宅建への挑戦 (1)~(12) | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

(一)

「ゴメンなさい。ボクはもうこれ以上がんばれません」

 聞き捨てならないが、遺書ではない。

 二年越しで宅建(宅地建物取引士。当時は宅地建物取引主任者)の試験に挑戦し、二度目の試験を目前に吐いた弱音である。久しぶりに捲(めく)った問題集の端に、走り書きをみつけた。平成二十三年(二〇一一)十月六日と日付まで記してある。試験十日前のことである。

 私は五十歳を目の前にして宅建の勉強を始めた。それは「書き込み不能」の脳ミソに、パン粉を捏(こ)ねるように知識を練り込む作業だった。ただひたすら過去問を解く、修行のような一念で勉強してきた。三冊で七三〇問ある問題集を一巡して再び戻ってくると、前に解いた問題が初めまして、とでも言いたげに澄ました顔をしている。オノレの忘却力の凄(すさま)まじさに呆然(ぼうぜん)とする。やっぱりダメなのか、と心が萎(な)える。そんな繰り返しの日々を送ってきた。

 二年近く前から睡眠障害に悩んでいる。寝つきが悪いのだ。寝酒もよくないだろうと、かかりつけの内科医に相談すると、いとも簡単に睡眠導入剤を処方された。仕事で飲んで帰ってきた日は、さすがにそのまま眠れるのだが、そうでない日は薬に頼ることが多い。

 試験が近づくにつれ、問題を目にすることが苦痛になってきた。それでも自分をねじ伏せるように問題集を押しつける。だが、何度同じところを読んでも、文章が頭に入ってこない。激しい拒絶反応である。これが弱音の種明かしである。

 

 平成二十一年十月、私は一大決心をして宅建の勉強を始めた。仕事上の必要に迫られたのだ。会社の窓から建設中の東京スカイツリーが見えていた。日増しに伸びていく塔を眺めながら、「よし、あれと競争だ」と覚悟を決めた。決心に半年を要した。スカイツリーの開業は、平成二十四年の春だが、私は平成二十二年十月の一発合格を目指した。時間をかけてはいられなかった。

 宅建の試験は年に一度、十月の第三日曜日である。私はサラリーマン生活の傍(かたわ)ら、所属している同人誌が主催するエッセイ賞の下読み(予備選考)を行っている。四〇〇本ほどの応募原稿を読み、五段階評価を付して一本一本にコメントをつけるのだ。七月からの三か月間、毎年この作業に忙殺されていた。今回、この下読みが終わるのを待って、宅建の勉強を開始した。翌年の下読みは、あらかじめ辞退を申し出た。平成二十一年九月下旬のことである。

 勉強開始早々、難解な法律用語と、奇天烈(きてれつ)な日本語のいい回しに頭を抱える日々を送った。

「Aには、相続人となる子BとCがいる。Bは遺留分(いりゅうぶん)に基づき減殺(げんさい)を請求できる限度において、減殺の請求に代えて、その目的の価額に相当する金銭による弁償を請求することができる」

 イエスか、ノーか。問題文が頭に入ってこない。匍匐(ほふく)前進でフルマラソンに参加するような勉強だった。法律用語という難解な日本語に慣れること、力ずくで頭に擦り込むこと、ただそれだけに専念した。年齢との闘いだった。

 

 (二)

 勉強をするに当たっての最大の枷(かせ)は、妻だった。妻が精神を患っているため、自宅での勉強が思うようにできないのだ。私が熱心に何かに打ち込むことが、妻には面白くない。

「健康な人はいいわね。やりたいと思うことが何でもできて」

 もっと私に向き合って欲しい、というのが妻の本音である。

 妻は平成九年(一九九七)十二月に発病し、それまでに十二回の入退院を繰り返していた。病名は「境界性人格障害」。加えて躁うつ病のうつが強いタイプ、「双極性障害Ⅱ型」という、やっかいな病を背負い込んでいた。主治医からは重症だといわれていた。

 発病してからの数年は、次から次へと妄想が湧き起こり、それが私への暴力に発展していた。

「白状しろ、相手は誰なんだ!」

 会社の緊急連絡網を見つけ出し、浮気相手はあなたかと女子社員の自宅に電話したこともあった。私は女子社員に土下座して謝って回った。嫉妬妄想である。

 妻はしばしば自傷行為を引き起こした。何度、集中治療室で夜を明かしたことか。処方されている薬を、一度に全部飲んでしまうのだ。いわゆるオーバードーズ、過量服薬である。医者はモグラたたきのように、妻の妄想を薬で押さえ込んでいった。薬が効かなくなると、電気痙攣(けいれん)療法を実施した。全身麻酔をするので、オペ扱いである。ワンクール六回から八回程度で、うつ症状が改善され再び薬も効き始めるのだが、記憶が飛んでなくなる部分も多々あった。

 そんな妻も宅建の勉強を始めたころには、いくぶん落ち着きをみせていた。だがそれは、いつ爆発するともしれぬ、不気味な休火山であった。マグマ溜まりには着実にマグマが溜まっていた。

 勉強を始めてちょうど一週間目、学生時代からの親友の訃報が飛び込んできた。友達の妻から会社に電話があったのだ。

「どうした? 何かあったのか」

「あった……」

 ありましたではなく、「あった」という必要以上に感情を押し殺した彼女の声に、ただならぬものを感じた。良二もまた七年前にうつを発症し、会社を辞めてガラス彫刻で生計を立てていた。

「何があった? ……」

「良二さんが、亡くなりました」

「えッ! ……」

 私は前後不覚になるほどの衝撃を覚えた。良二は、長野県の山中で練炭自殺を図ったのだ。高三と中三、来年小学校一年生になる三人の女の子がいた。死ぬ半年ほど前まで、良二とは毎晩のようにメールのやり取りをしていた。良二にとって私は長年の友達ということ以上に病気の最大の理解者であり、よき伴走者でもあった。良二は、私に全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せていた。私たちはお互い、深い部分で結びついていた。

