2009年10月10日(土)
JR山口線で山口駅へ行き、駅前からJRバスの萩行きに乗って佐々並で降りてから、前回の続きを歩き始めた。朝晩は結構涼しくなってきたものの、陽の射す日中はまだまだ暑いワィ。

佐々並市を過ぎると、暫くは長閑な田園を縫うような萩往還道と国道262号線を交互に歩き、国道と別れて日南瀬から長瀬に抜ける道は、最も旧道らしい田舎道が続く。
江戸に送られる吉田松陰が詠んだと言われる七言絶句の石碑が建つ夏木原からは、愈々最大の難所である板堂峠へ向かう。
板堂峠(写真①)は旧阿武郡旭村(現在は萩市)と山口市の境で、峠の上には明治時代に建てられたらしい国境の石碑があり、『北 長門国阿武郡 南 周防国吉敷郡』と彫られている。ただ、峠の上とは言ってもあたりは藪の中で、両方の国が見渡せる訳ではなく、残念~ン。

この辺りから六軒茶屋を抜けて天花(てんげ)畑へ出るまでは、へびがちょくちょく前を横切るかと思えば、藪蚊もわんわんと纏わりついてきて、歩きにくい石畳と合わせて、かなり注意深く歩かなければならないのだ。
「きんちちみの清水」手前から県道へ出るまでの間は、崖崩れのために通行止めと書いてあった(写真②)が、かまわず進んでみて、思った通り大した崖崩れでもなく、大人なら難なく通れる状態だった。大袈裟に「通行止め」にする程のことはなくて、「通行注意」位の指示で、あとは自己責任で構わないと思うが、担当部署としては事故が怖いのだろうなぁ。

それにつけても六軒茶屋の仰々しい建物群は、どう贔屓目に見ても「不要」としか言いようがなく、この辺りの前後だけコンクリートで固めた道路も含めて、どうしてこんなところに巨額な税金を注ぎ込む必要があるのかが、全く理解できない。
遺構を忍ぶのであれば、建物の礎石またはその目印、そして簡単な説明書きだけで充分で、訪れた人がそれぞれ自分なりの想像力で、往時の状況を感じ取ればいいだけだと思う。周辺の景観や萩往還そのものの価値を無視した余りにも立派な建物は、「余計なお世話」以外の何物でもない。

漸く天花畑に出て一の坂ダムを右に見て県道を下るのだが、この道が萩往還の中でも最低・最悪の道だ(写真③)。木町へ出るまでの約1km余りは県道をそのまま歩かなければならず、センターラインが無い程道幅が狭くて、おまけに歩道も無いのに車が結構な勢いで行き来するので、全く落ち着いて歩けない。
ま、そもそも本来の萩往還は一の坂川の西側に今も残っているのだが、一の坂ダムを作った時にダムの直前で行き止まりにしてしまったのだナ。で、仕方なく、一の坂川の東側に後から作ったこの県道を歩くしかないのだ。
それを知ってか知らずかこの約1km余りの区間には、標識としての萩往還の「はの字」も見当たらず、興醒めすること甚だしい。
確かに当時はダムが必要だったのかも知れないが、郷土の先人達が切り開いた旧道を行き止まりのままで放置したり、中途半端な道幅の道路を作ったりと、我が山口県の役人がやったこととは言え、長州人としては誠に恥ずかしい限りの道ではある。
ダム建設のために、萩往還を行き止まりにすることがどうしてもやむを得なかったのだとするならば、木町の交差点やダム堤などの目につく場所に、その必要性や経緯を正確に記すことで、先人達に詫びる「姿勢」を表明すべきだと、オイラは思う。

山口市内を抜けて山口駅に辿り着いたのは、佐々並を出発してからちょうど5時間後だった。
急な坂道の登り下りの連続だったこともあって、そこそこの疲労感を感じた行程だったが、昔の人は毎日のようにこんな道を平気で行き来していたのだから凄いもんだ‥‥と言うか、現代人が余りに文明に慣れすぎてしまったのだろうかナァとつくづく思ってしまう。

その3へ続く

2009年10月3日(土)
萩往還の続きを歩く予定にしていたが、今週は週の後半が雨模様だった関係で、濡れた萩往還は急坂が危ないので取りやめて、「アートふる山口」なるイベントが開催されている山口市内を散策することにした。

