テディ タカハラの旅ブログ

テディ タカハラの旅ブログ

アジアひとりぼっち 旅して、恋して、微笑んで
第1章 スサイゴン 恋する街角、
第2章 コリアンシンドローム〜友への祝辞、
第3章 ジプニー乗って微笑んで、
第4章 微笑みの国からこんにちは、
第5章 デジャブー、ララバイ、

Amebaでブログを始めよう!
これまたややこしい話なんですが、

この写真のCDをとある方に渡すのですが、

その方とは、
よくJAZZのLIVEを聴きに行きました。

ご退職されてから、
一緒にNYのビレッジバンガードに
JAZZを感じに行く約束もしておりました。

ところが、
60歳になられる前に
その方は、お亡くなりになられました。

そうなんです、
その方は、もうこの世にいません。

では、
どうやって渡すのか?


話しを
その方が亡くなられる7年前に巻き戻します。

『タカハラ君、家の塗装して欲しいやけど、
 いっぺん見積もりしてくれへんか?』

そう言われ、
見積もりに馳せ参じたわけですが、

結論から言うと、
その時塗り替える必要はなく、
5年先でも大丈夫でした。

僕は、
『5年先に塗り替えましょう!』
 
そう言って、
5年先に塗装する約束をして帰りました。

その後も
何度か一緒にJAZZを聴きに行きましたが、

何故か、
5年の歳月が経過しようとした頃から
喧嘩をした訳でもないのに会わなくなりました。

お互い忙しかったんだと思います。  

それから2年、
見積もりに行ってから7年後のことです。

仕事は、ありえないほど忙しく、
その方との約束を忘れていました。
 
熱い夏の日、  
その方の家の近くを通り過ぎようとした時、

どこからともなく、
『タカハラ君、早よ塗ってよ!』

という声が聞こえてきました。

それは、
明らかにその方の声でしたが、
ただの空耳にしか思えませんでした。

僕は、
その時、約束を思い出し、
とにかく早く会いに行こうと思いました。

しかし何故、
そんな声が聞こえたんだろう?

そう思いながらも、
あまりにも忙しくて会いに行けません。

その2日後、
その方の家の近くを通り過ぎようとした時、

『タカハラ君、いつ塗ってくれるん?』

また、その方の声が聞こえてきました。

これで二度目です。
そんな声が聞こえたのは、、、

僕は、数日後の日曜日に行くことにしました。

その翌日、
三度その方の家の近くを通り過ぎようとした時、

『タカハラ君、頼むで、きれいに塗ってよ!』

またまた、その方の声が聞こえてきました。

これで三度目です。
もうたまたまではありませんし、
そう感じただけでもありません。

その翌日、
その方の家の近くを通り過ぎようとした時、

何も聞こえてはきませんでした。

そのまま事務所に帰りました。

ファクシミリが一枚届いていました。

それは、

その方の訃報でした。


翌日、その方の通夜に行きました。

頭の中で、

コルトレーンのサックスの音が
狂ったように鳴り響いているようでした。

なんとも言えない気持ちでした。

亡くなられてからすぐに
初盆がやってきます。

お盆迄に渡したかった物があります。

僕は、その方の家に
オスカー ピーターソンの
アルバムを持っていきました。

その方の奥様とも顔見知りです。

奥様に挨拶をし、

仏壇でお線香をあげ、

とても話しにくい話でしたが、

亡くなられる数日前からの出来事を伝えました。

すると、

奥様は涙目で、

『確かに、営業マンがやってきて、塗装の見積も
 りをして帰りましたが、この家は、タカハラ君     
 に塗ってもらう。僕から連絡しとくわ。そう言    
 った数日後に主人は倒れて入院しました。』

それは、不思議な話しですが、

僕がその方の家の近くを通り、
初めて、その方の声を聞いた日と重なりました。

涙がこぼれそうになりました。

奥様がそう言われた直後、

床材でしょうか、

家の中のどこかで、

突然、木が音を立てていました。

僕には、

ピーターソンのピアノの音色に合わせて、
その方が足でリズムをとっている音に
聞こえてなりませんでした。

あるいは、
その方は、まだJAZZを聴けるんじゃないか?