 そんな良二からのメールが次第に遠のき始めていた。彼のブログを見ながら、私に頼らなくても大丈夫なまでになってきている、仕事が軌道に乗ってきた証拠だ、と私は自分に都合よく解釈していた。実際はそうではなかった。彼は、妻を抱えて喘(あえ)ぐ私に遠慮していたのだ。良二とのメールの通信履歴を再読して、それがわかった。

 良二の死からしばらくの間、私は抜け殻のようになって、何も手につかない日々を送っていた。気がつくと仕事中でも涙ぐんでいる自分がいた。

 私はその打撃を乗り越えるため、自分に鞭打ち猛然と問題集にかぶりついた。ただ、妻の目だけは執拗(しつよう)に気にしていた。私は妻への刺激を考え、良二の死を伏せていた。だが、どうしても良二の死を告げなければならない場面ができた。さりげなくそれを告げたところ、案の定、妻が精神のバランスを崩してしまった。

 

 (三)

 年が明けて平成二十二年三月。三年前に脳梗塞を発症した母を介護していた札幌の妹にがんが見つかった。乳がんである。がんはすでにリンパにまで達しているという。三か月前の定期健診でマンモグラフィー検査を受けていたが、異常なしの所見だった。妹は四十八歳、独身だった。すぐに入院し、乳房の一部切除とリンパにかけての乳腺の摘出手術が行われた。私は妻をかかえ、身動きが取れなかった。

 娘は大学二年生になっており、数日間なら娘に家のことをまかせて札幌へいくこともできたが、私が動くこと自体が妻の刺激になる。そちらの方が怖かった。妹もそれを承知していた。親戚や妹の友達の連携で、母の食事の世話や様子を見にいってもらったりしながら、十五日間の入院期間を切り抜けた。

 そんな最中、妻が家を出た。出奔(しゅっぽん)したのである。妹が退院する前日のことだった。

「後日連絡をします」

 会社から帰宅し、真っ暗な居間の電気をつけたら、テーブルの端にこう書かれた付箋が貼られていた。

 実はこの日の午前中に、娘から電話があった。

「私、これからバイトなんだけど。あの人、今日、出ていくかもしれない。どうする……」

 娘はいつのころからか、母親のことを「あの人」と言うようになっていた。母親の尋常ではない行動が、病気のせいだと頭では理解していても、気持ちがついていかない。心が拒絶していたのだ。

「十分やってきただろう、オレたち。……もう、いいんじゃないか。どう思う」

 そう娘に向けると、

「うん、わかった」

 と短く言って電話は切れた。私と娘は、妻を見限った。妻の逃げ道を開けたのだ。

 良二が自殺し、精神のバランスを崩した妻が頼ったのが、同じ病気で数年前からの入院仲間だった男性だった。彼は大手IT企業に勤めるSEだったが、数か月前に休職期限が切れ解職されていた。妻より二つほど年上だったので、四十二、三歳。真面目にバカをいくつもくっつけたような男だった。そんな彼のまっしぐらな真面目さが、病気の原因だろうと私は密かに思っていた。彼もまた独身だった。

 妻は二週間に一度の外来日以外は、日がなソファーに横になり、ただひたすらCDを聞いて過ごしていた。同じ曲を何度も何度も繰り返し聴きながら、私の帰宅を待っていた。妻は、ほとんど外出が出来なかった。家事もしなかった。家事をし始めるとどうしても頑張り過ぎてしまい、決まって精神のバランスを崩した。何もしないでいてくれた方が、平穏でよかった。私たちは、ただひたすら刺激を回避する生活を送っていた。

 居間の照明を薄暗くする。テレビの音量もやっと聞き取れるほどのボリュームに落とす。娘の友達は家に呼ばない。仕事帰りは極力買い物を避け、できるだけまっすぐに帰宅する。本屋を覗くことも許されなかった。

 妻の発病後、妄想がひどくなってからの九年間、私は自分の母親に会っていなかった。母の病気の一因も、そんなところにあったのだと思う。刺激を避ける日常は、妻を取り巻く周りの者を雁字搦(がんじがら)めにした。

 

 (四)

 良二の死で平衡(へいこう)感覚を失った妻は、男と頻繁に連絡をとるようになっていた。手段は、電話とメールである。携帯電話だと通話料金がかかるので、固定電話を使っていた。それでも都内同士での通話で、月に二万円も三万円も話していた。一日に四時間としても、ひと月では優に一〇〇時間を超えていた。私はそれを黙認していた。主治医も止めることはできなかった。

 妻は二週間に一度の外来日に男と会っていたのだが、それが平日にも会うようになり、週に一度から、五日に一度、三日ごとと次第に頻度が増えていった。練馬から渋谷へ出かけていたのだが、電車で往復する体力のない妻の交通手段は、もっぱらタクシーだった。妻が受け取っていた精神障害者年金は、ほとんどタクシー代と飲食代に消えていた。

 あるとき妻から、男と結婚したいと思っているがどう思うか、と真顔で相談された。普通なら「お前、気でも狂ったか」、と一蹴(いっしゅう)する場面である。だが、そんなことは口が裂けてもいえない。それ以降、同じ相談を何度も受けた。

「ボクはあなたのお父さんじゃないんだよ。夫だよ。相談する相手が違うでしょう」

「普通、こんなことは訊いてこないよ」

 幾度、こんなフレーズを口にしたことか。あきれ果てて話にならないのだが、無視もできない。そんな私に、

「『普通』って何よ。どうせ私はキチガイですから」

 そんなふうに食ってかかってきたこともあった。まったくもって本末転倒なのだ。

「いいか、よく考えてごらん。もし二人が一緒になったとしても、お互いに病気でどうやって生活していく? 風呂はどうする。誰が頭を洗ってくれる? 食事は? 半年ももたないよ。お互いの破滅が目に見えているだろ。わかるかい」