自宅からJR山口駅まで(国道9号線沿いの道程で約15km)、ぶらぶらと自転車で散策した。朝田の国道脇では、まだ彼岸花がしっかりと咲いていて、その後側では風に揺らめくコスモスが、これまたきれいだった(写真①)。
大歳では、2年後の山口国体に向けて工事中の陸上競技場を取り囲むフェンスに、地元の中学生や大学生が描いたペインティングを、ゆるりと鑑賞した(写真②)。大学生の作品も確かに技巧的には立派みたいだが、オイラは、中学生のこの作品の方に熱気を感じた。
約1時間20分位でJR山口駅に到着し、駅前に自転車を停めて、ここから歩き始めた。

「アートふる山口」(http://www.artfull.gr.jp/index.html)は、今年で第14回目になるそうで、山口市内の一の坂川から竪小路筋周辺の民家やお店を、小さな美術館に見立てて、色々な展示品を公開するイベントだ。
駅通りから米屋町アーケードを抜け、西京橋から一の坂川沿いをぶらぶらと往復。お茶屋橋まで舞い戻った後は、銭湯小路を横切って久保小路に入り、竪小路を北上。伊勢大路から野田神社・菜香亭でまた折り返して、石原小路の途中から龍福寺へ入り、大殿大路から錦小路へ出て、県立図書館からパークロードを抜けて、また山口駅へ戻った。
こうして書いてみると、「西の京」に相応しい地名が今でも沢山残っているものだと、改めて感心する。「泉都町」や「緑町」なんぞと言う、後から取って付けたような町名は早々に止めて、旧町名に是非戻して欲しいものだ。

イベントの内容は公式HPをはじめ色々な方のブログなどでも、既に沢山記事が公開されているので詳しくはそちらを見てもらうとして、意外にWeb上でも注目されていないのが写真③の木製ガンダムだ。山口市秋穂二島にある藤山建具店の職人さん達が55日もかかって製作したそうだが、それはそれは精巧で立派な代物で、とても木で全部作られているとは思えないほど見事だ。お台場のガンダムは既に解体されたようだが、それに決してひけをとらない、建具職人の心意気を感じる作品であることは間違いない。しっかし、藤山社長も酔狂だけど、こんな人が山口にいることは、とても嬉しく思うなぁ。

山口駅前からはまた自転車に乗って、今度は椹野川(ふしのがわ)沿いの自転車道を通って(約16kmの道程)帰宅した。延べ、自転車が2時間半と、歩行が3時間半の一日だったが、5時間連続のウォーキングよりも少し疲れたような気がするぅ。

2009年9月5日(土)
引越し後の片付けもようやく一段落着いたので、久しぶりにウォーキングを再開。2月の初めに、萩往還を、三田尻(防府市)から萩に向かって一度歩いているが、今回は逆方向に、萩から三田尻に向かって歩くことにした。

小郡からJRバスに乗って萩バスセンターまで行き、ここから歩き始めたが、萩市内には萩往還の順路を示す標識は全く無くて、地図を事前に準備しておかないとどこに向いて歩いて行けばいいのか、ジェンジェン分からない。おいらは既に歩いているし、萩市内のことはある程度知っているのでいいが、他所から来て思いつきで歩こうと思う人には不親切なこった(…ま、思いつきで歩こうと思う人なんて、イネェだろう……カナ?)。ついでに言うと、萩往還の途中にある順路標識も、既に年月が経ったからか全く「いい加減」で、あらぬ方向を向いた標識を幾つも見つけたから、これから歩こうと思っている人は、要注意だぁ。観光協会とか役所とかはどうせ当てにならないから、自己責任で歩くことが肝要。

萩城下が見える最後の地に建つ「涙松遺跡」(写真①)は、「かえらじと思いさだめし旅なれば、ひとしほぬるる涙松かな」と詠んだ吉田松陰先生ならずとも、思わず萩市内方向を振り返ってしまう趣がある。多くの先人が、この地で涙を流したかあるいは決意を新たにしたか、はたまた絶望の底に陥ったか、いろいろな想いが交錯したであろうことは容易に想像できる。