その時、僕は
そう思いました。

それから毎年、

その方の家に行き、

仏壇でお線香をあげ、CDをお供えする度に

家の中のどこかで、
『パキッ、、、』って、

音が聞こえてきます。

そうやって僕は、
この世にはいないその方にCDを届けています。

5年ほどは、
忙しくてもなんとかお盆前に行けましたが、

昨年は、
個人的な事情で渡すことができませんでした。

だからこそ、
今年は、どんな事情があろうとも渡したい。

またその方が

リズムを取る音を聴きたいから、、、


クメール式白身魚のカレー(Amok)

タイのグリーンカレー程の辛さはなく、ココナッツミルクを使ったとてもマイルドなカレーです。フランス植民地時代の名残りがある逸品です。




結局、
この料理も3 回も食べることになりました。

上の写真
モデル アルコール リゾート ホテルで食べたAmokが一番美味しかったですが、ここでは、socheata restaurantを紹介しておきます。

Webはありませんが、socheata restaurantは、オールドマーケットの中、日本人が経営されているVery Veryさんの横にあります。

この辺りは、
オサレなエリアです。女子におすすめです。






ちなみに、
カンボジアには、

なんと、

住所がないそうです!

カンボジアのシェムリアップ、

 

 
 


アンコールワットが有名な観光地ですが、
今回、僕が行ってきたのは、町の中心から15キロほど離れた田舎です。
周りには、BAKONという遺跡はありますが、観光客は、わざわざそこには行きません!

 

さて、最近NHKから取材依頼があり、局のクルーがやってきて2日間かけて撮影が行われ、その内容を放映された工房を訪問してきました!

 

そこは、Khmer Art Leather Carvingというレザーカービング(牛の皮を使った彫り物)を製作されている場所で、オーナーであり、先生でもあるNhek Sirey Rattanaさん(以下ラッタナーさん)にお話しを聞かせて頂きました。

 

 

 

 

ラッタナーさんは、9歳の時に父親を、12歳の時に母親を亡くされています。というより、クメールルージュに殺されたのです。

それから、生きていくためにレザーカービングを作り始めたそうです。より精度の高い物を作ることが食べること、生きるための術だったそうです。日々大変な苦労をされたことは言うまでもありません。

 

約200万人以上の人々を虐殺したボルポトとクメールルージュ、それから四半世紀経った今でも苦しんでいる人々が多くいるようです。

 

ここにいる子供たちの多くも両親がいません。ラッタナーさんが自ら経験されたように、彼らには生きていくための術が必要なのです。だからこそ、彼らのために、レザー カービングの技術を自分の中だけにしまっておくのではなく、教えていこうと思われたそうです。まさに魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えようとされています。

 

 

 
 

 

工房で寝泊まりし、朝から夜までラッタナーさんの教えを受けている彼らの作品は、それまでに多くの遺跡の前で売られていた観光客向けの物とは、似て非なる物でした。

 

 

 
 
 
 

 

彼らの技術は、相当高く、作品を見たら脱帽しました。それぞれ作った作品が売れれば、その20 %を子供たちに渡されているそうです!彼らは、もっと良い作品を作りたいと言います。作品を作るという経験を積み、評価されるという喜びを得るためにも、一枚頂くことにしました。

 

 

 
 

 

「Now Peace!」

 

ラッタナーさんが言われたその一言が耳から離れません!

 

この工房を卒業後、

子供たちは、警察になったり、弁護士になったり、大学へ行ったり、ラッタナーさんのような素晴らしい大人になったり、したいそうです。

 

子供たちが大人になった時、かつて、国民の大半が苦しめられていた国が、どうなっていくのか?

 

両親を殺害され、生きるために必死で行動され、今このような活動をされているラッタナーさんのような人々とその教えを受けた人々こそが幸せな国を創っていくのだと僕には思えてなりません!

 

ところで、僕が子供の頃、テレビをつければ、

カンボジア難民、ガリガリで、目がギョロっとした、お腹だけがやたら出ている子供たちの姿が映し出されていました。

 

カンボジアに来るまで、何度もその映像が蘇ってきました。

 

ところが、実際にこの国を訪れた時、人々から向けられたのは、

 

屈託のない笑顔、微笑みでした!

 

時間にして25年と11カ月、

空間にして、20,000KM、


普通に考えれば、
それだけ離れている人と会えるわけがない。

ところが、やはり、会ってしまった。


結論、会いたいと思えば、

やはり「誰にでも会える」と僕は思う!


今回彼女と再会することになったのは、


ちょうど2か月前、12月21日


僕が日本を出発し、タイへ旅立った日、

なぜか飛行機に乗る前に彼女のことを思い出し

「どうしてるんだろう?」と問いかけたことに端を発する。


彼女とは、アメリカ滞在中、大学で同級生だった。彼女は、中米のホンドュラスという国からやってきた留学生だ。滞在中には、彼女を含め、多くの中米出身者にはとてもお世話になり、僕のつたないスペイン語のほとんどは、彼らから教わった。


