地震、そして停電 ~ 北海道胆振東部地震 ~ | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 (一)

 深い眠りの中で、揺れがきた。「地震だ」と遠いところで思いながら、なおも睡眠を継続しようとしている自分がいた。夜中の地震は、そんなふうにしていつもやり過ごしてきた。ところが、その揺れが急激に大きくなり、尋常ではないと思った瞬間に、跳ね起きた。

 ベッドを飛び出した私は、寝室から居間へ出ようとした。室内の景色が歪んでいる。音が凄(すさ)まじい。その揺れは、荒天の津軽海峡の最も激しい動揺地点、青森と函館の中間地点を連絡船が通過するときの、あのひどい揺れを思わせた。何かにつかまっていなければ、立っていられない。朦朧(もうろう)とした意識、激しい揺れと凄まじい音に圧倒されながら、とんでもないことが起こっている、と思っていた。

 だが、その揺れは意外にもすぐに収まった。時計を見る。午前三時を回っていた。電気がつかない。すぐに妹に電話を入れる。妹は老齢な母親と一緒に暮らしていた。ダメだろうと思っていた電話が繋がり、二人の無事が確認できた。妹と母は札幌のマンションの九階にいる。揺れの激しさは、三階の私とは比べものにはならないはずだ。

 次にえみ子にメールを入れる。後日、スマホの記録を見ると、午前三時十一分だった。えみ子はマンションの十階だ。彼女とは、生活を共にはしていないが、私の大切なパートナーである。

 

( 私 ) 三時十一分  「だいじょうぶ?」 十八分「こっちは停電」

(えみ子)   十八分  「なんとか」「停電?」「お母さんたちは?」

( 私 )       二十分  「だいじょうぶ」「震源どこ?」「TVもラジオもダメなんだ」

(えみ子)二十四分  「胆振(いぶり)地方中東部だって」

( 私 )    二十四分  「えッ! 海じゃないの? じゃ、津波はだいじょうぶだね」

(えみ子)二十五分  「だいじょうぶだって」「あ、こっちも停電になった!」

( 私 )    三十八分  「まだ水、出るなら、浴槽に溜めて! トイレ用に」

(えみ子)三十九分  「わかった」「あら、出ないっぽい。ちょろちょろ」「ダメだわ」

 

 平成三十年(二〇一八)九月六日午前三時七分、北海道胆振東部地震の規模はM六・七、最大震度は七を記録した。震度七は想像に難い。私のいる札幌は、震度六弱から五弱の範囲で、被害は局地的に留まった。だが、我が家からそれほど離れていない場所で、ひどい液状化現象が起こり、多くの人が家を失った。また、震源域に近い場所では、大規模な山崩れが発生し、この地震での最大規模の犠牲者を出している。また、この地震で特筆すべきことは、北海道全域で停電が発生したことだった。

 私はすぐに着替えて会社へと向かった。会社までは三キロほどの距離である。信号が消えていたので幹線道路を通らずに、住宅街を縫うようにして会社へと向かった。早朝だというのに、行きかう車の数が多い。職場へ向かう人や、離れて住む家族のもとに駆けつける人なのだろう。真っ暗な中、灯の消えたコンビニの入り口には、幾人かの人の気配があった。

 午前四時過ぎ、会社へ到着。すでに数名の社員が出社していた。ガス会社なので宿直もいる。敷地内にあるプロパンガスの充填所では、倒れたボンベ五十本ほどが散乱していた。まずはそれを片付ける。事務所へ入ってみると、ほとんどの机の引き出しが飛び出していた。倒れているパソコンもあった。あとは、給湯室の食器が割れて散乱していたくらいで、とりわけ大きな被害はなかった。

 問題は、翌日の夕方まで続いた停電だった。会社にはガスの自家発電機があったので、パソコン一台と電話一台をそれで賄(まかな)った。しかし、これだけではまったく仕事にはならない。ただ、黙って机の前に座っているしか術がなかった。不測の事態に備え、待機しているだけの状態だった。