明木市の中ほどから左折して上り坂に入ると、そこは「一升谷」と呼ばれる急な坂道だ。説明版によれば、坂の入り口から煎り豆を食べ始めると、峠を上りきるまでに「一升」ほど要るそうなのでこの名がついているとのこと。そう例えられるほど急で長い上り坂だが、煎り豆を一升も食ってしまうと、逆に腹がパンパンになって歩けそうもないような気もするが、…マ、いいっか。
途中には、江戸時代のままの石畳(写真②)が今もそのまま残っている。

途中で何度も出くわしたのが「猪避けのゲート」(写真③)で、2月に歩いたときはほとんどが開放してあったことから推測すると、夏の前後は厳重に閉めているようだ。やはり農作物への被害は深刻なものがあるのだろうし、地元の人達にとっては「萩往還」は別にどうでもよくって、毎日の生活の場であることを、他所から訪れる者は忘れてはいけないと思う。
写真のようなゲートではなくて、単にトタン板が横に立ててあるだけの所も何箇所かあって、爪先立ちでようやく跨げはしたが、オイラよりも足が短い人は脚立を持参した方がいいかもしれない(…って、ヲイヲイ)。ま、多分、稲刈りが済んで10月に入れば、ゲートもかなり少なくなると思う(………保証はしないが)。
ゲート向こうの、刈り入れ前の稲穂が「黄金の波」となって、とても綺麗だ。

今日の目的地の佐々波市(写真④)だが、古い町並みが続く落ち着いた所で、人も車も全く通らない時間がかなり長く続くのは、よく言われる「時が止まった」ような感じを受ける。写真中ほどの角の建物が、有名な「佐々並とうふ」のお店だが、既に閉まっている時間帯だったので、近くの道の駅に立ち寄って、とうふとこんにゃくその他を買い入れてお土産とした。

佐々並市からは、一時間に一本あるかないかのバスに乗って、また小郡まで帰ることにした。萩から佐々並までちょうど5時間かかったが、山道ばかりだったこともあって歩数は少なく、28,168歩だった。

その2へ続く

2009年8月23日(日)
嘉川へ引っ越してきてから約一ヶ月が経ち、ようやくオイラの部屋も整ってきたので、恒例(?)によって部屋の様子を(自慢げに)公開だぁ。

パソコン部屋(写真上)にあるのは、右端のメインPC(自作・AthlonnX2-7750BE メモリ8GB)+IBM製22吋QUXGA-WモニタT221、左端のサブPC(自作・Pentium4-2.8GHz メモリ4GB)、それに中程のおまけPC(IBM製Aptiva2137-E27改造)の三台だ。
この「おまけPC」は長女が使わなくなったお下がりだが、ケースや電源などにIBM独特の面白いギミックがあって捨てがたいので、12年も経った1997年製という代物ながら、ケースとマザーボード以外をほとんど交換すべく改造した。
CPUはAMDのK6-166をK6-2(500)中古品へ換装し、ジャンパを変更してこのマザーボードではMaxの333MHzにした。メモリはマニュアルには最大256MBとあったが、32MBから512MB(256MB中古品×2)に激増。HDDはオリジナルの2GBに80GBの手持ち品を追加。CD-ROMドライブをDVDコンボドライブ中古品へ換装し、手持ち品のISAバスネットワークカードを追加。唯一失敗したのがビデオカードで、ISAとPCIの両方を試してみたが、マザーボードに増設ビデオカードを認識させる方法が分からず、BIOSとジャンパを全てチェックしたがギブアップ。
中古品と手持ち部品の流用で〆て約4千円で改造が終わり、これでWindows2000が快調に動いていて、普通にネットを閲覧したり、メールのやりとりをする程度なら、何も不自由はない。PCの起動・終了も早いうえにFanの音も静かなので、ちょこっとPCを使うときはいつもこれを使うようになってしまった。

シアタールーム(写真中)は以前とあまり変わりはない。しかし最近のテレビでフルHD(1920×1080)に目が慣れてしまったのかどうか、120吋スクリーンに投影するプロジェクタがフルHDでないことに、画面を見ながら少し気になり始めた。いずれはフルHDプロジェクタに変えたいなぁ………っと
しかし、この部屋のプロジェクタ(SONY製VPL-VW10HT)を設置した2000年頃は、1366×768のワイド液晶型がホームユースとしては最高画質だったのに、時代は進んで、あっと言う間にフルHDが主流になってしまった。DVDの粗末で荒い画面の時は何でもなかったのに、ブルーレイやデジタルハイビジョン放送を視ると、えらく画質が気になってしまう。

