米良繁実とシベリア抑留 (1)~(5) | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 曾祖父米良四郎次(めら しろうじ)の四男繁実は、明治四十四年(一九一一)三月十三日、北海道浦河郡浦河町大字浦河番外地に生まれている。私の祖母アキの弟にあたる。

 繁実は、昭和八年(一九三三)六月二十九日、父四郎次の死亡にともない二十三歳で米良家十二代目の家督を相続する。

 四郎次が死んだ年、チナ(四十八歳)との九人の子のうち、夭折したスエ、浜崎清蔵家へ養女に出したナツを除いて、ハル(二十九歳)とアキ(二十四歳)はすでに嫁いでおり、繁輔はその前年に十八歳で事故死(造船所に勤めていたが、そこでの怪我がもとで、数日後に死亡。キク談)している。フユ(二十一歳)は翌年に結婚し、キク(十四歳)と周策(十歳)はまだ幼かった。先妻ツルとの間の五人の子には、米良家を継げる者はいなかった。

 繁実は当初浦河町役場に勤めていたが、上司との折り合いが悪く、その後、現在の北方領土四島のひとつ色丹(しこたん)島の役場に勤務している。色丹島は、標高四一三メートルの斜古丹山を中心に、全体が山地・丘陵になっている面積二五五・一二平方キロメートルの島である。昭和二十年八月、ソビエト連邦によって占領され、現在はロシア連邦が占領、実効支配している。

 当時色丹島には千島国色丹郡色丹村が置かれ、千人あまりの住民がいた。村役場があった中心集落は、北東部の斜古丹湾岸で、学校や駅逓(えきてい)、郵便取扱所も設けられていた。島の南北両岸には天然の良港が多く、コンブ、サケなどの漁業が主要産業であった。

 

 

 (一) 繁実の応召

 太平洋戦争の激化に伴い色丹島を出た繁実は、十勝の本別(ほんべつ)町役場に勤務していたが、昭和十八年五月に召集令状を受け取る。繁実は姉アキの嫁ぎ先である様似(さまに)郡様似町で銭湯を経営していた三橋嘉朗(よしろう)の許から出征していった。三十三歳、独身であった。アキの孫である私は、昭和三十五年にこの家で生まれている。

 平成二十年三月、私は北海道保健福祉部福祉局へ繁実の軍歴照会を行っている。その結果、次のような回答を得た。

 

 昭和六年十二月一日       第一補充兵役編入

 昭和十八年五月二十三日 二等兵 臨時召集のため歩兵第二十八聯隊(れんたい)補充隊

                 に応召

 昭和十八年五月二十三日     要塞(ようさい)建築勤務第九中隊に編入

 昭和十八年五月二十五日     樺太(からふと)豊原着

 昭和十九年一月十日   一等兵 

 昭和十九年七月十日   上等兵

 昭和二十一年三月七日  兵 長

 昭和二十一年三月七日  伍 長 ソ連ムリー第一地区ポートワニ病院において栄養失

                 調兼急性肺炎により戦病死

 

 この軍歴を読み解くと、次のようになる。繁実が満二十歳になった昭和六年十二月に徴兵検査を受け合格となり、補充兵として登録される。第一補充兵役とは、現役欠員時の補充兵員である。その後、昭和十八年五月に応召し、陸軍第七師団歩兵第二十八聯隊第九中隊に編入され、樺太の豊原に派兵。昭和十九年一月に一等兵、七月に上等兵へと進級し、昭和二十一年三月に戦病死したため、二階級特進で伍長となっている。

 繁実の浦河町の除籍謄本には「北海道札幌地方世話所長報告」として、「昭和二十一年三月七日午前十時、ソ連ムリー第一地区ポートワニ病院で死亡。昭和二十四年三月十五日送付除籍」とある。

 繁実の所属した第二十八歩兵聯隊は旭川に本部を持ち、昭和十七年八月にガダルカナル島にて玉砕し、聯隊長が自決している。その再編成により、繁実が応召されたものと思われる。

 昭和二十八年八月八日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は対日宣戦布告をし、日本が事実上占領していた中国北東部(満州国)への侵攻を開始する。南樺太や千島列島では、終戦後の九月四日までソ連軍との戦闘が行われていた。ソ連軍の豊原への軍事侵攻は、昭和二十年八月二十四日である。武装解除された日本軍部隊は、集成大隊に編成替えさせられ、ソ連領内の約四十六地区の収容所に移送・抑留されている。

 また樺太南部に位置する豊原市は、明治三十八年から昭和二十年までの四十年間、日本の統治下にあった。豊原市は、現在のサハリン州の州都ユジノサハリンスク市である。

 

 

 (二) 繁実の抑留先

 このシベリア抑留者については、いまだに正確な把握がなされていないが、旧厚生省が実施した帰還者からの聞き取り調査による推計では、五七万五〇〇〇人が抑留され、そのうち死亡者は五万三〇〇〇人に上っている(「厚生労働省作成名簿」)。一説によると百万人の抑留者がいたともいわれ、冬期には氷点下五十度にもなる極寒の地で、最初の冬だけで十一万人の日本人が死んだと推計している民間団体もある。繁実もその犠牲者のひとりであった。

 繁美が死亡したシベリアのムリー地区については、『戦後強制抑留史(三)』に次のような記述がある。

「ムリー河畔コムソモリスク対岸ピアニー(ピーアン)より沿海州東海岸ソフガワニ湾に至る延長約四百五十キロにわたるバム鉄道沿線上に散在する収容所を総括してムリー地区と称した。この地はおおむね山麓に沿う地域であり、鉄道沿線を除いてほとんど密林であって大きな都邑(とゆう)はなく、鉄道開設後の開墾地でいわば未開地である。