 言葉を尽くして妻を説得してきた。だが、その「常識」が通じない。それが妻の病気だった。

 妻は家を出る計画を周到に練り始めていた。周到とはいっても、普通の人の五倍も十倍もの非効率な労力を費やしていただろう。妻はひそかに身辺の整理を始めていた。私と娘はそれに気づいていたが、見ぬふりを装っていた。当日、男がレンタカーで乗りつけ、荷物を運び出し、逃げるようにして出ていったのだろう。その場面が痛々しく想像できた。

 それから三日後、妻から「会ってほしい」との電話が会社にあった。妻は私の会社近くの喫茶店にいた。私が席に着くやいなや、妻は神妙な面持ちでバッグから書類を取り出し、私の前に広げた。離婚届だった。予想外だった。

 離婚届は妻の字で、丁寧に書かれていた。そのあまりにもきちんとしたできばえに、目を瞠(みは)った。もちろん妻ひとりの力でできることではない。男と二人、頭を突き合わせ、喘(あえ)ぎ喘ぎ書いている光景が浮かんだ。二人ともかなりの量の向精神薬を常用しており、細かい作業ができるような状況ではなかった。よく書いたなと感心してそれを眺めていた。

 私は会社にとって返し、押印した。終始無言で一連の作業を終えた。あっけない結末だった。ドラマの一場面を演じている自分を感じていた。

 会社へ戻る道すがら、ふと見上げると、万朶(ばんだ)の桜が空を覆っていた。そうか、もうそういう季節になっていたのか。桜を目にはしていたが、心に留っていなかったのだ。

 平成二十二年四月五日、離婚届が受理された。私は戸籍謄本を取り寄せ、謄本の妻の欄の左右の隅から対角線上に引かれている線を認めた。バツイチとはこのことか、と改めて思った。まさか「離婚」が自分のことになるとは、考えてもいなかった。

 妻は発病以来十二年間、私にしがみついていた。身内で頼れるのは私しかいなく、私が唯一絶対的な存在だった。妻は私にむしゃぶりついていた。それは見捨てられ感への異常なまでの恐怖心と表裏の関係をなしていた。私への暴力はそんなところからきていた。加えて、拭(ぬぐ)っても拭ってもまとわりついてくる希死念慮(きしねんりょ)は、隙(すき)あらば妻を凌駕(りょうが)しようと窺(うかが)っていた。

 離婚は、妻の死を意味する。これまで私は身体を張って妻の死を阻止してきた。娘の前で妻を死なせたくはなかった。ただその一念だけだった。その妻が自ら離婚を申し出てきた。私にとっては願ってもないことであった。それが正直な気持ちだった。

 妻との離婚を義母(妻の母親)に報告すると、

「長い間、本当にありがとうございました」

 神妙で丁寧な口調で言われた。電話口で手を合わせている義母の姿が浮かんだ。妻は母親を拒絶し続けていた。

 

 (五)

 宅建の勉強を始めてから、ろくなことが起こらない。親友の自殺、妹のがん、妻との離婚……。次々と起こる凶事に、呪われた勉強か、と考えたことさえあった。

 私はなりふりかまわず勉強に没頭した。夢中になっていなければ、ついつい妻のことを案じてしまう。すでに彼女は妻ではないのだが、十二年にわたって染みついた習慣は、そう簡単には抜けなかった。妻が妻ではなくなっても、娘にとっては血のつながった母親である。そこが厄介なところだった。だが、そんなことよりも気がかりなのは、母と妹のことだった。四月から五月にかけて、私は三度札幌を訪れている。妹は抗がん剤治療を開始していた。

 母を施設に入れることも考えたが、母は嫌がるだろう。妹も、一人になるよりも母といた方がいいと言う。何かと大変だが、頑張れるところまでやりたい、と。妹は初回の抗がん剤治療を入院しながらこなして、その年の九月まで計九回にわたる抗がん剤を打った。髪の毛は最初の段階ですべて抜け落ちていた。

 妻の枷(かせ)から解き放たれた私は、すべての時間を宅建の勉強に当てた。通勤電車の中はもちろん、仕事の合間にも問題集に向かっていた。休日のほとんどは図書館にいた。

 区立図書館は、資格試験の勉強をしている中高年や、受験勉強の若者でいつもごった返していた。周りを高校生に囲まれ、若さの気迫に圧倒されていた。彼らの持続力や集中力は想像以上だった。私は三十分ごとに休憩が必要だった。

 休みながら勉強しても睡魔が襲ってくる。スタミナドリンクを求めてコンビニへいく。無類の肩こりに拍車がかかった。

「ひどいな、これは。甲殻類のような背中だ」

 整骨院の先生が腱鞘炎(けんしょうえん)になりかけた。針治療やタイ式マッサージ、韓国アカスリとあらゆるものを総動員したが、それらはいずれも一時しのぎに過ぎなかった。

 そのころ私は、国会図書館を利用するようになっていた。国会図書館は、未成年者は入館できず、それゆえ落ち着いて勉強できた。重厚な机とすわり心地のいい椅子があり、隣との距離もファーストクラス並みにゆったりとしており、勉強するには申し分のない環境だった。何より図書館内が広大で、数千人が利用しているのだろうが、その多さを感じさせなかった。また食堂や喫茶店、休憩のためのソファーが充実しており、日がな快適に過ごすことができた。

 日曜日は国会図書館が休館なため、練馬区立図書館と併用して電車を利用した。電車の中での勉強が思いのほか快適だった。主に西武池袋線を利用したのだが、気兼ねなく居眠りができ、疲れたら途中下車して喫茶店に入る。池袋から清瀬の間を何往復したことか。おかげで西武池袋線沿線の駅周辺には、ずいぶんと詳しくなった。

 進めては戻り、新たな問題に取りかかってはまた戻る。千鳥足のように反復しながらやっていた過去問だったが、七月には試験範囲の問題をひと通りやり終えていた。後はひたすら反復するのみだった。三十八度を超える練馬の猛暑も、無我夢中で過ごした。