無線室(写真下)は更に以前と変わってなくて、古色蒼然たるアナログ機器が並んでいる。特に送信機部分の主力は「真空管」だぁ。これらの機器にはもうとんでもなく愛着があって、下から二段目左端のFT-101なんぞは、今を遡る30年以上も前の船乗り時代に、オイラと共に七つの海を旅したツワモノだぁな。潮風を永年受けた影響か、時々ヴォリュームの接触不良で『ガリガリ』と異音を放つが、これもまたご愛嬌ォ~。
前記の「おまけPC」をこの無線室に持ち込んで、各無線機をPC制御できるようにするのが、当面の目標かな?  ……んんん~、先は長いゾォ~

2009年8月2日(日)
先週、引っ越し(山口市小郡高砂町⇒山口市嘉川)がようやく終わったばかりで、まだ片付けも全部終わっていないのだが、久しぶりの能楽鑑賞に出かけた。山口市内にある野田神社で行われた、神事能「山口薪能」だ。
少し早めに家を出て、8月6日~7日に行われる七夕ちょうちんまつりの飾り付け(写真上)を楽しんだあと、そのままぶらぶらと野田神社まで歩いて向かった。18時過ぎに着いたが、既に境内は観客でごった返していて、ちょうど開演前の神事(清祓式)にも間に合った(写真中)。脇正面の席だったので、僅か数分の間だが、真正面から夕陽が沈むのが見え、眩しいけれどもこれはこれでまた良かった。

演目・演者は次の通り
 舞囃子「三輪」 粟谷明生
 仕舞「鵜之段」 友枝昭世
 仕舞「玉葛」 粟谷幸雄
   -火入れ式-
 狂言「清水」 野村萬斎 高野和憲
 能「鬼界島」 粟谷能夫シテ 森常好ワキ

一番のお目当ては勿論、友枝昭世師の仕舞「鵜之段」だが、相変わらず凛としてかつ流れるような舞や扇さばきは、とても人間が舞っているとは思えない、神が降臨したと言ってもいいくらい素晴らしいもので、これだけでも充分に満足した。
関東赴任時には、野村萬斎師は何度となく鑑賞させてもらったが、今日の「清水」では、役(太郎冠者)の奥深い感情表現がこれまで以上に洗練されたように感じた。室町時代後期から連綿として続く筋書きでありながら、全く古さを感じさせないのには、感嘆の他ない。
そして「鬼界島」は、見所が暗闇に包まれる薪能にはまさに相応しい演目で、一人赦免に与れなかった俊寛の愕然たる思い、そして落胆や絶望を、見事に粟谷能夫師が演じた。森常好師の毅然たる赦免御使の役所が、俊寛との最後の舟べりでのやりとりに対照的に現れて、最後まで余韻の残る舞台だった。

終演後に、夜陰に浮かぶ能舞台を改めて眺めてみた(写真下。ちょっと手ブレでスンマソン)。昭和11年という世間には不穏な空気が横行する時代に、長州藩主の末裔毛利元昭公によって寄贈・建立されたとのことだが、総檜造りの本格的な能楽堂は、全国的に見ても貴重な存在であり、大いに山口の自慢としてもいいものではないのだろうかネ。


2009年7月19日(日)
小郡から広島までの、最後の行程を歩いてみた。先週、五日市まで歩いているので、残りは13・4km位、寄り道を計算に入れても18・9km位だから、ゆっくり歩いても5時間程度の道程だ。
JR五日市駅⇒JR新井口駅⇒草津公民館⇒草津八幡宮⇒海蔵寺⇒広電古江駅⇒求道寺(高須)⇒別れ茶屋⇒JR西広島駅⇒己斐橋⇒天満宮/天満橋⇒本川橋⇒平和記念公園⇒元安橋⇒本通り⇒胡町⇒京橋⇒猿猴橋⇒広島駅と辿り、ちょうど5時間の33,097歩だった。