 地区は百二十九か所の分所および十四か所の病院から成り更に支部編成をとり三か所の支部に分割されていた。この地区に入所した大隊は満州編成大隊二〇個大隊、千島・樺太編成大隊三五個大隊合計五五個大隊、五万二千三百五十六人(終戦より一九五一年八月まで)であった」とある。

 ここで、抑留死亡者をデータベース化し、ホームページで公開している村山常雄氏の記述から、「収容所」と「支部」、「分所」の違いについて明らかにしておく。村山氏は、自らが抑留体験を持ち、この抑留死亡者を調べ上げ著述化した功績により、平成十八年に第四十回吉川英治文化賞を受賞している。

「基本的に『収容所(ラーゲリ)』は、内務省直轄の州等から独立した地理的エリア(日本人はこれを『地区』とも呼んだ)で、大きいものは数百キロにも及ぶ広大な範囲に、多数の『分所(カローナまたはラグプンクト)』、すなわち『有刺鉄線で囲われた個々の生活単位である収容施設』を包含し管理するが、後者をも俗に収容所とも呼ぶことから、両者はたまたま混同されることがある。

 この両者の中間組織として『支部(アジレーニエ・ラーゲリヤ)』があり、いくつかの分所を管理した。病院での死亡者以外は、この『支部』ごとに記録されている場合が多い」

 村山氏の説明から、私たちが一般的に理解している収容施設は、「収容所」ではなく「分所」であることがわかる。組織構造から見ると、収容所―支部―分所という序列になっており、正式には全て番号で呼ばれていた。

 『戦後強制抑留史(三)』は、このムリー地区での死亡者を二四二三人と記している。さらに、繁実の死亡した昭和二十一年までにムリー地区ポートワニ附近で着工された作業を、同書の「主要建設工事の地域別成果一覧表」に探ると、おおよそ三つの建設工事があった。

 一つはポートワニの海軍倉庫二十二棟の建築および水道鉄管一キロの敷設工事で、昭和二十年十月から開始され、作業人員は千人であった。

 また、ポートワニ―コムソモリスク間の鉄道建設工事がソフガワニで行われ、着工が昭和二十年九月で、作業人員は六百人とある。そのほかに、ソフガワニ―ピアニー間三四〇キロの鉄道建設などがみられるが、ほかにも小規模の作業は無数にあったようである。

 村山常雄氏は、ムリー第一地区の作業所を「サラワッカ駅、トゥムニン駅前、ペレワール駅、イェンナ河、ガラガラ山分所、スートゥイリ河、ドゥブリカン河、プレーヤ河、ヤウリン河、四地区一支部温泉」としている。

 一説によると、このムリー第一地区には三万人の捕虜(昭和二十年九月時点)がいたといわれ、主な労働は、伐採、製材、鉄道の建設、機関車の薪(まき)積み、土木作業などであった。劣悪な環境と過酷な強制労働により、栄養失調による衰弱死や赤痢などによる感染病死が死亡者の大半であった。

 

 

 (三) 繁実の発見

 繁実の弟米良周策は、戦後しばらくして繁実と同じ収容施設にいたという布施秀一(ひでいち)氏を様似(さまに)町冬島に訪ね、施設での繁実の様子を訊いた経緯がある。布施氏は施設内で二、三度繁実を見かけたことがあるだけで、それ以上の情報はなかった。今回、私は虻田郡豊浦町に転居していた布施氏に連絡を試みたが、布施氏は平成十四年(二〇〇二)に亡くなっており、抑留に関する情報は布施氏の家族には伝えられていなかった。

 私は、平成二十年三月に厚生労働省社会援護局に抑留死亡者の問い合わせを行っている。厚生労働省がホームページで公開している抑留死亡者名簿に、繁実らしき人物を偶然に見つけたことが発端であった。

 厚生労働省には、ロシア側から提供を受けた抑留死亡者名簿があり、平成十九年三月よりインターネットで公開している。平成三年にゴルバチョフ大統領が来日した際に提供を受けた「ソ連邦抑留中死亡者名簿(平成三年名簿)」(三万七〇〇〇人所載)と、平成七年に外相会談が行われた際、ロシアのコズィレフ外相から提供を受けた「平成七年提供ソ連邦抑留中死亡者名簿(平成七年名簿)」(二九七九人所載)である。さらに平成十七年にもロシア側から「個人別の資料の原本を撮影したマイクロフィルム(平成十七年個人資料)」(三万八〇〇〇人所載)の提供を受けているが、こちらはいまだ公開には至っていない。いずれの資料も重複記載者があるため、厚生労働省は死亡者登録数を五万五〇〇〇名と発表している。うち身元が判明している者は、三万六一五七名である(二〇一二年三月三十一日現在)。

 私が繁実らしき人物を見つけたのは、平成七年名簿である。名簿には「メイラ・シネミ」とあり、生年「明治四十三年」、階級「兵」、死亡年月日「昭和二十一年二月二十一日」、埋葬場所「第三四七五特別病院」、連番、通番が付与されている。