 刻々と試験が近づいていた。私は試験場を自宅から最も近い武蔵大学にした。ある日、下見で武蔵大学に出かけると、大学が司法試験の会場となっていた。ちょうど昼の時間帯で、夥(おびただ)しい数の受験生が木陰のベンチに座り、食事を摂りながら次の試験の勉強をしていた。一種異様な重い空気がキャンパス内に漂っていた。

 若い女性が意外に多い。何年越しの挑戦なのだろう、そんなことを思わせる男性もいた。司法試験に比べたら、宅建など取るに足らない塵(ちり)のようなもの。私はその塵に一大勝負を挑む覚悟で立ち向かい、苦戦していた。

 妻が出ていってから四か月が過ぎたあたりだろうか、突然、妻から電話があった。「うまくいっていないの、どうしよう」という電話である。病気が病気だけに無碍(むげ)にもできない。「相談する相手が違うだろ」といって短時間で電話を切った。そんな電話が三度あった。

 

 (六)

 平成二十二年(二〇一〇)十月十六日、カレンダーに記したカウントダウンの数字がゼロになり、試験当日を迎えた。駅から大学までの数百メートルの歩道は、受験生の長い行列ができていた。こんなにも受験するのかと、その数に慄(おのの)いた。

 試験開始の三十分前に着席し、試験官による説明を受けた。大学受験を髣髴(ほうふつ)とさせた。緊張が走る。試験時間は一二〇分。一問に要する時間は二分二十四秒。受験者の上位一五%が合格ラインだ。例年、五十問中三十三点から三十五点が合格最低点となっている。問題の難易度により三十二点の年もあれば、三十六点のこともあった。過去三十年間での最高点は三十六点なので、それをクリアーできれば合格と各専門学校は分析していた。

 やるだけのことはやってきた。とにかく引っかけ問題にさえ引っかからなければ、何とかなる。だが、この引っかけが難物で、気を抜くと引っかかり、抜かなくても引っかかっていた。宅建は、落とすための試験だった。

 絶対に受かってやると臨んだ試験であるが、開始早々、てこずり始めた。最初の十四問が民法なのだが、予想以上に難しい。三十分で民法を終わらせる予定が、かなり時間を超過した。超過していることはわかっていたのだが、確実に正解を得たかったので、あえて時間をかけた。前半の遅れは後半で取り戻せる、それまでの過去問からそう判断していた。

 目を上げると、斜め前方の受験生が目に入る。左右いずれの者も問題を解く進度が速い。最初の一時間でもう後半の問題に取りかかっているように見えた。指の汗で鉛筆が滑り、何度も手を拭(ぬぐ)った。

 私は焦(あせ)りに焦った。前半の時間のロスを挽回すべく、猛烈な勢いで後半の問題を解いていったのだが、途中、気力が途切れるのだ。身体を伸ばし、首を曲げ、肩をまわして気持ちを切り替える。刻々と時間が迫る。時間と気力との闘いだった。最後までやり終えて、問題の見直しをする余力はなかった。全精力を使い果たした。

 試験が終わった瞬間、腰が抜けるほどの疲労を覚えた。目の眩(くら)む疲れに、真っすぐに歩くのも困難なほどだった。「できたか」と自問したが、「極めて微妙だ」という答えしか返ってこなかった。

 大学を出たところで受け取ったビラに、各専門学校が午後五時から速報会を行うということが書かれていた。三時過ぎに大学を出て、私はその足で池袋の専門学校へと向かった。

 専門学校は、受験生で溢(あふ)れ返っていた。隣の教室で、有名講師が問題を解説しながら答えを出していく。私はスクリーンに映し出される答えを、食い入るように見つめていた。

 自己採点の結果、三十二点だった。愕然(がくぜん)とした。最初の十四問の民法で、かなり点を落としていた。最後の最後で答えを書き直した三問が、すべて不正解だった。直す前の解答が正解だった。まんまと引っかかっていたのだ。

 最近の試験では、平成四年、八年、十六年の合格点が三十二点。平成十年から三年続けて三十点だった年もある。そして平成二十年、二十一年は共に三十三点だった。つまり、「極めて微妙な」点を取ってしまっていた。

 数日後、各専門学校が合格点の予想をネットで発表し始めた。それによると、「今年の試験問題は意外と簡単だった」という総評で、大方の学校が合格点を「三十五点プラス・マイナス一点」と予想していた。今年の問題は難しかった、というのが私の感触で、周りとは大きくズレていた。

 試験が終わって三日後、社内旅行があった。社内旅行といっても関東近県での飲み会中心の一泊旅行である。このときは埼玉県の秩父だった。二班に分けての旅行で、私は試験直前の一班を避けて、二班にしてもらっていた。こんな苦痛な旅行はないな、と重い気分を引きずりながらの参加だった。

 宴会が始まって早々、大広間に五名のコンパニオンが入ってきた。とてもじゃないがそんな気分ではない。頼むから話しかけてこないでくれ、と思いながら飲み始めた。

 宴会が始まって十分ほどたったころ、遠くにいる同僚が、

「コンドーさーん、コンドーさーん、ちょっときて! 早く、早く」

 大きな声で手招きしている。なんだよ、勘弁してくれ。まだ酔っ払ったわけじゃないだろう、そう思いながら渋々席を立った。

「近藤さん、この人、タッケン受けてきたんだって」

 同僚が、目の前のコンパニオンを指差した。

「○○でーす。よろしくお願いしまーす」

 茶髪でミニスカートのコンパニオンが、満面の笑みを浮かべていた。私は状況がつかめぬまま、条件反射のように差し出したグラスにビールを注いでもらっていた。

 

 (七)

 三十代中ごろかと思(おぼ)しきコンパニオンは、心もちやつれたような雰囲気をかもし出していた。話を聞くと、宅建の試験が終わって、今日が仕事再開の初日だという。同じ日に試験を受けていたのだ。しかも彼女、三十九点で軽々と合格ラインを超えていた。それまで意気消沈し、ドロンとしていた私の目玉が飛び出した。