僕が途中帰国してから、彼女とは会っていない。そんな彼女のことをなぜ思い出したのか、未だに謎だ。


12月23日、

タイ人実習生のルットから、

「カラバオのTシャツを買ってきてください!」と言われていたので、僕は、妻と子を連れて、ウィークエンド・マーケットを訪れた。


店の数にして、15,000店。

客の数にして、200,000人、


そんな雑踏の中、スペイン語が聞こえてきた。

見れば、10数人の大家族、あきらかに彼らはラテンアメリカなまりのスペイン語を話していた。


僕は、中米出身の同級生たちのことを思い出した。彼らは、当時日給5ドルもない国々から来ていたが、「そんな彼らも、こうやって世界中を旅する時代がやってきているのか」と思うと、経ってしまった時間の速さと時代の変化に戸惑いを感じる。



そうしていると、息子に「お父さん、早く行こう」と急かされた。


ふと我に返り、僕たちはその場を離れた。

しかし、しばらくしてから、僕は、彼女のことを思い出し、なぜかそこに彼女がそこにいたのではないかと思えた。


周りを見渡したが、あの大家族の姿は見当たらない。もう一度、見て確かめたかったが、既に僕たちの周りにはいない。


「あの場所にいたのは、彼女ではなかったのか?」しばらく鼓動が鳴りやまなかった。


12月25日、


シンガポールへ旅立つ朝、
スワナプーン空港で、僕はFACEBOOKを開いた。

そこには、彼女の投稿があった。

「I am in Thailand!」と、、、、、


ワット・プラケオ(王宮)の像の前で、
3人の娘さんらしき子供たちと一緒に両手を開いている彼女の写真が、、、、、


はやる気持ちは、抑えられなかった。


シンガポールに到着後、思い切ってメッセージを送ってみた。ご主人の仕事で、アジアに2年ほど暮らしていることがわかった。しかし、それ以上のことはきけなかった。違っていたら、その気持ちが泡のようにすぐに消えさってしまうと思っていたからだ。本当は、12月23日にウィークエンド・マーケットにいたかどうかを聞きたかったのに、、、


1月16日、

やはり、どうしても事実かどうか確かめたかった。思い切って、連絡してみた。


「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、12月23日、ウィークエンド・マーケットに居た?」と。


彼女からの回答は、「いたよ。でもなぜ?」だった。再び、僕の鼓動は鳴りやまなかった。


「実は、君をみたんだ!」と僕はメッセージを返した。


「あんなにたくさんの人がいるのに、驚きだわ!」と彼女は返信してきた。


数回メッセージをやりとりし、会う約束を交わした。


2月24日、


午後3時、サイアム・パラゴンのエルメス前、

日曜日ということもあり、混雑していたが、

また、25年と11カ月という歳月会うことはなかったが、今度は、すぐに彼女だとわかった。


感動の再会!


必然の再会!


しかし、不思議と鼓動が鳴ることはなかった。


彼女の家族を紹介してもらった。

僕の家族はまだきていない。


気をきかしてくれたのか、ご主人はしばらく娘さんたちと一緒にデパートの中を歩いてくれた。ふたりだけでいると、23歳の時にタイムスリップしたかのように錯覚した。


彼女たちがよく歌い、僕がよく聴いていた歌がある。


「EL RELOJ(時計をとめて)」、まさにそんな風に思える瞬間だった。


彼女と恋愛関係も恋愛感情もあったわけではなかったが、、、、、


別れ際、

「また会おうね!」と僕が言うと、

「今度は、すぐに会えると思う!」と彼女は言った。その時、僕の家族も、彼女の家族も僕たちの周りを囲んでいた。


それは、20,000KMも離れたふたつの家族の物語の始まりだった。

 

いつかは、なると思っていたが、

ソノイツカガ現実の出来事となった。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2016030500197

慢性的渋滞のバンコクにして、
古き良き時代の近代建築が建ち並ぶ民主記念碑の近くから
日本人がたくさん住んでいるトンローのさらに東まで
街の東西をかけめぐる超SPEEDYな乗り物、

センセーブ運河ボート!
http://www.bangkoknavi.com/miru/417/

それは、わずか30円程度でプラトゥナム市場のあるアソークまで、
またボートを乗換え、プラス30円程度支払えば、トンローのさらに東まで、
快適とは言えないが、安く、速く、目的地近くまで運んでくれるスグレモノだ。

僕は、好んでそのボートに乗っている。

元来、水の都と言ってもいいほどいたる所に運河が流れていたバンコク、
かつては、そのあちこちでボートが人々の交通手段として使われていたそうだが、

街が肥大化し、道路を造るためその多くは埋めたてられ、
今となっては、センセーブ運河とプラカノン近くの運河だけに
交通手段としてのボートが残されている。

車やバイクに主役の座は奪われたが、
今だに庶民だけでなく、外国人観光客にも支持されている理由は、

安く、速く、便数が多いということだけではなく、
ノスタルジックな感覚に浸れ、スリリングな体験ができるからだろうか?