 ロシア側から提供を受けた名簿は、ロシア語による聞き取りによって作成されているため、氏名の誤記がはなはだしい。厚生労働省側では、平成三年名簿と平成十七年個人資料にも、この「メイラ・シネミ」と同一ではないかと推定している人物がいた。平成三年名簿には、「マイロ・ギエ(ヨ)ネマ」という名があり、生年、階級、死亡年月日ともに同じで、収容所名・埋葬地名欄に「第二収容所・ソフガワニ(名簿にはサブガバーニスキーとあるが、正しくはソフガワニである)地区チシキノ居住区」、地方欄は「ハバロフスク」となっている。地域の隣接とロシア語表記の読み方の類似性が、同一人物と推定した根拠である。

 通常、抑留者が死亡すると、翌々日に埋葬するのが一般的である。厚生労働省の担当者が同時期のこの地域での死亡者を再調査した結果、死亡から埋葬までに十数日の期間があることが判明した。冬期のため地表が凍結していたことが原因とされる。除籍謄本とロシア側資料との死亡日の違いについては、ロシア側の資料に記されている二月二十一日が死亡日で、除籍謄本の三月七日が埋葬日だった可能性がある、との教示を受けた。

 私が初めて厚生労働省に問い合わせを行ったのが平成二十年三月六日で、翌三月七日には繁実に間違いないだろうとの非公式な報告をもらっている。その夜、改めて繁実の除籍謄本を眺めていると、三月七日と記された繁実の死亡日に目が留まった。カレンダーに目を移すと、まさに三月七日である。六十二年前の同月日なのである。あまりにもでき過ぎたことに、偶然とは思えぬものを感じた。

 

 平成二十一年一月二十八日、厚生労働省から抑留死亡者名簿の「メイラ・シネミ」などが、繁実と同一人物である旨を記した正式な通知を受け取った。厚生労働省が繁実であると推定した根拠は、次のとおりである。

「当局(厚生労働省 社会・援護局)では、平成三年以降ロシア政府からソ連抑留中に亡くなられた方々の名簿を受領しており、当局が保管する日本側資料と照合することにより、名簿登録者の身元特定に努めておりますが、近藤様から〈米良繁実の記録ではないか〉と申し出のあった平成七年提供名簿の登録者〈メイラ・シネミ、明治四十三年生、昭和二十一年二月二十一日死亡〉については、生年月日等の決め手となる情報が記載されていないために、これまで身元が判明しておりませんでした。

 現在、身元が判明していない登録者については、平成十七年に提供された個人別の資料を精査中ですが、前記の〈メイラ・シネミ〉に該当する個人資料を精査したところ、名簿と同様に出生地等の決め手となる情報はないものの、氏名・生年・死亡年月日が類似するのと、死亡場所・死因が一致すること、ほかに同姓同名者、または類似する記録の方がおられないことから、〈メイラ・シネミ〉は米良繁実様の記録であると判断するに至りました」

 とあり、さらにロシア側から提供を受けている三点の資料を比較記載している。

 

① 平成三年提供の「ソ連邦抑留中死亡者名簿」の記載内容

〔整理番号 二〇一四―〇〇二三〕

1 埋葬地    ハバロフスク地方第二収容所ソフガワニ地区チシキノ居住区

2 氏 名    マイロ・ギエ(ヨ)ネマ

         資料原文のロシア語表記が二種類に発音可能であるため、( )内に併記

3 生年及び階級 明治四十三年生、兵

4 死亡年月日  昭和二十一年二月二十一日

 

② 平成七年提供の「ソ連邦抑留中死亡者名簿」の記載内容

1 埋葬地    第三四七五特別病院

2 氏 名    メイラ・シネミ

3 生年及び階級 明治四十三年生、兵

4 死亡年月日  昭和二十一年二月二十一日

 

③ 平成十七年提供のソ連邦抑留中死亡者「個人資料」の記載内容

1 氏 名    マイラ・シネミ (メイラ・シネミの記載もあり)

2 生年月日   一九一〇年(明治四十三年)

3 出生地    ――

4 住 所    ――

5 家族の名前  ――

6 職 業    ――

7 階 級    兵

8 所属部隊   ――

9 捕虜となった場所 ――

10捕虜年月日  ――

11死亡年月日  一九四六(昭和二十一)年二月二十一日

12死 因    栄養失調、クループ性両肺炎

13死亡場所   第三四七五病院分院「マスタヴァーヤ」

14埋葬場所   ソフガワニ地区チシキノ居住区第三四七五病院分院の墓地

 

 以上三点がロシア側の資料であるが、私が入手した繁実の除籍謄本と軍歴を合成し、右に倣(なら)って挙げると次のようになる。

 

④ 除籍謄本及び軍歴の記載内容

1 氏 名    米良繁実(メラ・シゲミ)

2 生年及び階級 明治四十四年三月十三日、兵(死亡時上等兵、後二階級特進にて伍長)

3 死亡年月日  昭和二十一年三月七日 午前十時

4 死 因    栄養失調兼急性肺炎による戦病死

5 死亡場場所  ソ連ムリー第一地区 ポートワニ病院(北海道札幌地方世話所長報告)

 

 

 (四) 無念の死

 厚生労働省からは、平成十七年個人資料の米良繁実に関する部分が、ロシア語の原文のまま提供された。全訳はできないが遺族が知りたい箇所を部分訳したとする資料には、繁実の死亡に関する詳細が記されていた。後に私は、総務省の外郭団体である財団法人全国強制抑留者協会を通じて、全訳を入手している。

 その中から、繁実のカルテを抜粋し、記載する。カルテの内容は、繁実が入院してから亡くなるまで、昭和二十一年二月十一日から二十一日までの十一日間の記録である。

 