 彼女はシングルマザーで、小学校低学年の男の子が一人いた。昼間は不動産屋に勤め、夜はコンパニオンをしているという。その不動産屋の唯一の有資格者が退職することになり、彼女に白羽の矢が立った。

 宅建業界は、従業員の五人に一人が有資格者でなければならない。彼女は何が何でも一発合格という使命を背負わされた。それは会社からの要請であり、また、彼女自身の生活の安定を手に入れる好機でもあった。試験の数か月前からは、会社の経費で専門学校の講座を受講していた。

「もう、死に物狂い。髪の毛を振り乱してなりふり構わず勉強したんです」

 彼女の頑張りとプレッシャーは、彼女の幼い子にも伝わっていた。試験の数日前、いつになく元気のない息子の額に手を当てると、高熱を発していた。

「ママも頑張ってるから。……もう少しで終わるんだよね、勉強」

 健気な息子の言葉に胸がつぶれたと、宴席のコンパニオンが涙ぐんだ。彼女自身も精神のバランスを崩しかけ、後半は安定剤を処方してもらっていたという。

 私たちは、水を得た魚のごとく、「こんな話、今まで誰にもできなかった」、「誰もわかってくれないよな、この苦労」、そんな言葉を何度も繰り返しながら、初めて語り合える仲間を見出した喜びに手を取り合っていた。私はもはや宴会どころではなく、彼女も半ば仕事を忘れていた。かくして二時間の宴会は、一瞬にして終わった。

 数日後、会社のホームページを通じ、彼女からメールが届いた。それが彼女との交流の始まりだった。私はカレンダーの十月二十五日の欄に「三五六」という数字を記入した。翌年の宅建の試験に向けてのカウントダウンが再始動した。

「息子がサッカーを頑張っています」、「宅建の合格通知、今日届きました」、「社長にお祝いの食事会をしてもらいました」、そんなメールが時折届いた。私は密かに彼女のことを「宅建コンパニオン」と呼ぶようになっていた。

 結局、十一月下旬に発表された宅建の合格点は三十六点だった。私は四点足りなかった。

 年が明けて一月、私は北海道室蘭市への転勤の内示を受けた。妻の枷(かせ)が外れ、十二年半に及ぶ闘病生活から解放された。だが同時に、今度は母と妹の病気が私に覆いかぶさってきた。毎晩、妹に電話し、妹の喘(あえ)ぐ声に居ても立ってもいられず、会社に転勤希望を出していた。嫌も応もない。そうせざるを得なかった。

 まず娘のアパートを探さなければならない。娘は大学三年生だった。

 娘と二人、訪ねた不動産屋の若い女性が、いくつか候補に挙げたアパートを案内してくれた。二十代後半の、テキパキとした女性だった。車中、宅建の話になり、

「試験直前、私、精神的にヤバくなってました。ほとんど寝てませんでしたから、最後は」

 三年前に試験を受けたという。彼女は四か月ほどの試験勉強で合格していた。若さの瞬発力を見せつけられた思いだった。

 娘を引っ越させた後、家財道具のほとんどを処分し、私は新天地へと向かった。平成二十三年(二〇一一)二月二十八日、私は凍てついた夜の室蘭駅に降り立った。想像以上の寒さに、身震いした。ザクザクと、かりんとうを踏み潰(つぶ)して歩くような雪の音。その不思議な感触を靴底に覚えながら、数時間前の池袋の雑踏を、遠い昔の夢の出来事のように感じていた。

 私は大学時代から北海道を離れていたので、三十二年ぶりに戻ったことになる。戻ったといっても、年月の隔たりはあまりにも大きかった。途中、九年間、まったく北海道に踏み入れていない期間もあった。室蘭はふるさとに近い土地だが、懐かしいという感情はなかった。見知らぬ土地で十二年ぶりに親会社の仕事に復帰する、その不安の方がはるかに勝っていた。

 

 (八)

 室蘭で見つけた住まいは、小さなマンションだった。いくつか古いアパートを見てまわった中で、そのマンションにした理由は、道路を隔てた向かいが市立図書館だったことだった。マンションは市役所の裏手にあたり、近くには大きな市立病院があった。何より会社まで歩いて五分、信じがたい地の利である。練馬で暮らした十数年、満員の電車と地下鉄を三本乗り継いでの通勤、その一時間が、同僚から近いと羨ましがられていた。それまでとはまるで違う生活が始まった。

 小金井市、川崎市、杉並区、練馬区と移り住んだ首都圏での二十八年間、一日の通勤に費やしていた時間は、往復で二時間から三時間だった。それが私にとっては貴重な読書の時間でもあった。この長期間にわたる読書の積み重ねが、今の私を作り上げたといっても過言ではない。宅建の勉強を始めてからは、それが勉強時間に変わっていた。室蘭に来て、その通勤時間を失った。通勤がない分、落ち着いて自宅で勉強できるだろうと思ったのだが、そういう単純なものではなかった。

 帰宅すると眠くて仕方がない。十二年間の仕事のブランクは、五十歳を過ぎて取り戻せるものではなかった。決定的に困ったことは、その場その場での仕事上の適切な「判断」ができなくなっていたことである。これは致命的なことだった。最初は、周りも仕方がないことと大目に見てくれていたのだが、それが数か月も経つとそうもいかなくなる。私の睡眠障害はますます威力を増し、日常生活にも支障をきたし始めていた。

 そんな仕事のストレスを、勉強に没頭することで紛らわそうとしていた。土・日はもっぱら図書館で過ごした。疲れたら街中を方々歩き回る。室蘭は噴火湾に小指を差し入れたような形をしている。旧市街地は絵鞆(えとも)半島の中ほどにあった。一方は漁港であり、もう一方は工業港、一番近い海は断崖を降りた小さな入り江になった砂浜だった。私はこの電信浜(アイヌ語でセタワキ)と呼ばれる入り江が気に入っていた。図書館に飽きたときは、この砂浜で海風に吹かれながら日没まで勉強した。海の気配が身近にある、それが何よりの気分転換になった。