 私は、平成二十三(二〇一一)年三月の異動で、東京から北海道に戻ってきた。最初の赴任地が室蘭市だったこともあり、生活用品を買いそろえる際に、ラジオ付懐中電灯も購入していた。

 北海道の太平洋岸は、地震の巣窟である。月に一度は有感地震がある。私は、ふるさと様似(さまに)で、昭和四十三年(一九六八)の十勝沖地震(M八・二)と、昭和五十七年(一九八二)の浦河沖地震(M七・一)を経験している。前者は小学三年生のとき、後者は大学四回生になる春休みで帰省している最中のことだった。それは天地がひっくり返るほどの大地震であった。一帯は泥炭地であるため、その揺れは公式の揺れを大きく上回っていた。

 そんな経験もあり、ラジオ付懐中電灯を購入したのである。ラジオがいかに大切かは、身をもって体験していた。東日本大震災(M九・〇)は、その十一日後に起こった。早々に懐中電灯の出番がきたことに、ゾッとした。幸い室蘭市は一メートルの津波が押し寄せただけで、とりわけ大きな被害には至らなかった。

 その翌年の冬には、登別・室蘭の大停電にも遭遇している。猛吹雪で高圧電線の鉄塔が倒れたのだ。氷点下の気温の中、暖房のない室内で一夜を過ごした。可能なものはすべて着込んだ。重ね着は五枚だったが、それでも身の危険を感じるほどの寒さだった。このときもラジオ付懐中電灯は威力を発揮した。

 そして今回の地震である。ラジオ付懐中電灯を購入してから七年半、三度目の「非常時」に遭遇することになった。

 

 (二)

 今回の北海道胆振東部地震による死者は四十一人、負傷者は六九一人に上った。ただ、その被災地区は限定的だった。もし、今回の地震が海底で起こっていたら……、あと二か月遅く発生していたら……、そう考えるとゾッとした。

 家族を亡くし、家を失った人の気持ちは察するにあまりある。年老いた両親が自宅もろとも生き埋めとなり、その救出作業を遠くから見守る兄弟の姿がテレビにあった。二人は、大きな声で必死に呼びかけている。その悲痛な叫びに涙があふれた。それはいつ自分の身に降りかかってきてもおかしくないことであった。四十一人の死者は、自然災害の死者数としては多くはない。大災害とはいいがたい数字である。だが、当事者にしてみれば、最愛の家族の中からたった一人の死者が出ただけでも、それは人生を狂わせるほどの大きな痛手になる。死者数の本質とは、そういうものだ。

 今回の地震で、津波がなかったこと、そして何より冬の地震ではなかったことがよかった。もし、北海道全域にわたるブラックアウトが真冬に発生していたら、と想像しただけで凍りつく。それは絶対に起きてはならないことだった。

 氷点下二十度では、暖房なしでは過ごせない。トイレや洗い物用としてバケツに汲んだ水も、液体として存在できるのはほんのわずかな時間である。私が幼いころは、住宅の寒冷地仕様がまだお粗末だった。寝るときは毛糸の帽子を被らなければ、頭が寒くて目が覚めた。そして、凍らせてはならないものは冷蔵庫に入れた。旭川の友人は、縁日で掬った金魚を寝る前には冷蔵庫に入れていたと言っていた。氷点下二桁での停電は、命に直結する。

 私が購入していたラジオ付懐中電灯は、最後に使ってから六年間、棚の上に放置されていた。今回、その懐中電灯はまったく役に立たなかった。中の電池が劣化して白い粉を吹いていた。手動の発電レバーを回してみたが、電灯が灯る気配はまったくなかった。スマホに登録しているラジコ(スマホのラジオアプリ)は、貴重なスマホのバッテリーを惜しげもなく消費した。災害時には不向きであることがわかった。頼りになるのは、やはりラジオである。

 電気が止まると、何もかもが停止する。冷蔵庫が止まる。断水にはなっていないが、水が出ない。上階へ水を汲み上げるポンプが動かないからだ。そうなるとトイレが使えなくなる。当然、ウォシュレットもダメだ。風呂にも入れないし、顔も洗えない。ストーブがつかない。固定電話が使えない。パソコンもダメだ。スマホだって充電ができなくなる。ガソリンスタンドも給油ができない。ありとあらゆるものが停止する。