カルテNo. 292

姓名  メイラ・シネミ

一九一〇年生まれ    (前部、一部が欠けているので、判読可能な範囲)

??入院  135k  (前部、一部が欠けているため判読不可)

入院日?  二月十一日 (前部、一部が欠けているので、判読可能な範囲)

入院時の所見       肺炎、栄養失調

予見           クループ性両肺炎、栄養失調二度

最終所見         栄養失調三度、クループ性両肺炎

結果           一九四六年二月二十一日、死亡

         (前部、一部が欠けているため判読不可)

 

患者本人の愁訴(しゅうそ):咳(せき)

客観的データ:中背

栄養状態:悪く、顔色、青白い

脈拍:正常の律動

肺:右、乾性ラッセル音、雑音。左、拡張、乾性ラッセル音

打診音:右肺、せわしい

心音:きれい

腹:柔らかく、無痛

排便:液便、一日1回、出血なし

 1. つぼ治療

 2. 咳止め薬

                         医師  署名

 

二月十一日

体温 38.0度

容態、重篤(じゅうとく)。

 

二月十二日

体温 37.9度

咳と右胸郭の半分の痛み。食欲不振。拍動:弱い。診断:右肺の第四肋骨から打診音が鈍化。診断:脇下ライン六、七肋骨辺りに捻髪(ねんぱつ)音が聞こえる。舌は、苔に覆われ、便は、液状。

 

二月十三日

体温 36.4度 36.4度

容態、重篤。咳と右胸腔、半分が痛むとの愁訴。脈の拍動、弱い。

診断:右肺、第四肋骨から打診音が鈍化。肩甲骨、下部に水泡性のラ音。舌、湿り気あり。排便なし。

 1.右、つぼ療法

 2.薬 1.0% ― 6回

 3.薬 20% 2㎥  一日三回(薬は、ラテン語)

 

二月十四日

体温 36.0度 39.4度

容態、重篤。咳と胸に痛みありとの愁訴。咳と胸に痛みありとの愁訴。心音、鈍い。

診断:右第四肋骨下部の打診音の鈍化。左、肩甲骨下部の音、せわしい。右、第四肋骨から中程度の水泡性及び気泡性ラ音。左、肩甲骨下部の呼、弱い。

 1.右、つぼ療法。

 2.薬 1.0% ― 6回 四時間おき

 3.薬  20% 2㎥ 一日3回

 

二月十五日

体温 39.4度 38.8度

容態、重篤。せわしい息づかい。睡眠良好。食欲不振。脈の拍動、弱い。

診断:右、第四肋骨下部の打診音の鈍化。

聴診:右肺全体に捻髪性のラ音。脇下ラインの第八、九、十の肋骨部分には中程度の水泡性ラ音が聞こえる。左、肩甲骨下方、弱々しい息づかい。

舌は乾き、白い苔に覆われている。唇は乾き、かさかさ。腹は柔らかい。排便、2回。液便。

 1.薬 1.0 ― 5回 四時間おき

 2.つぼ療法

 3.薬 20% 3㎥  一日3回

 

二月十六日

体温 39.5度 39.4度

患者の容態、悪化。胸が痛み、咳が出るとの愁訴。呼吸困難。唇にチアノーゼ。脈拍、弱く、心音、鈍い。

診断:同域内の打診音、鈍化。

聴診:右肺全体に捻髪様ラ音。左肺、息づかい弱く、脇下ラインの七、八、九肋骨あたり、捻髪様ラ音。舌渇き、苔に覆われている。舌渇き、苔に覆われている。腹、柔らかく、無痛。排便、5回。液便。

 腹に湯たんぽ

 薬 0.5×3回

 

二月十七日

体温 37.6度 37.0度

患者は青白く、衰弱しており、容態は極めて悪い。絶えず、幻覚と昏睡状態に陥る。呼吸困難。唇と手にチアノーゼ。脈拍、弱く、心音、鈍い。排便、液便、8回。

 

二月十八日

体温 36.5度 36.5度

肺の状態同じ。容態、極めて悪い。皮膚、青白い。患者は、急激に衰弱。呼吸困難、せわしい息づかい。唇と手にチアノーゼ。患者は、時々、昏睡状態。脈の拍動、弱い。

診断:右肩甲骨中部から下にかけての打診音の鈍化。左肩甲骨、下部の打診音の鈍化。

聴診音:胸腔、右半分全体に水泡性ラ音と中程度の気泡性ラ音。肩甲骨、左側に水泡性ラ音。           舌、苔に覆われ、乾いている。腹、柔らかく、無痛。(一行、字が重なり、判読不可)排便、5回。液便。

 薬 1.0 一日4回 四時間おき

 つぼ治療

薬20% 3㎥ (脈拍数による)

 薬10% 1㎥ (脈拍数による)

 腹に湯たんぽ

 

二月十九日

体温 36.8度 37.3度

容態、極めて悪い。 意識は、朦朧(もうろう)としている。皮膚、青白く、脈拍、弱い。

診断:右(一行、字が重なり、判読不可)。左、肩甲骨中部から下部にかけて、水泡性および中程度の気泡性ラ音。舌は、乾き、苔に覆われている。腹は、柔らかく、無痛。排便、5回、液便。

 薬 0.5 1×3

 1.つぼ治療

 2.薬 0.5×3回

 3.薬 0.3×3回

 4.薬 20% 3㎥ 一日3回

 5.腹に湯たんぽ

 

