った後に、カフェでいっちょ資料でも作るかとコーヒーを飲んでいた。

 

満腹感のせいで全く資料作成のモチベーションが上がらずに、とりとめもなく思考を走らせていて思いついたのが表題の

 

「ペットにするならケンシロウやラオウではなく、モヒカンしかあり得ない」

 

ということである。

 

もし、北斗の拳に出てくる登場人物がハムスターくらいの大きさになったとしたら、あなたはどのキャラクターを飼育するだろうか?

 

主人公のケンシロウ、それとも我が生涯に一片の悔いなしと壮絶な最期を遂げたラオウ。

 

いやいや、ペットとして飼うならおとなしい性質のトキだという意見もあるかもしれない。

 

何をペットにするのもその人の勝手だし、面倒を見きれるならばそれは飼い主の勝手だから外野がゴチャゴチャいう話ではないのだが、個人的な意見を言わせてもらうならばモヒカンはもっともペットにむているキャラクターだと思う。

 

(群れで移動するモヒカンたち、特徴的な鳴き声だ)

 

我々はペットに対して何を求めているのか?

 

犬、猫、インコや文鳥のようなポピュラーのペットもいれば爬虫類や昆虫のような一般的にはハードルが高い生物をペットとして飼う人もいる。

 

大筋で共通しているのは、ペットを飼育することで「癒される」という点であろう。

 

たとえそれがムカデやゴキブリでも、飼い主はそれらに愛着を持っており、飼育することによって癒しを得ているのである。

 

思うに犬や猫が可愛いのは、我々よりも知能が低いからである。

 

彼らはいつも本能に忠実でまっすぐだ。

 

うちの兄貴が飼っている猫を観察してるとそれがよく分かる。

 

毎日ゴロゴロしては飯を食い、一定の時間になると何もないのに家の中をパトロールする。

 

日課のパトロールが終わった後は窓から景色を眺めたり、ろくでもないキンタマをなめて1日を過ごすのだ。

 

そんな猫を見て我々は可愛いなと思ったり、あるいはたまに猫が羨ましくなったりする。

 

猫には税金も仕事もない、毎日のんびりくらしている。猫のように自由気ままな生活を送ってみたい。

 

コンクリートジャングルで生き抜く我々は、猫を見てふとその自由さに憧れたりするのだ。

 

これがもし猫に高い知性があったらどうだろう?

 

猫なで声など出せば冷めた目で見られ、猫になりたいなどどぼやいた瞬間「我々にも苦労はあるのだ」と反論されてしまう。

 

そんな猫はかわいくないのだ。

 

ネットでは猫を主人と呼んで、飼い主を下僕と呼ぶ一種の冗談があるがそれが冗談として機能しているのはやはり我々が主人であり、猫はそれに従う立場だからである。

 

そう考えると、ケンシロウもラオウもトキもペットには向かない。

 

彼らは我々よりも確実にタフな世界で普通の人よりも多くの苦悩を抱えて生きているのである。

 

核戦争で滅びた日本で帝国を築こうとしたり、それを阻止しようとしたり、死の灰に体を毒されてそれでも民衆のためにかとどうしたりしているのが彼らである。

 

彼らの生き様を知ってしまえば尊敬や畏怖はあっても癒しは生まれ得ないのだ。

 

一方、モヒカンの行き方はネコと同じようにシンプルである。

 

なんせ彼らは本能に忠実に生きている。

 

それに水とか餌を与えれば、もうそれだけで大満足。

 

ペットの可愛さというのは、ご飯をあげるときにどれだけテンションが上がるかで決まると思ってる。

 

犬もネコもご飯のときはいつもソワソワして、餌皿にカリカリが出たときにはテンションマックスである。

 

その点でもモヒカンは犬猫に引けを取らない。

 

何と言ってもこの喜びようである。

 

 

なんといっても愛玩動物は喜怒哀楽がはっきりしているのが一番である。

 

もちろん、モヒカンも生き物であるから一度飼育したら責任を持って飼育することが何よりも大事だ。

 

モヒカンはペットとして最適であるが、かわいいという安易な気持ちだけで飼育できるわけでもない。

 

諸兄らはぜひその点に注意して、実り多きペットライフを過ごして欲しいと思う。

 

 

コイントス

 

  • A:確実に9万円もらえる
  • B:コインを投げて表がでたら20万円もらえるが、裏が出たら1円ももらえない
 
この2つの選択肢を提示された時に、ほとんどの人はAの選択肢を選ぶ。
 
期待値はBの方が10万円なので、AよりもBを選ぶ方が合理的だが人間は無意識に不確実なものよりも、少なくても確実にもらえるものを選ぼうとする性質がある。
 
進化の過程で生存する確率を高めるには、不確定なものよりも確実に手に入るものを選択していった方が生き残れる可能性が高まるからだと言われている。
 
石器時代はリスクを避けて、確実なものを手に入れた方が良いかもしれないが現代社会ではリスクをとって失敗しても生命の危機にさらされることは少ない。
 
だからAよりもBを選ぶ方が長期的には経済的成功を収めることができる。
 
  • A:確実に9万円もらえる
  • B:コインを投げて表がでたら20万円もらえるが、裏が出たら1円ももらえない
 
という選択肢が一度きりならば、Aを選ぶ気持ちもわかるが、人生は長く資本主義社会で生きる我々はこのような選択肢が無限にあるので、短期的にはリスクをとるように思えても長期的に期待値が高まる選択を取り続けていけば自然と経済的な成功を収めることが出来る。
 
