日本地震前兆現象観測ネットワーク 3188 '15 7/8


①『本日の地震4回』
8日22時14分 宮城県沖 M4.4(最大地震)
8日18時47分 和歌山県 M2.4
8日13時23分 岩手県 M2.4
8日08時43分 釧路沖 M3.0


②『台風3兄弟』
かなり早くから、警告を発していた。この時期、このような予報を出していたブログは皆無に等しい。当ブログくらいである。
最近やっとマスコミも取り上げ始め、バラエティ迄多くの時間を使って報道している。


③『T30(ハイエン)で約8000人の死者』
2013年11月、比島で約8000人が死亡した超大型台風ハイエン(30号)等の例がある。
日本でも昭和の三大台風(室戸、枕崎、伊勢湾台風)による死者、行方不明者は1万人を超す、超大型台風だった。
温暖化と寒冷化のせめぎあいで、どうしても大きな台風に発達する。太陽活動は地震に関係ないが、気象・海象には、大きな影響を与える。
今回の台風3兄弟もかなり発達してきた。心配である。


④『本日のEs』
大オープン。


⑤『酒井さんの日報』
活動度指数
7日の黒点相対数(NOAA/SWPC)は、118、6月の月平均値(ブリュッセル)は68でした。
7日の黒点総面積は700でした。
7日のf10.7は130でした。
7日の地磁気K指数合計は5、最大のK指数は2でした。
短波伝搬を予測する為の、7月~9月の黒点相対数(ブリュッセル)の予測値は夫々、75、73、72です。
※7月1日よりブリュッセルの黒点相対数の計算方法が変更になり、NOAA/SWPCから報告される黒点相対数とほぼ同じ値となっています。


⑥『今朝の心拍』
上昇72。


⑦『メッセ』
緑4。
時々、イエローゾーンに達する事があったが、概ねグリーンだった。


⑧『産経新聞より(村上智博記者)』
【世界遺産登録】韓国、今度は「松下村塾」を標的に 伊藤博文ゆかりの地が原因?
韓国の「後出しじゃんけん」で、文化遺産への登録がひと悶着した「明治日本の産革遺産」に対し、韓国政府が今度は、松下村塾に批判の矛先を向け始めた。初代韓国統監の伊藤博文元首相ゆかりの場所である事が理由とみられる。韓国側の止まることを知らない反日姿勢に対し、日米外交当局だけでなく、九州・山口の施設関係者にも、諦めのような“韓国疲れ”が広がりつつあるようだ。普通では考えられない…


⑨『昨日⑨のくだらん遺跡』
駄々っ子のような振舞い、大人のジェラシーにはあきれ返る。
韓国に遺産登録にふさわしい、他に遺跡はないのか。もし申請するなら、
我国は喜んで協力、推進に力を貸すであろう。
 

⑩『続、産経新聞より(村上智博記者)』
遺産登録を優先させた日本は、韓国側との事前協議に応じたが、これが禍根を残す結果となった。
結局、日本側は文言をめぐって「強制労働はなかった」と説明しているのに対し、韓国側は勝ち誇ったように「日本が初めて強制労働があったと認めた」と都合のいいように対外発信を繰り返す事態となっている。
日米中のはざまで外交的に孤立していた韓国が、外交失策に対する国内の批判をかわし、名誉挽回とばかりに外交勝利を喧伝したがったのだろう。
だが、問題なのは日本政府が幾ら「強制労働はなかった」と説明しても、韓国政府の説明が国内外で一人歩きし、戦時賠償訴訟の理由に利用される可能性が出てきた。
朝鮮半島出身者の戦時労働は、日本人にも適用された国民徴用令に基づく合法的な勤労動員だ。又、「その多くが密航者も含めて高賃金目当てに自分意思で本土に渡航してきた」(福岡県筑豊炭田関係の在日韓国人)との証言もある。にもかかわらず、韓国の裁判所では戦時徴用をめぐり日本企業に賠償を命じる判決が続いている。
韓国高裁は6月24日、戦時中に名古屋の軍需工場で働いていた韓国人等による賠償訴訟の控訴審で三菱重工業に賠償を命じた。
不当な判決を無視できないのは、今回の合意を盾に戦時賠償請求訴訟を乱発されかねないだけでなく、実際に判決が出た場合、日本企業の韓国内における資産が、凍結・没収される恐れもあるからだ。
中国では昨年4月、戦時賠償訴訟に敗訴し、商船三井が船舶を一時的に差し押さえられる事態も発生した。韓国の反日攻勢からは今後も目が離せない


⑪『密航を含めて出稼ぎに来日した者が大半だった』
「多くが密航者も含めて高賃金目当てに自分意思で本土に渡航してきた」鮮人ばかりだったのは事実である。当時、国内の産業は何もなく、失業者だらけで、食うのにも困っていた。
女は売春婦の就職口はあったが、男は職もなく、貧しく、乞食が多く、悲惨な状態だった。そんな時代だったのである。
満州へ行く途中、韓国に滞在した事がある。又、ハルピンからの転勤(父)で帰りも、しばし、滞在した。当時を知る私が見てきた事を話すだけだが…

尚、ハルピンからは台湾の台中へ(父は転勤した)、その後、ヘイトウへ転勤、戦争末期、キールン港から、命からがら帰国できた。当時の商船は99%、米潜水艦によって撃沈された。