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Never end

偶然?必然!全てはChange&Askaと共に

Chageのライブも終わり、ASKAの結審も済み、マスコミの話題も何事もなかったかのように次のゴシップに花を咲かせている。


1985年秋、チャゲ&飛鳥はワーナーパイオニアとの契約が切れ、次のレコード会社が決まらぬまま正月の武道館公演を決めた。


ファンクラブ会員は身分証明書を作って九段会館で決起集会を行い、武道館を満員にするべき使命をチャゲ&飛鳥本人達に課せられたのである。


あの時は何人集まったのだろう。


出口で交わした握手、ASKAの大きな手は今でも覚えている。


Chageは春にその肉厚な手を握り懐かしさを感じたばかり。


その後数枚のポスターを持ち、「SHAKIN' NIGHT」ツアーも大詰めになった11月、一関文化会館で声をかけた一人のファンの女性はその後ずっと私のチャゲアス友となり、29年の付き合いになる。


後にも先にも彼らからファンに対してのhelpはその一回だけだったと思う。


それ位ファンを身近に感じて居てくれたのだと思う。


ギターで曲が作れなくなったと何年か前から度々口にするようになったASKA。


「自分の好きなメロディーはあんまり評判良くないんだよね、でも俺は好きなの!」


冗談めいて話していたけど、本音だったんだね。


「自分はずっとラブソングを歌っていきたい。年寄りになってもね」


そう、ASKAのラブソング、又聞きたいよ。

今から30年前、私はチャゲ&飛鳥のマネージャー(現在はASKAのマネージャー)渡邉徹二さんにインタビューした。

コンサートの忙しい最中、記述式とはいえ素人の学生インタビューにこのような真剣な文章を寄せてくださいました。

以下、「ロンサム カーボーイ」のインタビュー記事内容です。


―この仕事を始めたキッカケは?


YAMAHAに入社したから。


―チャゲ&飛鳥以前の担当は?


宣伝担当だったから、YAMAHAのアーティストの宣伝、取材の担当を全てやりました。


―この仕事で一番気を使うことは


自分も落ち込まず、アーティストも落ち込ませないこと。私が言うことを、アーティストに納得させること、信頼感を得ること。


―この仕事の楽しいところは?


人を感動させることができる人は、世の中にはそういないけれど、人を感動させる仕事ができた時は、私自身も感動できるから、そういう意味では楽しいかな。


―では、大変だなと思うことは?


普通の人じゃ、できないよ。頭が良くないとできない、ところが大変。


―自分の仕事を、どう思いますか?


簡単には答えられないな。

ハッキリ言って、スゴイと思うよ。

人間が人間を管理して、しかも信頼を得る上に、事務能力にも猛けて、経営能力も要求されるし、チャゲのマネージャー、飛鳥のマネージャー、チャゲ&飛鳥のマネージャー、ユッコ&チャゲ(※当時「ふたりの愛ランド」ヒット中)のマネージャーと4人分のマネージャーをしてるし、年間100本以上のツアーを4年間もやっているし、1ヶ月のうち東京にいるのが5日間位しか在なかったり、もう大変!

ひとりで出来ると思うかい?


―ではOFFの日は何をしているんですか?


OFFはほとんど今はないな。

彼らがOFFの日は、僕は本当に大変なんだ。その日に仕事をしなかったら、彼らのコンサートもテレビ、ラジオ、取材も全てパーです。


―“チャゲ&飛鳥”はどのような人間ですか?また、彼らのこと、どう思いますか?


好きだよ。

どうゆう人かはわからない。 でも、性格が合っているからやれると思っている。

ファンの人達には絶対わからない面を持っているョ。


―では、ナベさん自身、Mottoとしていることは何ですか?


誰にも私の仕事は理解できない、ということを知って仕事をすること。



今回TUG of C&A に寄せられたメッセージを読んで、30年前と全く変わらない愛情で今も、そしてこれからも関わっていくであろうナベさんに、改めて敬意を表します。



1979年8月25日チャゲ&飛鳥「ひとり咲き」でデビュー

中学3年の夏休み、「松山千春のオールナイトニッポン」が始まるのを待ちながら半分寝ぼけていた私の耳に入ってきたこの曲。
歌詞のインパクトと低音から高音への突き抜ける声、ちーさまの話など吹っ飛んでしまった。
インターネットなどない時代、その後どこでどう調べたのか、将来の事など考えたこともない山奥の少女は、いつかこの人たちの役に立つ仕事に就きたいと考え始めた。

3年後、漠然としながらも大きな夢を持って東京の専門学校へ。
奨学金制度を使った専門学校は中々見つからなかったのか知識が無かったのか、音楽関係に進むはずが雑誌編集の学校に入学していた。

東京といえば、何せチャゲ&飛鳥様が居られる街。
同じ空の下にいると思うだけで幸せだった。

給料のほとんどはライブ(当時はコンサート)に使い、いつもお腹がすいていた(笑)

専門学校も2年生となり、本題である雑誌を前期と後期で2回発刊する事となった。
取材は学校名、趣旨を伝え、きちんと先方の了解を得て行うようにと先生に言われ、私は正式に「チャゲ&飛鳥」に取材を申し込んだ。
実は関東近辺のコンサートには足繁く通っていたし、スタッフへの差し入れも怠らなかったから顔なじみになったスタッフもいて、「じゃ、ナベさんに聞いてきてやるよ」と快く引き受けてくれた。

1984年6月24日熊谷会館のチケットが載ってるが、私の記憶が確かならば、後日八王子市民会館で「チャゲアスは忙しいけど僕で良いなら答えるよ。だけど時間取れないなぁ。質問書いて持ってきてよ」と言ってたよ、と佐藤さん(覚えてるもんだ)に言われルーズリーフに書いてお願いした。