二月二十日

体温 36.7度

容態、極めて悪い。患者は、昏睡状態。呼吸困難。唇にチアノーゼ。患者は、急速に衰弱。肋間が、落ち窪み、脈拍、弱い。

診断:両肺に大量の中、小の水泡性、気泡性ラ音。舌は乾き、苔に覆われている。腹柔らかく、無痛。排便、6回、液便。粘液、出血なし。

 

二月二十一日

一九四六年二月二十一日、午前四時死亡。    医師  署名

 

 

※【クループ性肺炎】 クループ(英語croup)とは、声門下での上・下気道の炎症性狭窄(きょうさく)に伴う一連の病態のこと。クループ性肺炎(大葉性肺炎)などの病名がある。

 

※【ラ音】 肺の聴診をするときに聴きとられる正常呼吸音以外の複雑音をラ音と言う。ラッセル音(独語Rasselgerusch)の略。ラッセル音は、その原因となる疾患によって、「ピュー」、「ブンブン」、「ギー」、「バリバリ」などの音質(聞こえ方)がある。ラッセル音には、狭くなっている気管支を空気が通る際に起こる乾性ラッセルと、気管支内部に分泌された液体に発生した気泡が破裂する湿性ラッセルがある。さらに湿性ラッセルは、捻髪(ねんぱつ)音と水泡音に分類される。

 

※【つぼ治療】 棒の先に絡めた綿にアルコールなどを浸して燃やし、それで小さな壷型のビンの中にかざしてビンを真空状態にし、直ちに、それを患部に当てる。すると、ビンが真空状態なため皮膚表面が盛り上がり体内の毒素が吸引され、血行がよくなる。病院でも、家庭でも広く普及している治療。

 

 

 また、繁実死亡時の所持品は次のとおりと記されている。

帽子      1

外套      1

ラシャの?(略しているため意味不明) 1

ラシャのズボン 1

綿入れ ――

セーター    1

シャツ     1

暖かいズボン下 1

靴下      3

短靴

手袋      1

判読不可    1

毛布      1

日本製コート  1

 

 個人資料には、繁実の死因が、

「第Ⅲ度栄養失調症およびクループ性両肺炎の診断を受けて一九四六年二月十一日から第三四七五後送病院マスタヴァーヤ分院に入院していた新たな特別人員メイラ・シネマが、一九四六年二月二十一日午後四時(別の訳文には「午前四時」とある)に心機能低下により死亡した」

 とある。ここにある「特別人員」とは、「旧ソ連において、戦争や革命で疲弊した産業を復興させるために政府によって安価な労働力として〈徴用〉された、囚人・流刑者・戦争捕虜・抑留者などの特殊な人員を表す」

 とある。また、別の部分訳には、

「本日、戦争捕虜マイラ・シェネミ――[生年]一九一〇年、[階級]兵、[民族]日本人、一九四六年二月二十一日に第(空白)収容所第三四七五病院にて死亡――の遺体埋葬が行われた。遺体は、区画番号NO.4、墓碑番号NO.292に埋葬された。墓は第一小病院墓地にある」

 また、埋葬日が一九四六年三月六日と明記されている。

 この資料では、墓の存在にまで触れているが、厚生労働省では墓番号が三桁である事例はほとんど見かけないため、カルテ番号の「292」を誤記したものではないかと推測している。原文では「292」の上二桁「29」の部分に訂正線が引かれていることから、後に三桁目の「2」を書き加えた可能性も考えられなくもないが、詳細は不明としている。

 階級の「兵」については、陸軍では、二等兵、一等兵、上等兵、兵長までが「兵」であり、次の伍長、軍曹、曹長が「下士官」、さらに「准士官」、「将校(士官)」という序列になっている。繁実の場合、死亡後下士官(伍長)になっているので、この「兵」の記述は正しい。

 また、厚生労働省の調査によると、除籍謄本の「ポートワニ病院」と平成七年名簿の「第三四七五特別病院」の違いについては、「第二収容所・ソフガワニ地区チシキノ居住区」の埋葬地は、チシキノにあった「第三四七五特別病院分院」の埋葬地であり、帰還者の証言によると「第三四七五特別病院分院」は、もと「ポートワニ病院」と呼ばれていた。つまり、「第三四七五特別病院」には本院と分院があり、本院がマンガクト地方に、分院がポートワニにあったということである。なお、この埋葬地については、旧厚生省が平成九年に現地調査を実施しているが、埋葬地の確認には至らなかったという報告をもらっている。

 先に挙げた村山常雄氏は、収容所での病院を三つのカテゴリーに分類している。一つは「中央管理の特別病院(スペツゴスピタリ)」、さらに「地方政府や収容所または支部管理の病院(バリニッツァ)」、それと「緊急に開設された小病院」である。

 特別病院は、正式には四桁の数字を冠して呼ばれ、一般民間病院と区別するために特別病院と呼称されている。特別病院は、ひとつの収容所に複数ある場合も多いが、収容所には従属せず、また抑留者の少ないところでは支部や収容所、時には州境をまたぐ広範囲をカバーしていた。当時日本人を収容した特別病院は、おおよそ九十か所あったという。

 また、「地方政府や収容所または支部管理の病院」は、特別病院の間隙(かんげき)を埋める比較的小規模の病院で、特定の収容所や支部管理、またはその附属の病院で、日本人を収容したこの種の病院は約三十二か所あったと推定している。

 「緊急に開設された小病院」は、先に掲げたバリニッツァと同様なものとしているが、ごく一部にラザレートと呼ばれた病院がある。軍用または野戦の診療所・医務室という意味のようだが、厚生労働省の訳では「医院」「小病院」となっている。この種の病院は大変少ないが、多数の死者を数えるところもあるという。