 パチンコもしない。マージャンもゴルフも競馬もやらない。春の山菜採りや夏場の魚釣り、秋のキノコ採りにも参加しない、こいつは一体何を楽みに人生を生きているんだ、大方の目はそう訴えていた。私は三週間に一度のペースで札幌の母と妹のもとへ顔を出した。それ以外の週末は、ただひたすら過去問を解き続けていた。

 なかなかこない春を待ち、やっと桜が咲いたのは五月のゴールデンウィークが始まってからだった。だが、七月になっても一向に夏はこなかった。八月に入って二週間ほど暖かい日があった。三十度に達した日が二日あったのだ。三十度を超えるのは珍しいという。それが室蘭の夏だった。

 お盆を過ぎると街路樹のナナカマドの実が赤く染まり、秋の気配が漂い始めた。三十度を超える真夏日が二か月続くのも難儀だが、夏がないのももの足りない。ここは、「猛暑日」や「熱帯夜」という言葉とは無縁の地であった。

 時間はあるのに、効率の悪い勉強を強いられていた。睡眠障害の影響で一日中眠い。集中力が持続しないのだ。試験が近づいてきても、去年の受験前のレベルに到達しないのだ。勉強に対し、身体が拒絶反応を示しつつあった。

 そんな中、しばらくメールのやり取りをしていなかった宅建コンパニオンから、御守が届いた。試験が近づいたら贈るという約束をちゃんと覚えていてくれたのだ。東京の会社の同僚からは、湯島天神の御守りも届いた。

「やはりダメでした。やるだけのことはやったのですが……」

「残念ですが、もはやこれまで」

 そんな言いわけばかり考えていた。神を信じる気にもなれなかった。平成二十三年十月十六日、私は二回目の宅建の試験を札幌で迎えた。

 

 (九)

 試験の数日前から、私は問題集を開けなくなっていた。受験自体をやめようか、という考えも過(よぎ)った。だが、ここまでやってきたのだから試験だけは受けよう、そう強く自分にいい聞かせた。奇跡が起こるかもしれないと考えたのだ。ここに至って「奇跡」という言葉を持ち出さなければならないことが、情けなかった。

 私は、前年の受験時の八〇%ほどの仕上がりで試験に臨んだ。一年間も時間があったのに、同じレベルにすら到達できなかったのだ。にわかに信じ難いことである。

 試験当日、私は完全に開き直っていた。緊張は一切なかった。前の年とは大違いである。試験会場でもテキストを開かなかった。冷めた目で他の受験生を観察していた。ただ、試験だけは全力でやろうと思っていた。一年前の宴席で、宅建コンパニオンから伝授された教えを反芻(はんすう)していた。

「第一問目から解いちゃダメよ。民法は後回し。時間配分を見失うのよ、焦っちゃって。(宅建)業法までダメになっちゃうから」

「引っかけ問題じゃないかって疑心暗鬼になって、必要以上にその裏をかこうとするでしょう。それって過去問のやり過ぎ、弊害なのよ。予想問題をちゃんとやらなきゃダメ。だから独学は難しいの。本当はスクーリングに参加するのが一番なんだけど……。自分を信じること。直感って、結構、大切よ」

 五十問ある宅建の試験は、一問目から十四問目までが民法の権利関係で、二十六問目からの二十問が宅建業法、といった具合に出題分野が決まっていた。なかでも民法が最も難解とされ、民法から問題を解き始めると、後の問題を解くための時間配分が狂うのだ。去年の試験では、それで痛い目に遭っていた。思い起こせば、一時間も経たないうちに後半の問題にとりかかっている受験生を何人か目にし、それも焦りになっていた。彼らは問題を解く順序を知っていたのだ。

 今回、試験開始と同時に、私は十五問目から問題にとりかかった。あらかじめ、三十分ごとに通過すべき目安の問題番号に印をつけた。四択の問題を解いていく中で、確信をもって答えた問題はほんのわずかだった。二択までは絞れたが、どちらが正解か自信が持てなかった。じっくり問題を解きながら、最初のインスピレーションを信じて答えを塗りつぶしていく。書き直さなかった。去年の轍(てつ)は踏むまいと思っていた。

 一二〇分の試験は瞬く間に終わった。昨年ほどの焦りははかったが、相変わらず五十問をギリギリの時間で解いていた。「できた!」という感触はなかった。できたのかできていないのかまったくわからない、それが正直なところだった。どうせダメだろう、という極めてネガティブな諦念(ていねん)が私を支配していた。

 室蘭に帰り着いて、すでに発表されているであろうネットの速報を見る気にもなれず、そのまま風呂に入った。さっぱりした気分でパソコンを立ち上げた。一縷(いちる)の望みはあったが、それは宝くじの当選番号を照合するのに似た気分だった。

 持ち帰った試験問題には解答を記していた。それだけは間違わないよう、試験の最後に見直していた。答え合わせを始めると、意外とマルがつく。「アレ? マルだ」「エッ! これもマル? ラッキーだな」そんなことを思いながら、次第に心拍数が上がり始めていた。

 全ての照合を終え、急いでマルの数を数える。「もしや……」という思いがあった。再度、マルを数え直した。いずれも三十八個。合格だ! まさか……。

 この試験、上位得点者の一五%が合格になるのだが、過去三十年間で三十六点以上の点数で不合格はなかった。

(ウソだろう……)

 奇跡が起こった。

 

 (十)

 こんな安易なことで合格していいのか、それが正直な気持ちだった。「バンザイ!」と叫び、「やったー!」とガッツポーズをとる、そんな構図ではなかった。どう考えても、この試験、「マグレ」なのである。

 その夜、私は宅建コンパニオンに三十八点の報告をした。彼女は、私のメールを待ってくれていた。遅かったのが心配だったようである。

「この喜びは、苦労して勉強した人にしかわからない感動だと思います。本当によかった。おめでとうございます」

 彼女のメールの文字が不意に歪んだ。不覚にも涙が溢(あふ)れた。

 平成二十三年十一月三十日、ネットでの合格発表があった。自分の受験番号を見つけ、素直に嬉しいと思った。合格点は、三十五点だった(今回の試験には無効問題が一問あり、受験者全員に一点が加えられ、公式には三十六点が合格点)。