運河の左右には、バラック小屋も含めた家や小さな商店が建ち並び、
干された洗濯物、ドアの前で暑気払いしている人々の姿などが見られる。
かつては、街のいたるところで見かけられた光景だろう。

今となっては、タイ人観光客を狙った水上マーケットがいろんな場所に造られ、
週末はどこも賑わっているのだから、
ノスタルジックというのも全く外れていないのかもしれない。

灰色に濁り、異臭が漂うセンセーブ運河、
例えるなら、そこはドブ川という表現が適切なのかもしれない。
そんな場所で初めてボートに乗る人には抵抗があるのだろうが、
しかしいざ乗ってしまえば、それもスリリングな体験へと変わる。

ただし、身体が不自由な方、潔癖性の方にはオススメできない。

鼻を摘まんでごまかそうとしてもごまかせない異臭を我慢することから始まり、
乗り場に着岸した揺れの止まらぬボートに乗らなくてはならない。
ボートとの隙間ができ、運河に落ちそうになった人を何度か見たことがある。

動き始めた運河ボートは、時間帯や乗船する場所によってはほぼ満席で、
立ったまま揺れるボートに身を任せるしかないことも多々ある。

乗り込んだ後、係員がボートのヘリを歩きお金を集めにやってくる。
運河に落ちないだろうかと、つい心配してしまうが、こちらの思いもよそに、
ひょいひょいと細いロープを伝いまるで猿のように前から後ろ、
後ろから前へと移動し、お金を回収し、お金と引き換えに
乗客に薄い切符を手渡し、竹筒のような集金箱にお金を入れてシャカシャカ振り、
そして、次の船着場に着岸するまで、黙って乗客たちの様子を眺めている。

乗客が少ない時は、そうでもないだろうが、多い時は顔を覚えるのも大変だろう。
乗客が多すぎて、移動できず料金を取られないことはあっても、
謝って2度徴収されたことはない。
誰からお金を取って、誰が払っていないか、また誰が新しく乗ってきたのか、
僕には覚えられそうにないことだが、係員の能力は非常に高いと思う。

動き出したら、日本からやってきた潔癖性の乗客など関係なしに、
ボートは、バシャバショ水を跳ね、乗客たちの顔にかけながら走って行く。
反対方向から運河ボートがやってきた時は特に酷い!
大きく跳ねあがった泥水を避けるため泥水除けのシートを
ロープを引いて必死で上げたまま保とうとする姿が面白く感じられる。
目や口の中に入り、不快感を同時に運んでくることも多々あるのだ。

また、増水している時間帯は気を抜けないことを覚えていて欲しい。
水かさが増し、そのままでは橋の下を通れなくなっているからだ。
橋の下に差し掛かった時、今ではスピードを緩め、
予めタイ語で何やら乗客に伝えてから、屋根が一段下げられるのだが、
以前はお構いなしにいきなり屋根が下げられていた。
よく頭をテントで打ったものだった。

周りのタイ人たちが、先に頭を下げているため感の良い人なら、
タイ語が理解できなくとも、それだけで状況を理解できるのだが、
たまに下げていない人がいる。
下げていない人を見つけたら、係員が教えてくれるのだが、
稀に状況を理解できず、係員にも見つけられず、
以前の僕のようにテントで頭を打つ人も目にすることがある。

汚い水しぶきを上げながら、
ノスタルジックなバンコクの風景を見せながら、
また人々をスリリングな気持ちにさせながら、
毎日多くの人々を乗せ西へ東へと行き来しているセンセーブ運河ボート、

僕は、007のテーマ曲を頭の中で奏でながら、
バンコク市内の移動をしばしば楽しんでいる。

楽しみながら、ひとつ気になっていたことがあった。
鼻に漂ってくるのは、異臭だけではないということだ。

かねてから気になっていたのがガスの匂いだった。
ゴトゴト大きな音をたてながら、ボートを動かしている発動機の周りから
あまり嗅ぎたくない匂いがしていたのだ。

よくボートを利用していたが、いつか火事になるのではないかと思っていた。
発動機の近くには座らず、いつでも逃げ出せる端の方に座るようにしていた。
ドブ川に飛び込むのも嫌だが、死ぬよりは随分マシだ。

今回、約60名の乗客が負傷したそうだが、
全員命が無事で心から良かったと思う!

今回の事故がきっかけで、この優れた交通手段が
無くならなければいいのだが、、、、、

そう願ってやまない!


