エンジンをブンブンふかせる一年
前回の続きを書こうと思って何度か書きつらねてみたのだけれど、あれ?論旨がおかしい!と気付いて、手が止まる。困ったあるよこのまましれっと違う話題にしてしまうか?どうしたもんだか、と思っていたのだが、今日、妹と話していて、何となくヒントが見えたような気がしたのでとりあえず書き進めてみる。私には姪が一人いる。妹の娘だ。彼女は高校2年生。来年は受験生だ。進学校に行っているので親としてはガリガリ勉強をしてもらいたいようだが、これが、ビックリするほどやらない。よくもまぁ、そんな成績で涼しい顔をしてるよねと、友人達にさじを投げられる始末。友達が呆れるレベルって、どうよ?!姪は中高一貫校に通っているので、今までは学校の成績がどんなに悪くても別に構わなかったのだがさすがに大学受験を控えた身、そろそろ勉強をしなくてはまずい。妹の苛立ちはピークに達する。なんせ、妹は実に真面目な受験生だったのだ。私は夏休みの宿題を2学期が始まってから片づけるような不真面目な生徒だったが妹は、きちんと予定表を作り、おまけにその予定通りにこなしていくという私にとっては異次元の生き物だった。だから受験勉強も、一人でスケジュールを組んで黙々とこなしていった。”Mrs.スケジュール”を母に持ったのに、姪は私側の種族だった。実に残念。「あの子はお姉ちゃんにそっくりやねん!」妹が吐き捨てるように言う。あ、ほんと、すみません妹のイライラはピークに達している。先日の模試の結果がでたのだ。もちろん、堂々のE判定。しかし当人は、落ち込むでもなく、飄々としているらしい。どういうつもりだろうか?怒り半分、諦め半分、といった表情で私に愚痴ってきた。あぁ…。身に覚えがありまくる。実は私も中々スイッチの入らない人間だった。恐らくだが姪は「自分が将来なりたいと『心の底から』思える像」を探そうとして、探しきれずに宙ぶらりんの状態になってしまっているのだ。それが見えない状況で、勉強する意味が見いだせないのだと思う。なりたい像があり、そこに到達するための大学がある。だから、その大学に入るために勉強する。この図式が綺麗に描ければ勉強にも身が入るのに…と思って、「なりたい像」探しをしているような気がする。姪はまだ高校二年生。一番の関心事は部活と友達との会話だ。小さな世界の中ですべてが完結する。だから社会の何たるかを知らない。(いや、私も知らんがね)ましてや時代の流れが速く、未来予測がつきにくいご時世だ。そんなときに生涯を捧げるにふさわしい仕事を探せ、と言われても難しいに決まっている。そして自分探しの迷路に迷い込む。姪の姿に自分を見る思いがする。目標とする遠大な”BEING”はあまりに抽象的すぎてピンとこない。そのBEINGの表にあるDOING(私は何をやりたいのか?)を明確化したいのだが、それが上手くいかない。私は狭い世界の中に長く閉じこもりすぎた。発想が硬直化して今の延長線上でしか物が考えられない。それでも現状のままではダメだとわかっているから気だけは焦る。焦るけれども何も思いつかない。だから焦る気持ちから一瞬逃れたくて、大して意味のないSNSへ救いを求めてしまう。Twitter、Facebook、インスタ、YouTubeのダラ見である。本来しなくてはならないことを全くせず、怠けているとしか思えない行動に身を費やす。事情を知らない周りの人間からは信じられない行動に見える。姪は飄々としているのではない。困っているけれど、自分でも自分を持て余しているのだ。確かに私は過去、何度も大いなるモヤモヤの中でもがいてきたけれど、どうやってその苦境を乗り越えてきたんだっけ?ふと自分の人生を振り返ってみた。例えば税理士試験。実は私には「こんな税理士になろう!」という明確なビジョンなどなかった。税理士になりさえすればどうにかなるだろう、という安易な気持ちだった。