 スマホのバッテリー残量を温存するため、スマホの使用を最小限に控える。ラインやメッセンジャー、ショートメールがひっきりなしに届く。本州にいる多くの友人が、安否を気遣ってくれている。携帯電話のバッテリーがなくなるのは、室蘭・登別の大停電で経験していた。だから、返信は極力短く、必要最小限にした。だが、そのスマホが突然、作動しなくなった。ネットにつながらないばかりか、通話もできないのだ。見ると三本のアンテナが消えていた。非常電源で動いていた携帯電話の基地局の電源が、タイムアウトになったということを後に知る。万事休す! 外部との連絡手段が遮断された。その瞬間から、スマホが不必要に重たい金属の塊となってしまった。

 実は、この数時間前に「拡散希望」と題するラインが知り合いから転送されてきていた。その内容は次のとおりである。

 

「NTTの方からの情報です。

 只今、道内全域で停電しているため、電波塔にも電気がない状況なので、携帯電話もあと四時間程度したら使えなくなる可能性が出てきたそうです。なるべく一人で行動せず、家族や仲間、友人などと共に複数で安全な場所に避難してください。

 追加情報です。札幌市の断水についての情報が入りました。今から六時間後だそうです。札幌は確定しています。復旧は二、三日かかる予定です。現在、対策本部も情報を集めています。自衛隊本部からの断水指示が出ています。江別市は断水しているみたいです」

 

 疑心暗鬼の中、本当にスマホが使用不能になった。デマがまことしやかに真実味を帯びてきた。断水も間違いないのではないか、そんな思いが頭をもたげ始めていた。その後、札幌市水道局が盛んに断水を否定する情報を流し始めた。

 そんななか、また別のラインが入ってきた。

 

「厚真(あつま)(大規模な山崩れがあった震源地)にいる自衛隊の方からの今来た情報です。地響きが鳴っているそうなので、大きな地震が来る可能性が高いようです。推定時刻五~六時間後とのことです! 早めに入浴、家事、炊事を済ませてください! との情報が入りました。備えあれば憂いなし! です!」

 

 これは、明らかなデマである。だが、私の周りでは真に受けている人が少なからずいた。スーパーやコンビニからモノがなくなった元凶は、これらの情報が寄与したことは否めない。デマだとわかっていても「買っておいたことに越したことはない」という心理が働いたのだ。

 この「○○の方」からの情報は、ラインを通じて瞬く間に人々のスマホに伝播(でんぱ)した。そしてこれを打ち消す情報との情報合戦が始まったのである。

 

 (三)

 スマホが使用不能になってすぐに、NTTが公衆電話を無料開放した。公衆電話が唯一の通信手段となった。幸いにも自宅近くに公衆電話があったのだが、電話を待つ長い列ができていた。昭和の光景を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 私の車は、ガソリンを満タンに給油したばかりだった。スマホの充電は車から行うことができた。情報は車のテレビから入手した。だが、四六時中車の中にいるわけにもいかなかった。

 私の場合、自宅も会社も停電にはなったが、断水は免れていた。母やえみ子のマンションも水道が使えたのが幸いだった。だが、携帯電話が使えないのは、決定的な痛手だった。

 私との連絡が不通になったため、その日の夜、心配したえみ子が私の様子を見にきた。彼女は、ラジオ付懐中電灯とLEDのロウソクを持ってきた。コンビニやスーパーの棚という棚がガランとしてもぬけの殻となっていたので、大いに助かった。

 えみ子は、信号機のない七キロの夜道を車できたのだ。街中が灯りを失って、懐中電灯がなければ外出できない、そんな漆黒の闇に包まれていた。帰りに、えみ子を駐車場まで送っていく途中で見上げた空に、満天の星が瞬いていた。それは幼いころふるさと様似(さまに)でよく目にしていた夜空と同じものだった。天の川が天球を横断する、まさに満天の星月夜(ほしづくよ)であった。街の灯が消えると、宇宙が出現する。宇宙は遠い存在ではなく、見上げたすぐ頭上にあることを垣間見させてくれた。