■事故の概要
・事故現場は、タイ・首都バンコク東部のセンセーブ運河にあるワットテープリラ桟橋〔朝日〕
・現地時間5日06:30頃(日本時間5日08:30頃)、乗合ボートが桟橋に着岸直後、船尾のエンジン付近で爆発が発生〔朝日〕
・当時、ボートには通勤客など約70人が乗船、爆発で乗客らは一斉に桟橋に飛び移ったり運河に飛び込んだりした〔共同・AFP〕
・警察は、船の後部で燃料のガスが漏れ、エンジンに引火し爆発が起きた可能性を示唆〔AFP・NNN〕
・爆弾テロの可能性は低いとみられる〔NHK〕

・乗合ボートを運航している民間会社「ファミリー・トランスポート」によると、事故を起こしたボートはガスエンジン方式 当面はLNGを燃料とするボートの使用を中止〔AFP〕
・バンコクでは数多くの乗合ボートが運航されており、格安な移動手段として利用されている〔NNN〕

■被害状況
負傷者:約60人〔NHK・AFP〕
・負傷者のうち外国人が3人含まれる(ミャンマー人2人、日本人1人)〔AFP〕
・14人が治療を受けている以外は全員が既に退院している〔AFP〕

【邦人被害】
・負傷した男性はインターナショナルスクールに通う16歳の生徒、腕や足などにやけどを負ったが命に別条はない〔共同・NHK・NNN〕
・この生徒は現場近くに在住、テニスの練習に行くために爆発が起きた一つ前の乗り場から乗船し事故に巻き込まれる「気付いたら後ろに飛ばされていた」〔NHK・ANN〕

Good Everything、
いままで味わったことがないほど美味い
マッサマンカレーを出してくれる洒落たレストラン、
訪れたのは、一昨日のことだった。

ホテルから程なく近いそのお店には、イングリッシュ風の庭があり、
庭を眺めながら食事をすることで、時間を忘れられそうに思えた。

しかし、20席ほどしかない室内で食事をすることにした。
夜になれば、ハエが飛び交い、せっかくの美味しい料理
めがけて不快感を運んでくるのを知っていたからだ。

子連れの私たち3人が席についた時、少し申し訳なく思えた。
隣の席には、アジア系の顔をした20代後半のカップルが座っていたからだ。
彼らがクリスマスを楽しんでいるのは間違いなかった。
それでも、外に出て、ハエの餌食になるのはごめんだった。

女性は清楚な佇まいで、男性の方はキリッとした青年実業家のように思えた。

ジロジロ見るわけにはいかないが、
いやでもななめ前に座っている女性の顔と
となりに座っている男性のオレンジ色のNIKEが目に入り、
私の脳の中にあるチップに記憶されていった。

時折となりの席で話しているカップルの会話が耳に入ってきた。
彼らは大きな声で話さず、耳に心地よい話し方をしていた。
それがタイ語なのか、中国語なのか、英語なのか、
それとも他のどこの国の言語なのか、全くわからなかった。
ただ、その話し方で彼らの育った環境がよく理解できた。

いったい、彼らはどこからやってきたのだろう?

ふと、そんな疑問を抱くことになった。
いや、私は、そのことを知りたくなったのだ。

折をみて、話しかけようと思った。

しかし、トイレから出た時、
彼らは、すでにGOOD EVERYTHINGを去った後だった。

世の中には、タイミングというモノがある。
その場で解決しておかなければ、2度とチャンスはやってこない。

オーソドックスな考え方では、そうなのかもしれないが、
しかし、私は一度願ったことがキャンセルしない限り、
現実になることを今までたくさん経験していた。

きっと、どこかで知ることができるのではないか?
私には、そんななんの根拠もない思いが今回も芽生えていた。

それでも、その場で知ることができずに、少し消化不良な思いだった。

翌日、午前6時からホテルを出て、
私たち家族はウドンタニの観光名所を見て周り、
夕方、地元でオススメの古くからあるレストランへ行った。

Maeya、そのレストランには、
1階、中2階、2階に100席以上あり、地元の人々で賑わっていた。

私たちもその賑わいの一部となり、家族で食事を楽しんだ。
周りにもたくさん子供がいたから、隣の席を気にすることもなかった。

美味しい料理と雰囲気を楽しみ店を出た。

店を出た瞬間、私は目を疑った。

どこかで見たことのある女性が私たちとほぼ同時に店から出てきたのだ。
そして彼女の後ろから、出てきた男性が履いていた靴が目に飛び込んできた。

オレンジ色のNIKE!