それでも勉強が続けられたのは何故か?最初は超絶、不真面目な受講生だった。土日にビデオ学習するコースだったのだが、ビデオブースでは、ひたすら惰眠を貪るだけだった。3ケ月ほど続け、このまま続けてても何の意味もないよな…と遅ればせながら気付いた私は、慌ててリアル授業コースに編入する。これが復活のきっかけとなった。そのとき出会った「簿記論」の先生の授業がものすごく上手だったのだ。めちゃめちゃ授業が面白く、どんどん分かっていってそれに比例して、世界がぐんぐん開けていく。当時はすでに会計事務所に勤めていたので専門学校での学びが実務に直結したことも面白味を倍増させる要因だった。結局、目指すべき「税理士像」など一切描けなかったが、ただ勉強が楽しくて勉強を続けることになった。そうすると結果がついてくる。だからまた頑張る。時間と労力を投下する。すると何となく好きになってくる。隙間時間も勉強に充てるようになる。費やす時間が増えれば増えるほど勉強が苦ではなくなる。はい、中毒の出来上がり!いつのまにか 私=受験生 というカテゴリーにすっぽり入っていった。ここまで書いてきて、なぁんだ…と思った。私は年末に2020年の目標として「今年の漢字は『狂』でした! といえるような年にする!」とブログに書いた。狭い安住の地から脱し、あらゆることに前のめりで駆け抜ける年にするのだ、と言っていたのだ。その言葉の意味が自分の中できちんと体系化できていなかったことに気づく。私も姪も自身の狭い世界の中では目標を見出すことが出来ずにいる。それなのにうんうん唸り続けていれば天啓が舞い降りるごとく遠大な目標があちらからわざわざやってきてくれると思っていた。いや、それを明確に意識していた訳ではない。けれど潜在意識をきちんと掘ればそこに主体性を放棄した甘えが潜んでいるのに気づく。だから安住の地から出て、前のめりで世界を広げる行動を起こさねばならなかった。狂ってるんじゃないのか?と言われるほどに、新しい世界をクンクン嗅ぎまわって発見と学習を繰り返す。私は自分の知らない世界に出会うことが好きだ。そこに投下する時間が増えれば増えるほど愛着がわき、面白味が増す。そして走っている自分自身が楽しくなってくる。ランナーズハイだ。それが最初のエンジンの掛け方なのだと思う。私はただカッコいい響きだな、という理由だけで「狂」の一年にする!と決めたのだけれどそれは「遠大な目標」を定め、バイクで疾走するための準備作業として、エンジンをブンブンふかす一年とする、という意味だったのだ。全然、気付かずにいた何気なく吐いた言葉が自分の中にたまった言葉たちと結びついてジャングルジムのようなものが出来上がり、その姿を見て、考えや物の捉え方が再編集される。それがブログの効用か。同じ行動でもそこに意味が付与されると全く違う種のものとなる。自己をより楽しく軽く動かすために言語があるのだ。ところで姪はどうすればいいんだろうか?受験生が、それもE判定からスタートのハンデ持ちの受験生が新しい出会いに突っ込んでいく時間も資源も今はない。だから彼女はもう少し時間軸を長くとらねばならない。すなわち、大学生活までをすっぽり「狂」の時代にする。だから大学は、自分の知らない世界に飛び込んでいきやすい環境を備えているところを選ぶのだ。勇者が狩りに出かけるがごとく大学の扉を開いて、そこで沢山の狩りをする。だから扉を開けに行かねばならない。やっていることは自己の偏差値を少しでも上げて受験競争に勝ち抜くことと何ら変わりない。それでもその裏に鍵を開けに行く、という気持ちがあるのとないのとでは取り組み方に違いが生じるのではなかろうか?この仮説が当たっているの否か、正直分からない。それに私と姪は別人格だから私が姪の気持ちを真に理解することなどできない。だから私は伯母として、姪が悔いなく高校3年生を過ごせるといいな、と願うばかりだ。