鴨沂高校の図書館

鴨沂高校の図書館

鴨沂高校が建替えられようとしています。校舎だけでなく、「鴨沂の自由」として大事にされてきた校風までもが壊されようとしています。

facebookページ「鴨沂高校の図書館」のブログ版として、マスコミや教育委員会が絶対に流さないような生の情報を発信していく所存です。

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 このページでお知らせした「自由な校風という教育実践――京都府立鴨沂高等学校の学校行事「仰げば尊し」から」について、色々とご連絡頂くこともあり、少し思ったことを書こうと思います。学校の特色や価値とは何かということについてです。

 学校の持つ価値や特色は、それを判断する評価基準に縛られています。本来、その基準は一つではなく、必要な情報公開を前提とした当事者による自由な議論のうえに成り立つもののはずです。そうであるからこそ、鴨沂高校の「自由な校風」や「仰げば」、「アッセンブリー」、「銀座通り」のような制度が維持できていたのだと思います。
 鴨沂高校の問題に関わりだしてから感じたことは、その評価基準が、徐々に上から与えられる、視野の狭い強固な規制になりつつあるのではないかということです。現代日本の高校は、年度内に何を何回やったか、その目に見える成果や効果は何かというのを、具体的な数値で求められがちです。ややもすれば、数値目標の達成が目的になり、その数値目標自体が妥当かどうかを問う姿勢が欠けてしまいかねません。例えば、学校の評価、授業の評価に保護者や在校生が関わるよう、アンケート等がおこなわれていますが、アンケートの質問項目や回答は事前に設定されています。では、その評価基準は誰が作るのかという話です。評価基準が既に作られているのなら、いくら多様な人々が集まったところで、評価基準の枠内でしか価値判断ができません。自由に評価しているつもりでも、あらかじめ枠が定まっていれば、枠内での自由でしかありません。そうした状況は、自由だと思わされているだけで、自由ではありません。
 自由は苦しいものです。自分で調べ、自分で考えなくてはなりません。情報の正確さや量についても、納得するには自分の基準が必要です。定めてもらった枠内での自由は楽ですから、安易に乗りたくなる気持ちがわからないことはありません。お客様としての優越感も得られるでしょう。しかし、そうした安易な選択は、鴨沂高校が長年掲げてきた「自由な校風」が理想としてきたものとは異なるものです。

 学校の「特色」にも、あらかじめ定められた評価基準と類似する傾向がみられます。事前に与えられた枠内での「特色」を各校が選択し、その各校の選択を受験生や保護者が選択して学校間競争がおこなわれています。その「特色」は、カリキュラムやコースに落とし込めるような「特色」であり、自由な土壌から湧き上がってくるものや、長年積み上げてきた学校文化とは異なるものです。こうした学校文化は合理的な数値目標の達成という評価基準とは相性が悪く、数値目標の達成を優先する立場から無意味なものと判断されがちです。これは勘違いされやすいのですが、鴨沂高校の「自由な校風」や「仰げば」、「アッセンブリー」、「銀座通り」といったものは、教育行政がよく使う「特色」ではありません。事前に定められた「特色」の枠内にとどまらないものだからです。こうした「特色」の状況は、例えるならばゲームにありがちなシステムである、ジョブ選択やスキルへのポイント割り振りのような「特色」が各校に当てはめられているようなものです。保護者世代ならドラクエやFF、在校生ならオンラインRPG等のシステムでしょうか。制度の枠内で「特色」化できますが、枠から出ることはできません。
 与えられた枠内で「特色」を習得するだけなら、わかりやすいシステムの方がウケるでしょう。しかし、枠の外で何かしたり、枠自体について考察し、枠を作る側、更新する側の訓練はできません。鴨沂高校の生徒会が、近年まで自治会を名乗っていたのは、自治がそうした性質を有していたからではないのでしょうか。校舎建替えと同時期に、「自由な校風」や「仰げば」、「アッセンブリー」、「銀座通り」に加え、自治会も廃止されました。「最近の若者にはこういうのは流行らない」と理由を付けて眺めていた人も多かったようです。では、なぜ流行らないのでしょうか。こうした仕組みは、一つの基準で評価し辛いものです。また、成果が出るまで時間がかかります。成果が出たとしても、上が定めた枠組内の評価基準では低評価かもしれません。単年度で目に見える評価が求められる社会なら、「流行らない」でしょう。何でも「最近の若者」のせいにするのではなく、自分たちが作り、自分たちが運用している評価基準や仕組みの方を疑うべきではなかったでしょうか。少なくとも、自治があり、「自由な校風」を享受した世代なら、その意味がわかるはずです。