 村山常雄氏は、独自の調査をもとに四万六三〇〇人の抑留死亡者の名前を漢字に置き換えてホームページで公開しているが、その中に「メイラ・サネミ」という名が確認できる。生年月日や収容所名、埋葬地、死亡日が一致しているので、繁実に間違いないものと思われる(平成二十一年十月、私は繁実に関する資料を村山常雄氏に提供したところ、同年十一月に各種資料を精査した結果、「メイラ・サネミ」は米良繁実に間違いなく、「メラ・シゲミ」に訂正したとの連絡を受けた)。

 

 これまでの繁実の情報を整理すると、次のようになる。

 繁実は、昭和十八年(一九四三)五月二十三日、臨時召集のため歩兵第二十八聯隊補充隊に応召し、要塞建築勤務第九中隊に編入される。二日後の二十五日には樺太豊原(現在のサハリン州の州都ユジノサハリンスク市)に到着。

 終戦後の昭和二十年八月二十四日、ソ連軍による豊原への軍事侵攻がある。武装解除された日本軍部隊は、集成大隊に編成替えさせられ、ソ連領内の約四十六地区の収容所に移送・抑留される。

 繁実は第Ⅲ度栄養失調およびクループ性両肺炎で、第三四七五特別病院のムリー第一地区ポートワニにある分院、つまりハバロフスク地方第二収容所ソフガワニ地区チシキノ居住区にあるマスタヴァーヤ分院に、昭和二十一年二月十一日から入院。二月二十一日午後四時(「午前四時」という訳文もある)に心機能の低下により死亡し、マスタヴァーヤ分院附属墓地(区画番号NO.4、墓碑番号NO.292)に埋葬された(墓碑番号は、誤記の可能性が高い)。埋葬日は三月六日である。除籍謄本にある死亡日の三月七日は、一日のずれはあるものの、埋葬日である可能性が高い。

 また、旧厚生省が平成九年に現地調査を行ったが、墓地の発見には至らなかった、ということになる。

 

 戦後、旧厚生省から遺骨の入っていない繁実の骨箱が、様似町で暮らすチナ、周策のもとに届けられた。それは現在、様似町の住吉神社脇にある忠霊塔に納められ、毎年五月十日ころに慰霊祭が行われている。

 繁実は、昭和四十三年八月三十一日、当時の首相佐藤栄作名で勲八等の叙勲を受けている。「総理府賞勲局長岩倉規夫 第一二七八四〇七号」とある。

 以上が、平成二十年三月から翌年二月にかけての調査で判明した内容である。

 

 

 (五) シベリア抑留帰還者の証言

 雑誌『文藝春秋』昭和五十七年臨時増刊号は、シベリア強制収容所体験者四七四名の手記の特集である。シベリア抑留というものがどのようなものであったか、ごく一部ではあるがその手記を抜粋する形で紹介しておく。

 

 樺太や千島で終戦を迎えた日本兵は、日本へ連れて行くというソ連側の申し出を受け、船でシベリアへ運ばれた。そこから有蓋(ゆうがい)貨車でシベリア内陸部へと連行される。中国大陸で武装解除を受けた兵も、ほぼ同じ道筋をたどった。

 

「私は中千島のウルップ島で終戦を迎えた。ソ連兵が島へ上がってきたのは、九月も上旬を過ぎてからだったと思う。十月に入ると千島は冷酷な冬が忍び寄ってくるのが感じられる。厳冬の近づくのに脅えていると、ソ連いわく、日本は戦争に敗けて船は一隻もない、と言ってもここでは無装備では越冬出来ない。凍死を待つばかりの日本兵は気の毒で見るにしのびないから、ソ連が船を貸して東京まで送ってやろうと思うがどうか」

 そう言われた日本兵は、それまでソ連共産党に対する歪(ゆが)んだ偏見を悔い、心から彼らに感謝する。だが、それは日本兵を連行するための言葉巧みな罠(わな)であった。

「大泊の沖を過ぎた頃から日本兵は船倉に密閉された。船は全速力で走った。もう房総半島の沖合かも知れない。東京は間近いと噂していると、急に船のエンジンはスローダウンした。甲板に上ってもいいと許可が出た。景色を見てびっくりした。進行方向の左舷に見たこともない景色が、百メートルもあろうか、黒赤茶けた断崖の上に枝が垂れ下がったエゾ松、トド松の見事な林。東京ではない。シベリアである。騙(だま)されたと気がついた時はもう遅かった」(奈良県天理市 芝太七 七十歳)

 

「幅約五メートル、長さ約十五メートル、鉄格子の小さな硝子窓のついた有蓋貨車。これが私たちの獄舎だ。貨車の中程の両側に、頑丈な引戸の扉がある。その片側の扉は約三十センチほど開かれ、その隙間の下の方に木製の排水管便所が斜めに差しこまれている。もちろん、それから上の隙間は厚い板でしっかりと塞(ふさ)がれている。この獄舎の囚人は七十二人。(略)五メートル幅の場所に人間が何人寝られるか。せいぜい十二、三人だ。それも仰向けでは無理だ。体を横にして、隣と頭と脚を組み違いにし、隣の者の足の裏を嘗(な)めながら、刺身になって寝るわけだ。上下二段で約二十四人。残り十二人は寝る場所がない。だから三分の一は常に、貨車の冷たい壁を背に、じっと立って交代を待つ。寒い。零下三十度のシベリアの真っただ中だ。火の気は全然ない」(宮崎県日南市 持原青東 六十四歳)

