こんにちは!
えばあです
歴史に関しての記事一本目は間宮海峡でおなじみ?の間宮林蔵についての記事にしようと思います。
初めての取り組みなのでどのような切り口で取り上げようか迷いましたが、林蔵の一生と記録した文章などを事細かに執筆するほうが簡単ですのでその方針で書こうと思います。
趣味が写真なので今まで使ってきた写真は自分が撮ってきた写真だったので著作権などありませんがこれから歴史に関するものは著作権が発生しそうなものがいくつかあると思いますので画像の貼り付けについては検討中です。
絵でもいいのですが何せそこまで絵が得意ではないのでね...
間宮林蔵は、安永9年(1780年)、茨城県の伊奈町(現在つくばみらい市)に生まれました。
幼少期から、彼は非常に好奇心旺盛で、周囲の自然や地理に強い興味を持っていました。
全てにおいて万能なことから神童と扱われました。
林蔵の生家は貧しい農家であり、彼は農作業を手伝いながら自然環境の中で育ちました。
ある時、伊奈町で、林蔵の住む家の直ぐ側を流れる小貝川という川を堰き止め水田に灌漑するために
堰の工事が行われます。
それを見に行った林蔵は、その工事の責任者であった幕臣の村上島之允が工事に苦戦しているところを目撃し助言したところ工事は成功し村上は才能を見込み林蔵を養うことになりました。
林蔵に武士になれる日が来ましたが、林蔵の家の格式があまりにも低く士分にすることが出来なかったので町の長の子どもとして江戸へ連れ去られました。
12歳の頃でした。
修行すること5年17歳の時に幕府の役人として認められました。
貧しい百姓の家で生まれた林蔵はようやく武士になったのです。
その後も地政学を学び九州地方などに出かけ地図を作ることなどしました。
ある時林蔵は蝦夷地御用御雇に任命され初めて蝦夷地へ向かうことになります。
その頃蝦夷地ではロシアのラスクマン・ニコライ・レザノフなど教科書でも有名な人物が大黒屋光太夫を連れてきた時期です。
このような時勢の時に蝦夷地に渡ることになったのです。
国後場所に派遣されたまたま来ていた伊能忠敬に測量技術を学び西蝦夷を測量しウルップ島までの地図を作製しました。
今回はこの辺にしようかな
試しに書いてみましたが大変ですね笑
ちょっとピックアップして書いたほうが面白いし一生を書く必要は無いですね。
少し検討しようと思います。
今までに投稿してきたブログをもう一度再編集し、読みやすくするようにしています。
修学旅行編からスタートして、夏中に全てを完了する予定です。