今日、知り合いと酒を飲んでいて話の流れでどれくらい金を稼いでいるのかという話題になった。
 
だいたい月の売り上げが100万ほどでそこから経費を引き抜くと、だいたい手取り30〜40万くらいになる。(多分)
 
結構稼いでるんだから、お会計を多めに払いなよ!という笑い話につながるのだけれどもこういう話題になると若干モヤモヤとした気持ちになる。
 
それは収入が多いというのは経済的に合理的な判断を毎日細かいところで積み上げてきた努力の結果だからである。
 
努力した人間に対して、努力してない人間が金を払えということに違和感を感じる。
 
もちろん、飲みの席のちょっとした話だし結果的にはお会計は割り勘だから実害を被っているわけではない。
 
ただ、これをオーケストラで考えてみるとこのような発言をする人は誰もいない。
 
楽器がうまい人は、努力している人間である。
 
努力している人間に対して、努力してない人間が「君は演奏が上手なのだから、努力していない我々にもっと気を使え」ということはあり得ない話である。
 
というわけで、これがもし人間がもともと平等の能力に生まれついているのであれば「下手くそはもっと努力しろ」で全て話が終わるのでシンプルである。
 
が、実際には音楽的な素養は遺伝で決まることがわかっている。
 
一時間練習した時に100うまくなる人と、70うまくなる人と、50しかうまくならない人が存在する。
 
そして、それは遺伝なので本人の努力や責任とは全く無関係のところにある。
 
同じように経済的なセンスも遺伝が影響する要素は大きい。
 
経済的なセンスは数学的な合理性に基づく。
 
IQが高いほど経済的に裕福になるというデータがあり、IQは遺伝と環境の双方から影響を受ける。
 
また、人種によってIQの平均値が違うということも示されている。
 
そうすると収入が多いことはどこまでが本人の努力で、どこまでが親から遺伝されたラッキーなのか判断できなくなる。
 
金の話が飲みの席の与太話ならばそこまで深刻になる必要がないが、これをもう少しグローバルな視点でみると話は違ってくる。
 
僕は毎月3万〜5万くらいをWFPに寄付してる。
 
飢餓や貧困で同じ人間が食うや食わずやの状態にいることに、結構痛みを感じるからだ。
 
ただ、寄付をしながら思うのは貧困はどこまでが本人の責任で、どこからが社会的な責任なのかということである。
 
音楽的な才能があっても本人が努力しなければ楽器は上達しないし、どれだけ良い教師(環境)があっても意味はない。
 
同じように貧困がどこまで社会的なマイナスによるものなのか、本人の怠惰によるものなのか判別がつかないのである。
 
個人的には、仮にそれが本人の怠惰のせいであっても貧困や飢餓で人が死なない世界の方が良いとは思っている。
 
ただ、それがどこまで良いことなのかはわからないままだ。
 
生命現象というのは一度壊れてしまうと、二度と復元することが出来ない。
 
だから、何よりも生命は大切なのだけれども同時に生命は他の生命を殺すことで成り立っているのである。
 
なぜ、人の命は大切かという話になったときに「生命現象は壊れると取り返しがつかない」ということを根拠にすると、そもそも他の生命を殺している人間という存在を肯定できなくなってしまう。
 
一方で、弱肉強食は世の定めだとすれば貧困や飢餓は放置した方が良くなる。
 
人間が人間を大切にするのは当たり前だという話になると、これは一歩間違えると差別や虐殺に繋がる。
 
仲間だから大切にせよ、という考え方は仲間以外は大切にしなくて良いということだ。
 
人間には本能的に「自分や共同体の仲間が正義で、それ以外は敵だ(だから殺せ)」という考え方がインプットされている。
 
ヘイトスピーチが絶えないことや、いつの時代もどこかで虐殺や差別が起きることは原始的な本能としてそれがプログラムされているからだ。
 
ちなみに本能や直感のことを心理学ではシステム1と呼ぶ。
 
逆に論理的な思考はシステム2と呼ばれて、こちらを使って物事を判断することは心理的にも肉体的にも負荷がかかる。
 
17×24=??
 
という計算を暗算でやると、システム2を使う必要があるがこれは脳にとってコストなので、人間は無意識にシステム1を使おうとする。
 
例えば、17×24は、20×20と近いから大体答えは400くらいだろうと考える。
 
あるいはそもそも17×24なんて計算する意味がないといって、計算そのものを放棄してしまう。
 
本能や直感というものは不正確であり、しかも人間はそれを後付けで正当化するバイアスを備えてしまっている。
 
思考停止や直感的に「正しいと思うから正しいんだ」というものは認知的な負荷はかからないが、長期的には不利益を被ってしまう。
 
  • A:確実に9万円もらえる
  • B:コインを投げて表がでたら20万円もらえるが、裏が出たら1円ももらえない
で、Aと答えてしまう人はシステム1に囚われてしまっている人だ。
 
一方でシステム2は正しい答えを導き出してくれるが、ストレスが生じる思考法でもある。
 
期待値は計算すれば答えが出るが、社会問題は考えても結論が出ないことが多い。
 
あるいは結論を出すには10年、20年というスパンでシステム2を稼働させ続ける必要がある。
 
社会問題に直感で答えを出すとかなりの確率で間違ってしまうし、システム2を稼働させるには問題解決までの時間がかかりすぎるし、長い間認知的負荷を抱えることになる。
 
満足した豚になりたくはないが、不満足なソクラテスとして生きることも苦痛である。
 
満足したソクラテスへと至る道があると信じたい。
 

 

 

ソクラテスはシステム2で周囲の人の逆鱗に触れて処刑された。