 

 貨車を降りてからは、野宿をしながらの死の行軍とソ連兵による略奪が待っていた。

「(ソ連兵は)既に奪った時計を二個も三個も腕に巻いている奴もいる。時計の次は万年筆や安全剃刀、ライター等、手当たり次第に奪う。こうして、一日に二回ないし三回の略奪が日課の如くくり返された。略奪する品物も革製品(図嚢(ずのう)、皮帯、長靴)や外套(がいとう)、上衣など着用しているものにまで及んできて、長靴を奪われた将校は、代わりの靴をみつけるまで裸足で歩くはめとなり、足から血が滲んでいた」(大阪府大阪市 松井喜一郎 七十四歳)

 

 ラーゲリー(収容所)に着いた彼らを待っていたのは、苛酷な労働であった。主な労働は、木材の伐採・運搬、石炭の採掘・積み込み、鉄道建設などといったものである。シベリアの鉄道の枕木一本が、一人の屍(しかばね)であるといわれている。朝暗いうちから、夜空に星が瞬くまで、気力、体力の限界を超えた労働に明け暮れた。

 北極圏内に収容された三重県楠町の森川正純氏の体験した最低気温は、昭和二十五年十二月の氷点下七十四度で、夏でも地下三十センチないし一メートル下は凍土だったという。また、中京大学理事長の梅村清明氏は「私がいたゴーリンあたりでは、十一月から三月半ばまので真冬には、マイナス七〇度まで気温が下がるんです。零下二〇度だと、体がチクチク痛くなる。三〇度から四〇度になると痺(しび)れてくる。ところが、四〇度を以下になれば、もう無感覚です。寒いという感覚も、働かなければという意識もすべてなくなって、何も考えられなくなってしまいます」と述べている。

 「寒い」という言葉を超越した極寒の中で、与えられた食料は黒パン一枚とカーシャという雑穀のお粥(かゆ)である。お粥といっても、穀粒もキャベツや馬鈴薯のかけらもない、ただ白く濁った塩汁であった。

 

「ソ連ではありとあらゆる作業にノルマがついている。我々の仕事は勿論、何メートル道を掘り返すと何パーセントと計算されるのである。標準が一〇〇パーセント、その以下が八〇パーセント、最高が一二六パーセントである。勿論その労働量によって食事が違ってくる。最高の一二六パーセントをあげた者は、最上の食事にありつける。例えば米についていえば、かたく炊いたご飯と六〇〇グラムの黒パンにありつけるのである。最低の八〇パーセントの者は、お粥に三〇〇グラムの黒パンだけであった」(東京都板橋区 円斎与一 七十四歳)

 

「食べるといえば自分の大便も食べた。コウリャンは消化が悪く大便の中にそのまま出てくる。これを布に包んで河で洗い、コウリャンだけ取り出し、缶詰の空缶に入れて火で炊いて食べた」(大阪府富田林市 竹山竹次郎 年齢の記載なし――引用者)

 

 極寒での酷烈を極めた労働と、あまりにも粗末な食事は、極度の栄養失調をもたらした。加えて、ノミ、シラミ、南京虫などが彼らを悩ませることになる。

「朝八時、交代要員がきてやっと作業から開放される。収容所に帰り朝食を摂ると、体を動かす力もなく、そのまま横になる。部屋が寒いので外套も帽子も付けたまま崩れるように寝てしまう。脱ぐのはカチカチに凍った靴だけである。次の作業呼集は二十二時、それまでは食事以外起きることなく、大方の者は死んだように横になっている。何人か元気な者は起き、増え続ける虱(しらみ)を退治する。シャツを脱いで窓際に寄り、薄明かりをたよりに透かして見ると、米粒ほどの柔らかい奴が無数に這(は)い回っている。一匹一匹つぶしていても捕りきれるものではない。寒さを我慢し三十分ほど屋外にさらしておくと、虱は雪片のように白く凍って動かなくなる。そのシャツをパタパタと打ち振ると大きな虱はポロポロと落ちるが、卵や縫目に付いた奴はなかなかとれない。寒さには克てないので、そのまま着ていると、二、三日で大きくなり、防寒外套の襟元まで這い出してくる始末だ。虱は全員に湧いていた」(福岡県久留米市 堤善行 六十歳)

 

 このシラミを媒介とする伝染病が、発疹チフスである。四十度前後の高熱とともに、激しい下痢に襲われる。

「シベリア栄養失調には二通りの型がみられた。尻の肉がそげ落ちると、そのため肛門が外に飛び出し、歩行困難に陥り足元が定まらず、背中を小指で押せばがくんと前につんのめるようになるもの。もう一つは全身が土左衛門のようにぶよぶよにふくれ上り、防寒帽でうら成りかぼちゃを包んだようにどす黒い顔をしているもの。そして、両者に共通しているのは、頭髪が抜け歯ぐきが真黒になることだった。餓鬼道に陥ちた亡者のごとく口に入るものは何でも口に入れたがった」(大阪市 長岡喜春 五十二歳)

 

「作業に行く途中、落ちている馬糞を拾い上げ、消化されていない麦の粒を拾い出しうまそうに食べている者がいた。(略)重度の栄養失調から、歩きながら大小便を垂れ流している兵士もいた。肛門や尿道などの括約筋(かつやくきん)がその機能を失ったのだ。自分でも意識せず下痢便を垂れている。その近くで唇に締りがなく涎(よだれ)を流して見ていた兵が、突然蹲(かが)んで、その下痢便の中にある草の根のような物を、己れの口の中に入れた。なんという悲惨さ、『生きて餓鬼道に陥る』。まさにこの世に生き地獄が出現したのである。シベリアにおいて多くの日本人が奴隷以下の取扱いを受け、生きながら地獄に落とされたのである」(新潟県新潟市 井上三次郎 六十六歳)