私は、戸惑うことなく声をかけてみた。

「昨日、GOOD EVERYTHINGで食事をしていませんでしたか?」と、、、

英語でそう問いかける私の顔を見ながら、
ふたりは明らかに怪訝そうな顔をしていたが、

同時に彼らが状況を思い起こしていることも理解できた。

しばらくして、女性の顔は最高の笑みで満ちあふれていた。

彼らこそ、私たちの横の席で食事をしていたカップルだった。

私が迷うことなく、

「どこから来ましたか?」そう尋ねると、

「香港です!」男の方が答えてくれた。

そう、彼らがどこからやってきたのかを知りたいという
私のささやかな願い事が叶えられたのだった。

そんな光景を見た瞬間、妻も息子も、驚いていた。

その後、Facebookで彼らとつながり、
GOOD EVERYTHINGで彼らが店員さんに
頼んで撮ってもらっていた写真が送られてきた。



その場にいた誰も、
1枚の写真を共有することになるとは思いもしなかっただろう。

ところで、

「願えば、どんなことでも叶えられる」、

妻や息子、それからより多くの人々に

僕はそのことを伝えたいと思う。


GOOD EVERYTHING
それは、

24年前のクリスマスに

BOSTONで有名な画家のPAULに描いて
頂いた僕の肖像画です!

当時、インチキくさい口ひげを
生やしていましたが、

ない方が似合うと言われ、
描いてもらえなかったのを思い出します!

PAULは、一年のうち、
4ヶ月をBOSTONで、
別の4ヶ月をBALIで、
またまた別の4ヶ月をHAWAIIで
過ごされている素敵な人生を送られている方です!

PAULとの出会いは、
京都の大学に在学中、アルバイト先に来られた
BILLというアメリカ人に声をかけたことから始まりました。

BILLには、留学先の大学に推薦状を書いてもらったり、
友達を紹介してもらったり、とにかくよくして頂きました。

留学先から2000km離れたBILLの家があるBOSTONには、
マレーシア人のレイモンドという友人と一緒に
彼が所有するオンボロ シビックでNYまで便乗させてもらい、
(2人でシェアしたガソリン代はたった19ドル)
NYからBOSTONまでピーターパンBUSで行きました。

BILLの家を訪れた時、彼の家が市街地から20kmほど離れた郊外にあり
不便だからと市街地に住む画家のPAULを紹介して頂き、
アーティストたちの過ごす1800年代後半に製造された木製エレベーターのある
(自分でドアを閉めます)アパートメントに住まわせて頂きました。

PAULのおかげで、
エリザベステーラーの隣に住んでいる別の友人を紹介して頂き、
当時、ジレットのバイスプレジデントだった方の家で開かれていた
クリスマスパーティーにも参加させて頂いたことを思い出しました!

たった一枚の絵かもしれませんが、
僕にとっては特別な一枚です!





こんばんは!今日は願いがあります。
ネパール人の友人の村が先日の大地震で無くなりました。
読んで頂きご賛同頂けるようでしたら、
どうぞよろしくお願い致します。


「ネパールで地震がありましたがご家族の方は大丈夫ですか?」
僕がそう問いかけると、

「ありがとうございます。カトマンズのしんせきは無事見たいですが。
実家は連絡できないです。しかも震源はうちの実家付近見たい」
とダマラは漢字を混ぜた日本語で返してくる。

「大丈夫であることを願っております」と返せば、

「ありがとうございます。Hope they are safe. God bless.」
と再びLINEが送られてきた。

ネパールの大地震発生後、それが彼と最初に交わした文章だった。

僕はまだタイにいるため直接会ってはいない。
情報が伝わってこず、 その後のことが気がかりで仕方なかった。

ダマラは、僕がよく行くネパール料理店「MAYA」のオーナー
というだけではなく、とても仲が良い弟のような存在だ。
その彼からネパールのことはよく聞かされていた。

ネパールには行ったことはないが、建物はかなりもろいと聞いている。
どれだけ建物が潰れ、犠牲者が出たのか定かではないが、
僕らは神戸の震災を経験しているだけに、だから他人事とは思えない。

タイでも連日のようにTVで大地震のことが放映され、
僕の息子が通うインターナショナルスクールでも、
募金が募られていた。
タイ人だけではなく、中国人、フィリピン人、アメリカ人、
インド人他どの国籍の生徒たちも賛同し、
寄付金が集められているのだ。

こういう時こそ、
世界の人々は助け合うべきだと改めて感じさせられた。
日本でも各地で今回の大地震の募金活動はされていると思う。

もしそれを見かけたら、
ほんの少しでいいからご寄付をお願いできないだろうか?
ひとりひとり小さな力でも、
合わされば救われる人はたくさんいるはずだから。

ところで、ダマラだが、その後どうなったのか?

「ご家族の方に連絡取れましたか?」とLINEを送れば、

「いなかの実家は連絡とれてないですが、
先ほどカトマンズにいる妹と連絡とれて皆無事見たいですが、
いなかの家はあかんみたいです。」と返ってきた。

その後よく聞くと、村が完全に無くなったという。

家が潰れただけではない。生ま育った村が消えてしまったのだ。
村に通ずる川が崩壊し救助隊すら入ることができないらしい。
そこは、トレッキングのできる美しい村だったそうだが、
村人たちは帰るところを失ってしまったのだ。

そんな状況で家族が無事だったのは、みんな農作業に出ていたからだ。
ネパールのヒンズー教の神様に彼の家族は守られていたのかもしれない

今は近くの村に家族全員で避難しているらしい。
人柄の素晴らしいネパール人が助け合っている姿が想像できる。

彼の家族は無事だったが、いずれにせよほっとすることはできない。

これから、ネパールは雨季に入る。
そうなれば、どうなるか?

