会社の机の引き出しに、古ぼけた英語の辞書が入っている。高校時代に使っていた辞書で、今でも大切にしている。その辞書の上部、いわゆる「天」に当たる部分に、マジックで黒々と「健一」と記されている。それを目にするたび、高校時代の帰省の列車を思い出す。
私の本名は近藤健なのだが、学生時代の数年間、「健一」と名乗っていた時期があった。
高校が札幌だったため、夏冬などの大きな休みのたびに列車で帰省していた。実家は、北海道の太平洋岸に面した小さな漁村、様似(さまに)であった。
高校二年の春休みが終わり、私は札幌へ戻る列車に乗っていた。昭和五十二年(一九七七)のことで、JRがまだ国鉄と呼ばれていた時代である。途中駅から、騒がしい中年男性の一団がドヤドヤと乗り込んできた。私は四人がけのシートに足を投げ出して、小説を読みふけっていた。一人の男が席を探しにきて、
「次長ッ! ここ三つ空いてまーす」
と手を上げた。やがて次長なる男がやってきて、学生服姿の私に丁寧な口調で、
「婚礼帰りで、ちょっと酔っていますが、失礼します」
といって腰を下ろした。田舎のローカル列車に乗るような雰囲気の人ではなかった。当時、私は学生寮におり、普段の外出はもちろん、帰省の際にも学生服を着用しなければならなかった。真っ黒な制服に金ボタン、詰襟の両サイドには金糸の校章が入った、田舎では目立つ制服だった。
三人の男たちが席に落ち着くと、そんな私がものめずらしかったか、次から次へと質問してくる。酔いも手伝って、遠慮がない。これからどこへ行くのか。学校はどこなのか。実家は……。私はいささかウンザリしながらも、生真面目に答えていた。考えてみると、当時の私は彼らの息子と同じような年齢だったと思う。そのうち、私の正面に座っていた男が、
「この人はね、函館青函局の次長。普段は、そばに寄れないほど偉い人なんだぞ。なんたって青函トンネルの大親分だからな」
と酒臭い息を吹きかけてきた。そんなことを言われても、当時の私には皆目見当がつかず、ただ恐縮するばかりであった。そんな彼らと二時間ほど席を共にした。
とりわけ次長なる男が、熱心に話しかけてきた。会って間もない私に、自分の身の上話を始めたのだ。自分の生い立ちから、国鉄に入るまでの経緯である。真面目そうな高校生を前に、昔の自分に重なる部分を見出し、アルコールの加勢もあってそんな気分になったのかもしれない。次長は、国鉄に入る前、姓名学を勉強していた。姓名学の大家の自宅に寄宿し、書生のような生活をしながら、数年間本格的に姓名学を勉強していたという。
話の成り行きの中で、私の名前の画数を見てもらった。紙に名前を書かされたのだ。そのときに、「健一」を名乗るように言われた。
私の氏名の画数が非常に悪く、一画増やさなければダメだという。それだけなら、その場限りのことと聞き流したのだが、彼らが苫小牧(とまこまい)で下車する直前、私の耳元で次のようなことを囁(ささや)いた。
私は、あなたのことが気に入ったので、あえて教えておきます。「健一」を名乗らなければ、あなたは四十代で命を落とすような大病を患う可能性がある。戸籍を直さなくてもいいから、日常で「健一」を使いなさい。四十代を乗り越えたら、あなたには素晴らしい人生が待っているはずです。頑張ってください。
そんなことを言って握手を求められ、次長はそのまま下車してしまった。なんとも無責任、身勝手な話である。厄介なお告げを聞かされた思いがした。
寮に戻って、親しい寮生にその話をすると、
「そりゃ、大変だ。すぐに名前を変えろ」
ということになり、以来、私は「ケンイチ」と呼ばれるようになった。だが、私には終始、「だがな……」という思いがあった。二七〇〇グラムの未熟児で生れた私を憂(うれ)いて、両親は「健康」の「健」とした。幼いころ、そんな命名の由来を聞かされていた。母が高倉健のファンだったということは、ずいぶん後で明かされたことだ。「高倉健一」では、高倉健のイメージもずいぶんと変わる。「近藤健一ねぇ……」という煮え切らない思いがこびりついていた。
私はすっかり〈お告げ〉にとらわれていた。仕方なく、教科書やノートに書いてあるすべての名前の下に「一」を加えた。だが、その名前への違和感は否めなかった。それでも頑張って健一になり切ろうと努力した。英語の辞書は、そんな当時の名残である。
大学四回生のときに、高倉健主演の映画「海峡」が封切られた。早速、映画を観にいった。「海峡」は、青函トンネルを掘る男の物語である。私は五年前の列車の中での出来事を思い出していた。「青函トンネルの大親分だからな」と言っていた言葉が気になったのだ。もしかしたら、あの次長がモデルの映画か、と。胸を高鳴らせながら高倉健を観ていた。
だが、たった二時間の出会いにすぎない次長の輪郭は、高倉健からは見出せなかった。映画の中で主人公の高倉健が姓名学について触れたら、次長に違いないという核心に変わったのだろうが、そんなシーンはなかった。
就職してからは、公に「健一」を名乗ることは止めた。いちいち同僚に説明して回るのが億劫(おっくう)だった。名刺は「健」だが、オレは「健一」だと念じることにしていた。だが、次第にそれも面倒くさくなっていった。「ええい、もうどうでもいい」と思ったのは、四十歳も半ばを超したあたりである。私は、十六歳の後半から三十年以上もの間、次長の〈お告げ〉にとらわれていたのである。死ぬのが怖かったのだ。
今年(二〇一〇年)の一月、私は晴れて五十歳になった。とうとう四十代を乗り越えた。まだ、生きている。三十八歳で妻が精神疾患を発症し、五十歳で妻が家を出ていった。私の四十代は、まるまる病気との闘いだった。五十歳になって、やっとそれからも解放された。これからはバラ色の人生が訪れるのか。今のところ、そんな気配は微塵もない。だが、妻の病気と、次長のお告げの呪縛(じゅばく)から解き放たれた、という心地よい解放感がある。
まだ、しばらくは死にたくない。
2010年3月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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