 「自由な校風」を背景に、自分で調べ、自分で考えるということが、実質的にも形式的にも廃止されたことを実感したのは、2018年前後に関わった食堂問題における学校関係者の動向を見たときでした。校舎建替えやグラウンド問題の時とは、保護者、在校生の雰囲気が違いました。平たく言えば、名前は同じ鴨沂高校であったとしても、選んだ学校が全く違ったのです。
 食堂問題では、学校の公式見解が事実であると盲信する保護者や在校生が目立ちました。巷では、「ネットの真実」やフェイクニュースが猛威をふるっていましたし、ネットで書かれる情報を簡単には信じられないでしょう。では、自分で考えて、調べればよいのに、しない。「食堂はコンビニにならない」という公式見解を盲信し続ける人々が目立ちました。そこには、事実を調べて自ら検討する姿勢が欠けていました。これでは自由なんて成り立たちませんし、調査して考える姿勢のない人は判断基準や規則を制定する側には立てません。
 自由や自治は苦しく、難しいものです。だからこそ、それを使いこなすことで、判断基準を制定、運用する訓練になるのです。これは、一種のエリート教育ともいえます。近年まで残されていた鴨沂高校の校風や制度は、鴨沂高校が「名門校」とされていた名残であるともいえるでしょう。こうした校風や制度は、使う側の能力が問われます。近年の運用実態に限界があったことは前提としながらも、現代の日本社会でその理念や制度を続けていたことは評価したいと思っています。

 最近、学校改革と抱き合わせで「名門校の復活」を語る手法をよく見ます。こうした言説は、「あわよくば我が子を京大に!でも学問はよくわからないし、苦しいことはしたくない」層に刺さるんだろうなと思います。「特色」の行きつく先が進学実績であれば、学校間競争の激化を背景に多少のリップサービスはするでしょう。地道に努力して調査しないと事実は見つからないということを理解しているかが問われる言説です。
 今の鴨沂高校は、「名門校の復活」を掲げながら、鴨沂高校モデルの「名門校」要素を捨てたともいえます。ここ10年で改革された鴨沂高校の諸々を見て、「名門校」意識だけ育ててどうするつもりなのかなと思っています。

 京都大学大学院人間・環境学研究科の発行する学術雑誌『人間・環境学』に掲載された、「自由な校風という教育実践――京都府立鴨沂高等学校の学校行事「仰げば尊し」から」は、下記リンクから読むことができます。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/261669/1/hes_29_135.pdf

 

鴨沂高校の諸々の問題に関わりだしてから、早いもので8年が経ちました。2018年からこのページは休止状態でしたが、1点告知があります。

既に、新生鴨沂高校となられてから久しいと呼べるほどの月日が経ちました。女紅場から「名門校」とされる時代の鴨沂高校までは、「鴨沂高校の歴史」として語られることが多いようです。しかし、鴨沂高校の歴史はそれだけなのでしょうか。

自由な校風が時代遅れと扱われやすい京都府立高校の状況ですが、だからこそ、自由な校風の持っていた意義と限界を書き残そうと始めた調査結果が、京都大学大学院人間・環境学研究科の発行する紀要『人間・環境学』に、「自由な校風という教育実践――京都府立鴨沂高等学校の学校行事「仰げば尊し」から」というタイトルで掲載されました。

私が入学した時期の自由な校風は、既に各方面から散々な言われ様でした。当然、良い事ばかりではありませんでしたが、自由な校風を享受した世代であるからこそ、書けることがあると思っています。

最近の研究論文はオンライン化が進んでおり、下記リンクから読むことができます。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/261669/1/hes_29_135.pdf

 

お久しぶりの投稿となります。

既にご存知の方も多いかと思いますが、11月5日付けで産経新聞さんに食堂問題の記事が掲載されました。

11月28日付けで、産経デジタルにも掲載されましたので、お知らせいたします。

http://www.iza.ne.jp/…/news/181128/lif18112813270024-n1.html

また、11月28日付けでyahooニュースにも転載されていました。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl…

この間、鴨沂高校の食堂問題に関して事実を取り上げて頂いたメディアはNHK京都放送さんと産経新聞さんだけでした。感謝いたします。