ダマラの経営しているネパール料理店「MAYA」の常連客でもある
西尾さんが以下のように教えてくださった。

以下西尾さんの文章です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今からネパールは雨季に入ります。
ネパールの雨期はバケツをひっくり返したようなどしゃ降りの時もあり
排水設備が悪いので、道はあっという間に濁流になり、
舗装されていない地域ではむかるんでまともに歩けなくなるそうです。

そのため、衛生状態も悪くなるので、防水シートやテント、
清潔な下着、赤ちゃんの肌着、女性用品、消毒薬等が必要になります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

衛生状態が悪くなれば、伝染病も増えるかもしれない。
今でも必要な物が全く足りていないそうだ。
雨期が始まれば、どうなるか?容易に想像することができる。

残念ながら、僕にはお金や物を寄付することしかできないが、
そうすることで、助かる命もたくさんあるのではないかと思う。

僕は、それをダマラに託そうと思う。

混乱している今、ネパールの大使館に電話すらつながらないらしい。
渡航のめどがつき次第、ダマラはネパールへ向かい、
生まれ故郷の人々を助けに行くそうだ。

それまでに、できるだけ多くの費用が集まり、
ダマラの活動する資金になれば嬉しいです。

僕のできることは、西尾さんの作られたこのポスターを
できるだけ多くの人々に見てもらい賛同者を募ることです。

そこで、ネパール料理店「MAYA」やオーナーのダマラとご縁のある方
だけではなく、みなさんにお願いなのですが、

みなさんの力を少しだけ、ダマラに貸してあげてください!

そうしていただけることで、困っている人々が救われるはずです。

トルコ人は、日本人に助けられた船のことを忘れていません。

小さなことかもしれませんが、国際交流につながればと思います。

どうぞ、よろしくお願い致します。

詳しくは、添付してある写真にてご確認ください。



バンコク郊外のノンタブリー、
義理の弟が約3000万円出して家を建てていた。
残業の多い日系企業で働き月収約50万円を得ている。
だから、そんな金額の家を建てられたのかもしれない。
住宅建設ラッシュのタイランド、
いつの間にかサラリーマンにも
そんな家を建てることができるようになっているのだ。

まだ完成していなかったが、
建築中のその家にお祝いを兼ねて訪れることになった。

行ってみると、ふたりの労働者たちが汗を流しながら、
一生懸命玄関横の駐車場の床にタイルを敷いていた。

僕は興味深くそれを見ていた。

そうしていると、そのうちのひとりと目が合った。

「サワディー クラップ」挨拶すると、相手もそれに応え、

「ユーテイ ナイ?」何処から来たのか尋ねると、

ふたりともカンボジアからやってきたのだと教えてくれた。

正直言って、その答えには驚いた。
てっきりタイ人だと思いこんでいたからだ。

さらに彼らがふたりだけで車に乗ってきていたのも驚きだった。
会社も彼らに現場を任せているということなのだろう。

今まで何処へ行っても建設労働者たちの多くは、
イサーン地方などからやってきたタイ人だった。

コンドミニアムや病院やデパートなどの箱物を建てる時は、
決まってそのすぐ近くにほったて小屋が建てられ、
彼らはそこに住み込みで働いていたのだ。
時には、建築中の敷地には小さな子供の姿もあった。

しかし、目の前にいるふたりの労働者たちは、
イサーン地方からやってきたタイ人ではなく外国人だった。

聞けば、カンボジア人だけではなく、ラオス人、ミャンマー人など
周辺諸国からやってきた出稼ぎ労働者たちはたくさんいるという。

どうして、そんなことになっているのだろう?

個人的な意見だが、
最低賃金が引き上げられたことと農業や建設労働者の
成り手が少ないことなどが原因ではないかと思う。

まず、最低賃金の引き上げについて、

それは、インラック政権の絶対的な公約だった。
最低賃金が一気に300バーツまで引き上げられる。
そう聞けば、誰でも魅力を感じるだろう。

給料が上がれば生活が豊かになると思いイサーン地方の人々は、
インラック政権を大きく支持した。
バンコクの街を燃やしてまで、、、、、、

そこまでして、アピシット政権から政権を奪ったのに、
皮肉なことに今度は、彼らの職が奪わるかもしれないのだ。

いったい何を言っているのだろうと思われるかもしれないが、
それは今のことを言っているのではない。

人口動態から見た時、
タイは住宅建設ラッシュのまっただ中のようだが、
おそらく数年後には、それも影を潜めることになるのだろう。
タイも日本と同様、少子高齢化に向かっているからだ。
働く人が減れば、家も建たなくなり、仕事量も減る。
仕事量が少なくなれば、当然労働者も必要ではなくなる。

しかし、建設現場が無くなることはない。
その時それを担うのは給料の高いタイ人ではなく、
低賃金の外国人になるのではないだろうか?