 会社は二日間、まったく機能を停止した。必要な社員だけを出社させ、あとは自宅待機とした。出社していた社員も、日没とともに自宅に帰った。

 二日目の夜、私は満を持して母と妹のいるマンションへと向かった。マンションは街中(まちなか)にあり、私のところからは十キロほどの距離である。札幌は北の果ての地方都市とはいえ、名古屋に次ぐ一九六万人の人口を擁している。中心部は整然とした碁盤の目になっているので、それだけ交差点がある。警察官のいる交差点は、ほんのごく一部だ。信号のない交差点は譲り合いながら走る。まったく自発的に譲り合うのだが、誰かが交通整理でもしているかのように、何台おきかに車が停止し、また動き出す、そんな動作が繰り返されていた。その光景に少なからぬ感動を覚えた。日本人でよかったと思った。左右をよく見て慎重に運転していく。気の抜けない運転に、ハンドルを握る手が汗で滑った。

 コンビニやスーパー、ホームセンター、家電量販店からは、もののみごとに商品が消えた。食料品などはきれいさっぱり一切なく、乾電池やロウソク、ラジオなどの防災用品も跡形もない。無機質な棚だけがズラリと並ぶ光景は、不気味だった。群集心理とは恐ろしいもので、すべてを食い尽くすイナゴの大群と同じである。必要のないものまで買い尽くす、そんな勢いを感じた。

 多くの家庭は、水道とプロパンガスが使えたので、冷蔵庫に入っているものを片っ端から調理したはずである。私も食材をダメにしないよう、大量の野菜炒めを作った。

 スーパーの出口で、六十代くらいの男性が立ち話をしていた。

「うちはさ、十五、六年前にオール電化にしたもんだから。最初はよかったのさ。それで、あの震災(東日本大震災)だもの、電気代も高くなったべさ。そしてこの停電だ……。まったくアウトだぁー」

「うちは、プロパン(ガス)だからいんだけどさ。女房がカカア殿下だべさ。どっちがいいもんだかね」

 なのどかな掛け合いだが、少しだけ心が和んだ。「オール電化」のほうの家が、「カカア殿下」でなくてよかったなと思った。停電が解消されたのは、それから間もなくのことであった。

 電気が通ると、何事もなかったように、すべてが動き出した。だが、お店の棚に以前のように商品が並んだのは、それから一週間ほど後のことだった。

 

 近年の地震では、平成二十八年(二〇一六)四月に起こった熊本地震が、大きなインパクトとして記憶に残っている。その後、鳥取県中部や大阪府北部など、震度六弱以上の地震が今回を含めて、七回も発生している。半年に一度のペースだ。日本がいかに地震大国であるかがわかる。

 今後、巨大地震が懸念されているのが、釧路・根室沖の千島海溝を震源とする北海道東部地震である。津波による甚大な被害が予想されている。だが、最も憂慮すべき地震は、静岡から九州沖合にかけての南海トラフ地震だ。

 これから三十年以内にマグニチュード八~九クラスの地震が発生する確率は、七〇~八〇パーセントだという。しかも、過去の実績から、東海、東南海、南海と三連動型地震になる可能性があるというのだ。「今後三十年以内に」というフレーズは、三十年以上前から言われているものだ。

 もし、この地震が現実のものとなったら、その被害は計り知れないだろう。北海道は遠く離れているから大丈夫、という単純な問題ではない。多くの友人が亡くなり、会社も本社機能を失い、存続ができないだろう。まさに国難であり、国家存亡の危機が出来(しゅったい)する。

 今のところ政府も「正しく恐れよ」としか言いようがない。いよいよ次なのか、という恐怖心が沸々と沸き起こってくる。だが、日本各地では、原発の再稼動がソロリソロリと始まっている。加えて被災予定地では、国家プロジェクトであるオリンピックや万博までもが予定されている。それどころではないように思うのだが。心配のし過ぎだろうか。

 

  2019年1月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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