 北海道の受験者の合格率は一四・七%で、合格者の平均年齢は三六・二歳だった、と地元の新聞が報じていた。私の席のすぐ後ろの女の子は合格していたが、前の受験番号は三十九番も飛んでいた。この試験、建設業界などが団体で受けに来るケースもあり、受験者のレベルによっては、根こそぎ落ちることもあり得ると後日聞いた。合格者の受験番号を丹念に見ていくと、そんな欠落がいくつかあった。

 その日の午後、簡易書留で封書が届いた。その封筒には、「宅地建物取引主任者資格試験合格証書在中」と記されていた。合格通知が入っていた。

 数日後、札幌の母と妹のもとを訪ねた。近所で幼なじみの夫婦が小さなイタリアンレストランをやっている。久しぶりに一杯やろうと、慣れない雪の夜道を店に向かって歩いていると、途中、玄関に白い紙が貼り出されているビルがあった。何気なくその紙に目をやったとたん、私の名前が飛び込んできた。宅建の合格発表だった。そのビルには「北海道宅建協会」という看板が出ていた。貼り紙の上から六番目に「0053‐近藤健」とあった。思いもかけぬところで自分の名前に遭遇し、無性に嬉しくなった。

 

 思えばこの勉強、会社の窓から見えていた東京スカイツリーとの競争だった。今、会社の窓に目をやると、雪をかぶった室蘭岳が正面に横たわっている。その左端には、ロウ石のような真っ白な羊蹄山(ようていざん)も覗いている。新日鉄室蘭工場の煙突の煙が、北から南へ長くたなびき、ときおり横殴りの雪が降ってくる。山から海に向かって叩きつけるような雪である。

 試験勉強を始めた二年の間に、私を取り巻く環境は一変した。一年余分に勉強したが、スカイツリーの開業には何とか間に合った。当初の目的は達成できた。

 東京にいた当時、宅建を熱心に勧めた上司がいた。

「土地の売買があったとき、こっちにも手数料が入ってくるんだよ。宅建持ってると」

 彼が地方支店にいたとき、大きな顔で手数料を取られたという。だからお前がガンバって宅建を取れ。ことあるごとに言われていた。そのとき、彼は取締役だった。

 私は悩んだ末、彼の進言に従い、試験に挑戦する決意をした。勉強の覚悟を決めるのに半年を要した。エッセイの予備選考の辞退、自分の執筆活動の停止、読書の中止。手のかかる妻を抱え、どうやって勉強するか……。この年齢じゃ、ムリだろう。これが決断に半年を要した理由である。

 合格が確定し、その上司に満を持して報告をすると、

「えッ! お前……。まだ勉強してたの?」

 と返ってきた。人生とは概してこんなものである。

 

 私が資格を取得しても、会社が宅建業でなければ手数料は入ってこない。宅建業登録をするには、高額の預託金が必要になる。相応の売買などの契約がない限り、採算が合わない。これが私の二年間の勉強の成果である。

 かくして宅建の資格は、私の個人的な「御守」と化した。守ってくれるかどうかは、はなはだ心もとないが。

 

 (十一)

 この「宅建」には続きがあった。

 宅建の試験に受かっても、二年間の実務経験がなければ免許がもらえない。試験勉強の途中でそれがわかった。

 宅建の試験に合格すると「宅建合格者」となる。実務経験が加わって初めて「宅建資格者」と呼ばれ、知事に対して免許の請求資格を得る。そうして免許を手にした者が「宅建主任者(現在の宅建士)」である。そんな段階があったのだ。

 試験に合格して免許がないのはおかしいだろう。ここまでやったからには免許が欲しい。実務経験のない者は、国土交通大臣の「登録実務講習」を受ければ、実務経験を経たのと同等の資格を取得できる。私は宅建の合格証書を受け取った日に、ネットで登録実務講習の申し込みを行った。この勢いでやっておかなければ、勉強ができないと思ったのだ。

 登録実務講習は、DVDなどの教材で一か月の自宅学習をし、国からの委託を受けた専門学校で二日間、十二時間のスクーリングを受け、その最終日の試験で八十点以上を取ることが要件となっていた。これでもか、といわんばかりの意地悪である。

 教材は十二月二十二日に届いた。スクーリングは翌一月二十一日からの二日間、札幌の専門学校で受けることになった。かくして再び勉強が始まった。

 東京に残していた娘が正月休みで訪ねて来たので、年末年始を札幌で過ごした。母と妹のいるマンションで過ごしたのだが、紅白歌合戦のさなか、こそこそ勉強をしている私の姿を見つけた妹が、

「なにやってるの、大晦日なのに」

 と呆(あき)れている。

「……この調子なら、元旦もやるんダベさ」

 母が輪をかけた。クリスマス・イブとクリスマスは土・日だったこともあり、日がな図書館にいた。何を言われようと、最後の足掻(あが)きである。

 登録実務講習の試験は、「受からせる」ための試験だから、ちゃんと講習に参加していれば大丈夫と書いてあるブログをいくつも見た。だが、歳が歳だけに不安なのである。○×問題は問題集を見る限り引っかけ問題はなかった。心配なのは筆記である。

 娘は帰りの飛行機のチケットが取れなかったと言って、一月二日には東京に帰っていった。卒業試験と自動車学校が娘を待っていた。私もその日から室蘭に戻って、本格的に勉強を開始した。

 一月十日の朝、仕事中の私のもとに娘から電話が入った。か細い声で、お腹が痛いという。ひどくならないうちに、早めに病院へいくよう促しておいた。昼過ぎ、今度はメールが入った。文面を見て仰天した。