そんな彼らは、家を建てる時、大工も左官もタイルも塗装も
クロスも板金もその全てをするというのだから驚きだ。

インラック前首相が公約した300バーツの最低賃金、
該当するのは、あくまでタイ人に限られるということで、
カンボジア、ラオス、ミャンマーの人々はその適用外、
1日200バーツしか渡さなくても問題はないそうだ。
そして、彼らもそれで満足しているようだ。

反面、タイ人労働者たちは安い給料では働きたがらない。

安くて質の良い労働者を取るか、
能力はそう変わらないが賃金の高い労働者を取るか、

僕が経営者なら、どちらを雇うかは明白だ。

そうなれば、安い労働者たちと同じ金額で我慢するか、
いっそのこと、職を変えるしかなくなるのではなかろうか。

確かに農業と建設労働者など辛い仕事の成り手は減っているらしい。
ある意味、今はそれでバランスが取れているのかもしれないが、
何れにせよ、周辺諸国から給料の安い外国人を雇い入れることで、
仕事が減った時、建設現場で働くタイ人たちから職を奪うことになり、
ますます成り手不足に拍車がかかるのではないかと思えてならない。

今までタイ人の仕事が奪われるからという理由で、
外国から入ってくる物には大きな関税を掛けていたり、
外国企業は外国人の働く4倍のタイ人を雇わなくてはならなかったり、
いろんなことが法律で規制されていたのに、、、、、

あるいは、少子高齢化に先駆けて、
タイ政府は動き出しているのかもしれない。

どうも日本が歩み近い将来たどり着こうとしている道と
同じように感じられてならないのだ。
ナナ駅の西に拡がるアラブ人街で昼食を取った後、
わざわざ歩いて、サイアム駅を目指していた。

スクンピット通りをそこからほんの少し西に歩けば、
高速道路から降りてくる道と交わっている。
そこは、いつも車で混雑していた。

信号機はあるようだが、そのすぐ近くに派出所があり、
その中で暇そうに座っているふたりの警官が時折交互に、
降りてきた車とその大通りを走っている車の交通整理をしている。
どうも警官たちの気分でそうしているように思えてならないのだが、
それでも、毎日何事もなかったかのように一日が終わっていく。

ちょうどその手前に道路と平行して、
今は使われているのかいないのかすらわからない線路がある。

そこには、

線路の上を歩いている雨も降っていないのに傘を指した男性、
地面に座り井戸端会議に花を咲かせる子供を抱いている女性、
その建物が途切れたところでしゃがんで用を足している少女、



その人々から注文を受けラーメンを出前している売店の売子、
昼間からビールを浴びるように飲み少ないお金を掛ける男達、
空き缶やヘアピンなど少しでも金になる物を拾い集める少年、




そんな人々がいた。

開かれたスクンピット通り、

僕は、その辺りをよく知っているつもりでいたが、
ナナ駅からプロンチット駅の間だけは歩いたことはなかった。

その間のわずか数メートルほどの鉄道の敷地内にある
発展していく時代に取り残されようとしている集落、

そこは、まぎれもなく小さなスラムだった。

高速道路の下を横切り、ほんの少しだけ歩けば、
否が応でも、それまでとは一変した風景が目に飛び込んでくる。

元々イギリス大使館などがあるプロンチット、
そのエリアには、近年ホテルオークラや近代的な豪華オフィスビル、
それからエンバシーと呼ばれる超高級デパートなどが建ち始めていた。
そう明らかにそれまでの光景とは全てが違いすぎるのだ。

初めてバンコクを訪れた1996年、どちらかといえば、
まだまだ昭和20年代の混沌とした風景が拡がっていた。
次に訪れた2002年、そんな風景と平成が混じっているように感じられた。
それから、だんだんタイという国が発展し後者の方が多くなっていった。

混沌とした風景がまだこんな一等地に残されていることが驚きだった。

あるいは、この線路際にある小さなスラムは、
タイ人たちがノスタルジックに浸れる場所なのかもしれない。

対照的に、そのすぐ近くにあるオークラもエンバシーも、
スラムに住む彼らの目には、どのように映っているのだろう?

ただそこには、絶望的な格差があることに違いはなかった。