あとの祭り | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 昭和五十八年(一九八三)、私は東京の会社に就職した。面接試験で「あなたはどんな仕事がしたいですか」と訊かれ、活きのいいサンマのように緊張していた私は、

「会社の意向に従って、何でもやらせていただきます」

 と必要以上に元気よく、台本通りに答えていた。そこで止めておけばよかったのだが、面接が終盤に近づいているという気の緩みもあって、

「ただ、経理だけは……できれば避けたいのですが……」

 つい本音を漏らしてしまった。以来二十六年間、経理の仕事に就いている。

 いずれ会社の資産運用など、銀行や証券会社を相手とした財務の仕事にたずさわる可能性もある。経済情勢に明るくならなければと、日経新聞を購読していたのだが、一向に知識が身につかない。もともと経済に対する興味がなく、ただ漫然と新聞を読んでいた。このままでは、マズイ。株式を購入して身をもってリスクを背負えば、嫌でも勉強するだろうと考えた。

 株の入門書を何冊か読みながら、新聞の株式欄を真剣に眺めだした。すると、小幅な下落はあるものの、株価全般が値上がりし続けていることがわかってきた。おりしも、NTT株売り出しの話題が、世間を賑(にぎ)わしていた。昭和六十一年のことである。興味本位で申し込んだ抽選に、私のクジが当たった。十倍の倍率であった。

 ここは勝負と腹を決め、なけなしの貯金をはたき、一一九万円のNTT株を購入した。背広の内ポケットにずっしりと札束の重みを感じながら、「全財産だ、全財産だ。勝負だ、勝負だ」とドキドキする思いで、日本橋兜町の証券会社へ向って自転車を走らせた。十一月の肌寒い日であった。

 翌昭和六十二年の株式公開と同時に、NTT株は、いきなり一六〇万円の初値をつけた。一夜にして四十万円の儲けである。小心者の私は、すぐに株を売ることを考えた。

 証券会社に電話をすると、あなたの株式は名義書き換え中なので、一か月ほど売買はできないとう。そんな仕組みになっているとは知らず、株式購入の際、言われるままに名義の書き換えを申請していた。大変なことになったと思った。

 だが、NTT株はその後もドンドン値上がりし、二か月後には三一八万円に跳ね上がっていた。結局、私は二八〇万円で売り抜けた。経済とは、実に簡単なものだと思ってしまったのである。

 電電公社に続き、専売公社や国鉄が次々と民営化され、「プラザ合意」、「金融緩和」などという言葉が、連日新聞を賑わしていた。土地は必ず値上がりするという「土地神話」が生れ、転売目的の土地売買が急増した。東京二十三区の地価で、アメリカ全土が購入できると囁(ささや)かれていた。「バブル景気」の前奏曲に、誰もが浮き足立っていた。

 投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、ゴッホの「ひまわり」の絵を、五十八億円で落札する会社が出て世間を騒がせていた。「財テク」「地上げ屋」「リゾート地開発」「ウォーターフロント」「トレンディ」……そんな言葉が氾濫(はんらん)し、その中で「NTT株」は、バブルの象徴的な存在となっていた。

 まだパソコンによる取引のない時代、毎日、新聞の株価の動きに一喜一憂しながら、大金持ちの自分を夢想していた。そのころの私は、仕事の都合で、月に一度、建て替えられたばかりの兜町の東京証券取引所の横を通っていた。証券会社の若い「場立ち」が、体育館のような巨大なフロアーの中で、次々にくる投資家からの売買の注文を捌(さば)いていた。大きな声を張り上げ、手でサインを出して株式の売買をしている。そんな姿を、二階席から見学していた。売買が集中すると、ラグビーの試合さながらに場立ちがもみ合う場面があり、ホイッスルによりたびたび取引が中断された。迫力のある光景だった。そのころの東京証券取引所は、世界を代表する金融市場と目されており、欧米諸国のメディアが連日のように取材に訪れていた。

 経済学者や評論家の言葉が、私の夢を後押しする。日本は、世界の金融市場の中心になる。株価は上げ止まらない、誰もが公然と明言していた。

 その年の十月、残業を終えて遅い時間にアパートに帰り、テレビのスイッチを入れて仰天した。ニューヨーク株式市場が大暴落だと騒いでいた。息が止まった。やめておけばいいものを、私は再び、NTT株を買い直していた。損失額は百万円を超えた。「ああ……」と叫んだ声が、むなしく消えた。後にいう「ブラックマンデー」である。識者は、もっともらしい分析を並べ、以前から予測できていたようなことを真顔で説明していた。

 その半年後、株価はまた上昇に転じ、平成元年(一九八九)十二月に最高値をつける。私はこの年、結婚をした。最初に買ったNTT株の儲けが、結婚資金になった。平成三年、際限なく膨らみ続けたバブルは弾け、マネーゲームは終わった。

 私の手元には、売るに売れず、〝塩漬け〟になったノンバンクの株があった。バブルの残滓(ざんし)である。もはや、どうでもよかった。ヤケクソを通り越した諦めの境地である。その株が、平成二十年の「リーマンショック」で、見るも無残に下落した。もはや打つ手なし、心肺停止状態である。

 平成二十一年十一月上旬のこと。夕食後、新聞を眺めていて、小さな記事に目が留まった。そこには、「――会社更生法の適用を申請し、この十二月に上場を廃止……」とあった。バブルの残骸の会社が倒産したのだ。株券が単なる紙切れとなった。

 二十年にわたる私のマネーゲームが終わった。損をしたのか得をしたのか、そんなことを考える気持ちすら失せていた。祭りのあとの空虚感が後に残った。

 会社も私の才覚を見抜いていたか、財務の仕事には就いていない。NTT株で結婚した我が家の方は、かろうじて崩壊の危機だけは回避していた。

「強気相場は、絶望の中で生まれ、懐疑の中で育ち、楽観とともに成熟し、陶酔のうちに消えていく」

 バブル経済の古戦場に吹く一陣の風に乗って、ジョン・テンプルトン(米国投資家)の言葉がむなしく響いていた。

 

 追記

 平成二十二年四月、十二年半にわたる闘病生活をしていた妻が家を出、やむなく離婚した。妻は重篤な精神疾患であった。かくして、私のバルブは跡形もなく消失した。

 

  2009年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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