「動けるようになるまで様子を見ていたら悪化。貧血がひどくてどうしようもなく、救急車を呼びました。いま、搬送中です」

 私は車の運転中だったが、路肩に車を停めて天を仰いだ。何が起こったのだ、と思った。じたばたしてもどうにもならない。どこの病院に搬送されたのかがわからない以上、動きようがない。娘からの次の報せを待つより仕方がなかった。今まで何度も修羅場を潜り抜けてきた。この程度のことでは動じない、そう自分にいい聞かせていた。

 娘から連絡が入ったのは、夜の八時を回ってからだった。さすがの私も疲労困憊(こんぱい)である。どうなった? どこでどうしている? ネガティブな心配が泡のように湧いていた。やっぱり宅建の勉強には、不吉な何かがある。間違いない、そう考えていた。

 娘は川崎の聖マリアンナ医科大学付属病院に搬送されたのだが、偶然にもその病院から歩いて十五分ほどのところに、別れた妻の母親がいた。娘は祖母を頼った。不幸中の幸いだった。何かあればすぐに駆けつけるということで、私の上京は様子見となった。

 結局、娘の腹痛の確たる原因はわからず、十九日に退院した。私はとうとう病院にはいかずに終わった。

 

 (十二)

 娘が退院した翌二十日の夜、仕事を終えてそのまま、私は札幌へと向かった。飛び乗るようにして特急電車に乗ったので弁当も買えず、結局、夕食はホテルのチェックイン後、夜九時を回ってからだった。外の気温は、氷点下八度と表示されていた。空腹もあったが、札幌ラーメンは真冬がいい、と改めて思った。美味さが腹に染みた。

 今回は妹のマンションには泊まらず、試験会場のすぐ隣のホテルを予約した。遅刻の許されないスクーリングだったので、雪の心配もあり万全を期した。背水の陣である。

 スクーリングは、午前中に九十分の講習が二回、午後から九十分が一回と六十分が二回である。翌日も同じ時間なのだが、最後の六十分が試験だった。

 講習会には私を含め十九人が参加していた。年齢的には私は上から三番目くらいで、三十代の中ごろが中心年齢だった。二十代前半かと思しき女の子もいた。

 二日間のスクーリング中、彼らとの会話はまったくなかったが、同じ試験を乗り越えてきた者たちという親近感があった。試験会場はそれぞれに違うだろうが、宅建に受かった者の顔を見たのは初めてのことで、それが妙に嬉しかった。

 私は娘の入院騒ぎの中で五十二歳になっていた。大学のフル授業のようなスクーリングの日程に、音を上げた。長時間の講義もさることながら、担当講師に参ったのだ。これまで高校、大学と様々な講師を見てきたが、これほど教えることのヘタクソな講師はいなかった。最初、何かの間違いだろうと思った。ささやくような小声、不必要な長い沈黙、意味不明な自己満足の頷(うなづ)き。見るからに賢そうな講師なのだが、自分の世界の中に閉ざされていた。

「テキストの○○ページを開いてください」

 というこの○○ページが聞き取れないのだ。周りの誰もがそのようで、いたずらにテキストをめくる音がした。彼の眼中には受講生がいなかった。私は最初の三分で気が遠くなった。どんな催眠術師も、この講師には叶わないだろうと思った。

 スクーリングの前に、事務員から釘を刺すような事前説明があった。その説明の中に「失格事由」があった。遅刻、携帯電話が鳴ること、また携帯が震えるのもダメ。完全に電源を切れという。居眠りも失格事由にあった。私は千円のユンケルと眠気覚ましのドリンク「喝の一撃」、缶コーヒーの「ルーツ」とガム、思いつくあらゆるものを総動員してスクーリングに臨んだ。

 授業自体は難しいものではなかった。眠気との勝負であることは、周りの受講生を見ていてもわかった。突然、前の受講生の頭がガクンとなる。斜め前も横もみんなガクン、ガクンとなりながら過酷な時間を過ごしていた。そんな受講生を前に、講師はマイペースを崩さなかった。

 試験は三十問の○×問題と、穴埋め問題が三十問。穴埋め問題にはちょっと戸惑ったが、前評判通りに難なくクリアーできた。満点だったと思う。

 かくして私は宅建から解放された。駅に向かう身体が、ふわふわ浮いているように感じられた。室蘭へ戻る特急電車の中で、私はまったくの放心状態だった。とっぷりと暮れた窓外の風景をただ眺めていた。猛烈な疲れとカフェインの過剰摂取による興奮が、綯(な)い交ぜになっていた。

 平成二十四年二月二日、登録実務講習試験の合格通知を受け取った。すでに書類は整えていたので、翌日、北海道の窓口である胆振(いぶり)総合振興局に宅建免許の申請書類一式を提出した。書類の中には本籍地や東京法務局から取り寄せたものもあった。

 「胆振総合振興局室蘭建設管理部建設行政室建設指導課」という窓口を、文字の切れ目を指で押さえながら、やっとの思いで見つけ出した。書類を出し終えたとき、ゴールのテープを切ったような気分になった。すべてが終わったのだ。

 免許の受け取りは、まだしばらく後になるという。

 

 「君はなぜ山に登るのか」と訊かれ、「そこに山があるからだ」と答えたのは、イギリスの登山家ジョージ・マロリーである。私は予備校時代の現代国語の授業で、「この質問に対する答え、答えになっていないようで、実は答えになっている。それはなぜか」という課題を出されたことがある。一週間後に提出というこの課題、五百字以内で記さなければならなかったが、私はとうとう何も書けずに終わっていた。

 あれから三十四年、折に触れてこの課題のことを思い出すことがあった。「答えになっていないようで、実は答えになっている。それはなぜか……」。だが、どうしてもその答えを見つけ出せずにいた。

 宅建ごときで何をこいつは、と言われそうだが、今、それが書けそうな気がしている。

 

 

 追記

 平成二十七年(二〇一五)四月に宅建業法が施行され、「宅地建物取引主任者」が士業に格上げされ、「宅地建物取引士(宅建士)」となった。

 

  2012年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)
 

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