父さん、元気でやってますか | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 父と過ごした時間は、わずか二十三年間である。高校時代から札幌で寮生活をしていたので、実際は十五歳までだ。実家は、北海道の小さな漁村様似(さまに)で、父はその町の漁業組合に勤めていた。酒もさほど飲まないのに肝硬変で死んだ。五十一歳だった。

 京都での大学時代、卒論に追われている最中、母から父の病を知らされた。昭和五十七年(一九八二)十一月のことである。

「父さん、年、越せないって……。先生がいってた……」

 電話口で母が泣き崩れた。その日、私は紅葉が色づき始めた嵐山を散策した帰り道、四条河原町で旧ソ連の元首ブレジネフ書記長の死去を報せる号外を手にしていた。卒論が米ソの冷戦構造に関するものだったので、時代の大きな転換点に立ち会ったような、衝撃的なニュースとして号外を握りしめていた。そんな中での父の一報だった。

 父の報せを受けてから、一週間後、私は北海道の実家に戻った。ゼミの教授に事情を話し、昼夜慣行で卒論を仕上げ、提出していた。

 父の病状が一進一退を繰り返すなか、私は大学を卒業した。就職先は東京であった。妹がすでに札幌で就職しており、私と母が昼夜交代で、父の看病をしていた。

 東京へ向かう朝、私は病院へ立ち寄った。もうこれで生きている父には会えない、という覚悟の面会だった。

「ゴールデンウィークには帰ってくるから」

 初めて見る私の背広姿に、父は怯えるような目を見せた。

 駅まで送るという母を留まらせ、私は一両編成の汽車に乗りこんだ。窓の外には、寒々とした海が、白波を立てていた。

 大きな鞄を座席の横に置き、慣れない革靴を脱いで前の席に足を投げ出した。まばらな乗客の目を気にしながら、ハンカチで顔を覆った。眠るように装って思う存分泣いた。

 私が病室を出た後、父も蒲団をかぶって泣いていた、と後日母が言っていた。

 

「父さん、意識が戻ったんだけど……あんた、帰ってこれるかい」

 父は混濁する意識の中で、傾眠(けいみん)状態を続けていた。今帰ってきてもどうにもならない、という母の言葉で、私はゴールデンウィークを返上して仕事をしていた。石油会社に就職した私は、ガソリンスタンドに勤務していた。

 千歳空港から四時間。駆けつけた私に、父は最後の力を振り絞ってベッドに起き上がった。母が、信じられないという顔をしていた。

「いやー、もう少しで死ぬとこだったー」

 父が真顔で言った。その父の真剣な顔に、私は黙ってうなずいた。

「おッ、テレビぐらいつけれや」

 父の言葉に、母はあわててテレビのスイッチを入れた。

 そのテレビ画面に、プロ野球のナイトゲーム、巨人・大洋戦が映し出された。

「父さん、また、巨人が負けてるな」

 と言って父を振り返ると、蒲団にもたれた父は静かな寝息を立てていた。数分のことである。父は再び目を覚ますことはなかった。それから一週間後、父は身罷(みまか)った。

 最近、父のことを懐かしく思い出す。この(二〇一一年)六月二十八日、私はとうとう父の年齢を超えた。父が死んでから二十八年の歳月を経ているのだが、妙に懐かしい。ふとした拍子に、父が傍(かたわ)らにいるような錯覚にとらわれることがある。

 平成二十年(二〇〇八)、脳梗塞をわずらった母は、妹と二人で札幌に暮らしている。母は今年(二〇一一)、七十六歳になる。考えてみると、母は四十八歳で夫を亡くしているのだ。当時、二十三歳だった私は、親の年齢を「結構、いい歳」としか考えていなかった。だが、今思うと、ずいぶんと若かったことに改めて気づかされる。現在、大学四年になる娘も、当時の私と同じように私のことを見ているのだろう。

 

 最近、ふとした拍子に、

「父さん、元気でやってますか」

 と声をかけたくなることがある。

 

  2010年5月 初出(作品中の時系列は、2011年を基準)  近藤 健(こんけんどう)

 

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