広電の商工センター入口駅と草津南駅との間にある「荒手車庫」(写真1)では、既にほとんど見かけなくなった500系(右奥)や2000系(右端)、それに、日本赤十字と書かれた真っ白な3000系(左奥)など、マニアならずとも見ていて楽しい車両がずらりと列んでいた。広島市民なら一度は行ってみるべきだナ………って、10年近く広島で勤務していたオイラも、今回初めて行ったのだがネ。
広電草津駅の北側にある草津八幡宮は、189段の石段を登りきった高台にあって、ここからの眺めは(写真2)なかなか宜しい。案内板によれば石段の「189」は、語呂合わせで「飛躍」若しくは「避厄」の意味合いがあるそうで、ま、今更「飛躍」はしなくてもいいが、今年は数え年の61歳で「本厄」にあたるので「避厄」はありがたいことだぁと、懇ろに家族共々の無病息災をお願いしておいた。
旧市内に入り天満橋の西側にある天満宮(写真3)は、火雷天神を祀る尾長天満宮を分霊してこの地に勧請したもので、これに因んで周辺を、「天満町」や「天満川」「天満橋」などに改称したらしい。赤い鳥居の左下に「ここは旧山陽道」と、しっかり記してある。
平和記念公園で原爆犠牲者に慰霊の祈りを捧げてから元安橋を渡り、渡りきった左側(原爆ドーム寄り)の緑の茂みの中に、「広島市道路元標」なる石塔が建っていて(写真4)、広島からの里程(みちのり)は、すべてこの地点から起算されていると案内板に記されている………へぇ~~~

結局、小郡から広島までを、5年前に日光街道を歩いた時と同じく、都合8日間に分けて踏破した訳だが、江戸時代の旅人はたったの4日で行っていたそうなので、まだまだとても昔の人の足許にも及ばないことを、改めて実感したのであった(昔の人って、スッゲェナァ~)。


2009年7月12日(日)
6月は週末ごとに野暮用があったり天候不順だったりと、とうとう一度も歩けなかったが、久しぶりに今日は朝から出かけた。
前回の続きで、大野浦駅で下車して歩き始めた。大野浦駅⇒大頭神社/妹背の滝⇒高畑⇒十郎原⇒四郎峠⇒畑口橋⇒専念寺/宮内一里塚⇒JR宮内串戸駅前⇒広電廿日市市役所前⇒廿日市天満宮⇒洞雲寺⇒桂公園/桜尾城趾⇒海老橋⇒楽々園松並木⇒光禅寺⇒五日市駅と歩いて、6時間ちょうどの37,297歩だった。
大頭神社は、本殿前で既に雌滝(めんだき)が現れ(写真上)、更に本殿の裏側へ回ってみると轟々たる滝音を響かせる雄滝(おんだき)に出会す。家族連れも多く訪れていて、冷たい滝の水で涼をとっていた。広島岩国道路の大野ICを降りてすぐなので、交通の便は頗る良好だ。
宮内一里塚と呼ばれる「西国街道壱理塚跡」碑の向かいにある専念寺は、本堂の大きさや秀麗さもさることながら、棟瓦に描かれた立派な彫刻(写真中)には、しばし見とれてしまった。今まで見てきたお寺の本堂にもあったのかも知れないが、気が付かなかったのだろうかネェ。遠目にもそれと分かるなかなか凝った彫刻(…と言っていいのだろうか?)で、瓦職人の意気込みを大いに感じる眺めだった。
佐方小学校の東にある洞雲寺はかなりの寄り道だったが、友田(藤原)興藤と陶晴賢の墓があるので寄ってみた。友田(藤原)興藤は厳島神主の一族で、大内氏に反抗したがついに桜尾城に火を懸けて自刃した。他方、大内氏は重臣の陶晴賢によって滅ぼされ、4年後の「厳島合戦」では、今度は陶晴賢が毛利氏に攻められて厳島で自刃し、桜尾城で首実検の後、この洞雲寺に葬られたのだ。
更に、洞雲寺の開祖は陶氏の菩提寺である山口県・龍文寺の僧で、桜尾城主だった厳島神主藤原家によって創建されたことからも、「厳島」、「藤原氏」、「大内氏」、「桜尾城」、「陶氏」、「毛利氏」という因縁の風車(?)が戦国時代を駆け抜けたような気がする。
楽々園の、JRと広電に挟まれた一角(広電楽々園駅北側)には、旧山陽道の松並木の名残(写真下)を何ヶ所か見ることができる。道幅二間半(約4.5m)で沿道に並木松が植えられていたと案内板に書いてあるが、さぞや見事な眺めであったことだろうナ。
一ヶ月以上のブランクを経て久しぶりに6時間歩いたのだが、全く足に疲労感を感じなかったのは、オイラの還暦祝いに娘達三人が買ってくれたシューズのお陰かナ?
 


