コイントス
- A:確実に9万円もらえる
- B:コインを投げて表がでたら20万円もらえるが、裏が出たら1円ももらえない
この2つの選択肢を提示された時に、ほとんどの人はAの選択肢を選ぶ。
期待値はBの方が10万円なので、AよりもBを選ぶ方が合理的だが人間は無意識に不確実なものよりも、少なくても確実にもらえるものを選ぼうとする性質がある。
進化の過程で生存する確率を高めるには、不確定なものよりも確実に手に入るものを選択していった方が生き残れる可能性が高まるからだと言われている。
石器時代はリスクを避けて、確実なものを手に入れた方が良いかもしれないが現代社会ではリスクをとって失敗しても生命の危機にさらされることは少ない。
だからAよりもBを選ぶ方が長期的には経済的成功を収めることができる。
- A:確実に9万円もらえる
- B:コインを投げて表がでたら20万円もらえるが、裏が出たら1円ももらえない
という選択肢が一度きりならば、Aを選ぶ気持ちもわかるが、人生は長く資本主義社会で生きる我々はこのような選択肢が無限にあるので、短期的にはリスクをとるように思えても長期的に期待値が高まる選択を取り続けていけば自然と経済的な成功を収めることが出来る。
今日、知り合いと酒を飲んでいて話の流れでどれくらい金を稼いでいるのかという話題になった。
だいたい月の売り上げが100万ほどでそこから経費を引き抜くと、だいたい手取り30〜40万くらいになる。(多分)
結構稼いでるんだから、お会計を多めに払いなよ!という笑い話につながるのだけれどもこういう話題になると若干モヤモヤとした気持ちになる。
それは収入が多いというのは経済的に合理的な判断を毎日細かいところで積み上げてきた努力の結果だからである。
努力した人間に対して、努力してない人間が金を払えということに違和感を感じる。
もちろん、飲みの席のちょっとした話だし結果的にはお会計は割り勘だから実害を被っているわけではない。
ただ、これをオーケストラで考えてみるとこのような発言をする人は誰もいない。
楽器がうまい人は、努力している人間である。
努力している人間に対して、努力してない人間が「君は演奏が上手なのだから、努力していない我々にもっと気を使え」ということはあり得ない話である。
というわけで、これがもし人間がもともと平等の能力に生まれついているのであれば「下手くそはもっと努力しろ」で全て話が終わるのでシンプルである。
が、実際には音楽的な素養は遺伝で決まることがわかっている。
一時間練習した時に100うまくなる人と、70うまくなる人と、50しかうまくならない人が存在する。
そして、それは遺伝なので本人の努力や責任とは全く無関係のところにある。
同じように経済的なセンスも遺伝が影響する要素は大きい。
経済的なセンスは数学的な合理性に基づく。
IQが高いほど経済的に裕福になるというデータがあり、IQは遺伝と環境の双方から影響を受ける。
また、人種によってIQの平均値が違うということも示されている。
そうすると収入が多いことはどこまでが本人の努力で、どこまでが親から遺伝されたラッキーなのか判断できなくなる。
金の話が飲みの席の与太話ならばそこまで深刻になる必要がないが、これをもう少しグローバルな視点でみると話は違ってくる。
僕は毎月3万〜5万くらいをWFPに寄付してる。
飢餓や貧困で同じ人間が食うや食わずやの状態にいることに、結構痛みを感じるからだ。
ただ、寄付をしながら思うのは貧困はどこまでが本人の責任で、どこからが社会的な責任なのかということである。
音楽的な才能があっても本人が努力しなければ楽器は上達しないし、どれだけ良い教師(環境)があっても意味はない。
同じように貧困がどこまで社会的なマイナスによるものなのか、本人の怠惰によるものなのか判別がつかないのである。
個人的には、仮にそれが本人の怠惰のせいであっても貧困や飢餓で人が死なない世界の方が良いとは思っている。
ただ、それがどこまで良いことなのかはわからないままだ。
生命現象というのは一度壊れてしまうと、二度と復元することが出来ない。
だから、何よりも生命は大切なのだけれども同時に生命は他の生命を殺すことで成り立っているのである。
なぜ、人の命は大切かという話になったときに「生命現象は壊れると取り返しがつかない」ということを根拠にすると、そもそも他の生命を殺している人間という存在を肯定できなくなってしまう。
一方で、弱肉強食は世の定めだとすれば貧困や飢餓は放置した方が良くなる。
人間が人間を大切にするのは当たり前だという話になると、これは一歩間違えると差別や虐殺に繋がる。
仲間だから大切にせよ、という考え方は仲間以外は大切にしなくて良いということだ。
人間には本能的に「自分や共同体の仲間が正義で、それ以外は敵だ(だから殺せ)」という考え方がインプットされている。
ヘイトスピーチが絶えないことや、いつの時代もどこかで虐殺や差別が起きることは原始的な本能としてそれがプログラムされているからだ。
ちなみに本能や直感のことを心理学ではシステム1と呼ぶ。
逆に論理的な思考はシステム2と呼ばれて、こちらを使って物事を判断することは心理的にも肉体的にも負荷がかかる。
17×24=??
という計算を暗算でやると、システム2を使う必要があるがこれは脳にとってコストなので、人間は無意識にシステム1を使おうとする。
例えば、17×24は、20×20と近いから大体答えは400くらいだろうと考える。
あるいはそもそも17×24なんて計算する意味がないといって、計算そのものを放棄してしまう。
本能や直感というものは不正確であり、しかも人間はそれを後付けで正当化するバイアスを備えてしまっている。
思考停止や直感的に「正しいと思うから正しいんだ」というものは認知的な負荷はかからないが、長期的には不利益を被ってしまう。
- A:確実に9万円もらえる
- B:コインを投げて表がでたら20万円もらえるが、裏が出たら1円ももらえない
で、Aと答えてしまう人はシステム1に囚われてしまっている人だ。
一方でシステム2は正しい答えを導き出してくれるが、ストレスが生じる思考法でもある。
期待値は計算すれば答えが出るが、社会問題は考えても結論が出ないことが多い。
あるいは結論を出すには10年、20年というスパンでシステム2を稼働させ続ける必要がある。
社会問題に直感で答えを出すとかなりの確率で間違ってしまうし、システム2を稼働させるには問題解決までの時間がかかりすぎるし、長い間認知的負荷を抱えることになる。
満足した豚になりたくはないが、不満足なソクラテスとして生きることも苦痛である。
満足したソクラテスへと至る道があると信じたい。