2009年6月20日(土)
所用で、18日の夜から尾道に二泊することになり、18日は仕事を終えたその足で新幹線に飛び乗り、三原で在来線に乗り換えて、夜8時過ぎにようやくホテルへ着いた。翌19日に所用を終えて、夕方ホテルに帰り、窓の外からすぐ目の前の尾道市街、尾道水道、そして向島とその向こうに連なる島々の絶景を楽しんだ(写真上)。
翌20日は昼過ぎで所用を終え、帰り道の途中にある千光寺公園を散策した(写真中・下)。千光寺を始めとして、確かに見所は沢山あるし、遊歩道も整備してあり、眺めの良さと相まって大変素晴らしいところなのだが、いかんせん、色々な施設(建物)や何とか記念とかのモニュメントの類が多すぎて、とても窮屈に感じてしまった。それでなくても狭い山上なのに、でかい美術館や体育館、よくわからない「かおり館」だの、果たして本当にこの山上になければならない施設なのか、ちょっと疑問を感じてしまった。せっかくの豊かな緑と自然をもっと活かした公園作りをして貰った方が、観光客にとっても尾道市民にとってもいいと思うのだがネェ?
さてその後、タクシーを呼んで新尾道駅へ行こうか、それとも歩いて急坂を下り尾道駅へ行こうかと迷った挙げ句、歩いて尾道駅に向かうことにした。………のはいいが、何とも急な下り坂の連続で、山登り(山下り?)と何ら変わらない状態になってしまい、約20分後に尾道駅に辿り着いたときには膝がガクガクしてしまった。ちょっとでも雨や雪が降った時は、とても危険でお薦めできないコースだ。とは言え、ここに住んでいる方達は毎日この道を利用している訳で、宅配便や郵便配達の人達も大変だなぁと、変に感心してしまった。


2009年5月30日(土)
所用で先週はお休みしたが今日はいい天気になりそうなので、朝早くから出かけた。山陽本線で岩国まで行って駅前からバスに乗り、錦帯橋はすぐ横目に見て通り過ぎ、前回の終点だった関戸に着いたのが10時半過ぎ。ここから小瀬峠の山道に向かって歩き始めた。
関戸⇒小瀬峠⇒小瀬川/両国橋⇒苦の坂峠⇒小方⇒玖波宿⇒鳴川の石畳⇒残念さん/八坂峠⇒向原の石畳⇒大野浦駅前⇒大野中央と辿り、この先暫くは広島岩国道路沿いを歩くことになって、宮内串戸まで駅の近くを通らないので、大野中央から街道を離れて国道2号線に出て、右手に大野瀬戸と宮島をのんびりと眺めながら前空駅へ向かい、ここから山陽本線で帰ることにした。いつもより少な目の歩行で、5時間弱の32,477歩だった。
小瀬川を両国橋で渡る少し手前の河畔に「吉田松陰歌碑」があり(写真1)、『夢路にも、かへらぬ関を打ち越えて、今をかぎりと、渡る小瀬川』と刻まれている。安政6年に罪人として駕籠で江戸へ護送される途中、いよいよ小瀬川を渡ると故郷の長州から芸州に入るこの地で詠んだのが、この歌とされている。多分、江戸で斬罪に処せられることを覚悟し、そして二度と故郷へ帰ることはないだろうとの想いが込められた歌と思われるが、それにしても自分の命があと僅かであることを知りつつ、かくも冷静に死出の旅の途中で歌を詠むことのできる心境とは、おいらごとき凡人には到底量り知れないものがある。
小瀬川沿いから離れて、苦の坂峠への登り口には、この先が崖崩れによって通行できない旨の案内板が立っていたが、行けるところまで行ってみようと思って藪を掻き分け山道を登ってみた。藪蚊はふんだんにいたが、それほどの苦もなく峠に辿り着き(写真2)、その先の小方側への下り道では、崖崩れの部分を迂回するように鉄製の梯子が渡してあったので、ここも苦もなく通ることができた。
鳴川の石畳(写真3)は、案内板によれば、寛永12年(1635年)に参勤交代制が敷かれたのを契機に整備されたらしいが、400年近くを経てもなお道としての役目を果たしているのは素晴らしいと思う。ただ、萩往還の立派な石畳に比べると、主要街道にしては少し粗雑のような気はするが。
残念社(地元では「残念さん」らしい)の先、依田神社への登り口に、「吉田松陰腰掛けの岩」なる古蹟が残っている(写真4)。ちょうどオイラが腰掛けている岩が、それだぁ。吉田松陰の胸中に少しでも近づきたいと思い、暫し腰掛けて瞑想してみたが、……やはり凡人には無理だった(当たり前か…)。


2009年5月6日(水)
ついにGW最後の休日となったが、テレビのニュースは相も変わらず、やれどこそこのインター付近で何十km渋滞だのばかりをタレ流している。落ち着いて考えてみれば、千円で乗り放題になったことでやたら得をしたような気になってる訳だが、何時間もの渋滞に家族ぐるみで耐えて時間を浪費し、またその間もノロノロ運転やアイドリングでガソリンを無駄に消費し、挙げ句の果てに疲労困憊で帰宅して、皆さん一体何を得たのだろうかネ?
高速を利用したことで休日のストレス発散になった人はそれはそれでいいとして、アホなマスゴミが判で押したように渋滞報道ばかりというのは、どう考えてもおかしい話だ。世間には、ETC割引の恩恵さえ与れない層の人達が特にここ最近わんさと増えた訳で、一体どのような気持ちでこの渋滞報道を見ているか知りたいものだ。
と、低俗な日本のマスゴミに憤慨しつつもマイペースで歩き続ける。先週の続きで、JR岩徳線に乗って周防高森に行き、駅前からスタートした。⇒菅原神社⇒玖珂総合支所前⇒岩隈八幡宮⇒欽明寺⇒欽明路峠⇒柱野⇒御庄(みしょう)⇒本庄八幡宮⇒多田⇒関戸と辿った。
県道15号線の所謂「欽明路道路」や山陽自動車道の「欽明路トンネル」は、過去に何度となく通っているが、「欽明寺」を訪れたのは今回が初めてだ(写真1)。こんな山奥にと驚く程の、立派な鐘門と大きな楠の木が出迎えてくれる。寺内の庭園も綺麗に手入れされていて、山の清々しい空気と共に、疲れも吹き飛ぶ。
欽明寺を過ぎると上り坂の葛折りになり、途中で山陽自動車道を跨ぐので上から眺めることができる(写真2)。ちょうど欽明路トンネルの入口になり、この時間(昼過ぎ)はさほど渋滞もなくスイスイと流れているようだ。
岩国IC入口信号を過ぎた辺りで、「台風14号最高水位」と書かれた大きな看板が目に付いた(写真3)。4年前の9月7日午前1時と書いてあるが、錦川が氾濫してこの高さまで水が来たということだナ。首まで浸かる程の水位だから、さぞや恐怖であったことだろう。
藤河郵便局のところに、「旧山陽道・岩国往来」と書かれた標識があり、参勤交代の往時を偲ばせる山道が今も残っていて(写真4)、短い距離だが歩いてみた。道の最後で国道2号線に出るところはかなりの急傾斜で、結び目を付けたロープが渡してあり、コンクリート壁の僅かな隙間からまた国道に出られる。
今日の目的地点の関戸に着いたあと、帰宅するのに、岩徳線の西岩国か川西か柱野のどの駅にするか迷ったが、新幹線新岩国駅行きのバスが目の前にちょうど来たのでこれに乗り、新岩国駅前からもう30分歩いて柱野駅から岩徳線に乗った。そのせいで、42,664歩だったが、旧山陽道の実歩行時間はちょうど6時間程だった。