 

「死亡者の遺体は、ソ連歩哨(ほしょう)の詰所がある棟続きに大きな床のない建物があって、この中に死体を裸にして放り込んでいたのである。死体はすでに『カチカチ』に凍っているから投込むと死体に死体が当り『カラン』と音がする。強く当ると凍っているので、手や足はポキリと簡単に折れた。目は窪み腹の皮は背に張りつき、頬骨は高く目立って全く骸骨の山だった」(新潟市 井上三次郎 六十六歳)

 

「死ぬと可哀想だ。まず衣類を全部ぬがせて真裸にする。死人の衣服を戦友が貰(もら)って着るからである。墓穴は非常に小さい。縦五十センチ横六十センチ深さ四十センチの墓穴を掘るのに何と驚くなかれ大の大人が四人掛りで一日必死に掘ってやっと堀り上げるのである。シベリアの冬期間の土は花崗岩(かこうがん)のように硬い。力一杯つるはしを打ち入れても大豆の頭ぐらいしか破片が出ずにカンと音をたて、手がしびれてしまうのである。一日十人死ぬと四十人の墓堀り要員が出る。硬直した死人の両足を無理にまげて墓地に入れても、膝のあたりが墓穴上面より出る場合がほとんどである。でも仕方ない、飛び散った土は雪の中に消え、冷たい雪を膝の上まで盛り一巻の終りだ」(埼玉県騎西町 塚越源一 六十一歳)

 

 体力のない三十代、四十代の兵が次々と斃(たお)れ、かろうじて生き残ったのは、十代、二十代の若い兵であったといわれている。生き残った彼らに対し、ソ連政府は民主教育と称し、共産主義革命の同調者を仕立て上げるための洗脳教育が行われた。それはまた、情報活動の協力者を確保するという意味合いも兼ねていた。やがて洗脳された兵士によって日本人同士の中での吊るし上げが行われるようになる。この狂気の吊るし上げにより、精神的に追い詰められ命を落として行った兵隊が数多くいた。

 飢えと寒さ、重労働と狂気の民主教育という極限状況の中で、彼らは南下して行く渡り鳥を眺めながら望郷の思いを抱き、ダモイ(帰国)を夢見ながら虫けらのように息絶えていったのである。

 

 平成三年に、ソ連の元首としてゴルバチョフ大統領が初めて来日し、「捕虜収容所に収容されていた者に関する日本政府とソ連邦政府との間の協定」が日ソ間で締結された。このときゴルバチョフ大統領は、ソ連の元首として初めてシベリア抑留の事実を公式に認めたのである。戦後四十六年目のことであった。

 平成五年、エリツィン大統領と細川護煕(もりひろ)首相の間で「東京宣言」が採択された。エリツィン大統領は、シベリア抑留を「ソ連全体主義の犯罪」と自ら断罪し、外交史上異例ともいえる謝罪表明を行っている。だがそれ以降シベリア抑留問題は、両国間の政治の駆け引きの間に埋もれ、際立った進展のないまま現在に至っている。

 毎年、夏になるとヒロシマ・ナガサキの日がやってくる。それに先立って、東京大空襲、沖縄上陸戦と死者を悼む行事が新聞やテレビを賑(にぎ)わす。だが、シベリア抑留死亡者は、領土問題という国家間の政争の陰に隠され、いまだ凍土の下に置き去りにされたままになっているのである。

 

 米良繁実、享年三十六歳。法名、至誠院実誉勇道居士。菩提寺は父四郎次と同じ、北海道様似郡様似町の等澍院(とうじゅいん)(帰嚮山(ききょうざん)厚沢寺)。独身であった。

 令和元年(二〇一九)七月、米良家は様似共同墓地の米良家の墓を墓じまいし、札幌の聖徳山太子寺の納骨堂に収骨。以降、菩提寺を太子寺としている。

 

 付記

 本文は、近藤健・佐藤誠著『肥後藩参百石 米良家』(平成二十五年六月一日発行 花乱社)の歴史編・第八章「太平洋戦争から現在へ ㈠ 十二代米良繁実」に相当する。

 

 

〈参考文献〉

・『戦後強制抑留史(三)』(平成十七年 戦後強制抑留史編纂委員会編)

・『読者の手記 シベリア強制収容所』「文藝春秋」臨時増刊号(昭和五十七年 ㈱文藝春秋)

・「シベリア抑留中死亡者名簿」村山常雄ホームページ

・平成三年提供の「ソ連邦抑留中死亡者名簿」(平成三年名簿 厚生労働省)

・平成七年提供の「ソ連邦抑留中死亡者名簿」(平成七年名簿 厚生労働省)

・平成十七年提供のソ連邦抑留中死亡者「個人資料」(平成十七年個人資料 厚生労働省)

・「ソ連邦抑留中死亡者資料に関するお知らせ」(平成二十一年 厚生労働省)

・「軍歴(米良繁実)」(北海道保健福祉部福祉局福祉援護課)

・「米良四郎次除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)

・「米良繁実除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)

・「米良周策家過去帳」(米良周策家所蔵)

 

 ホームページからの引用は、平成二十一年十一月に制作者である村山常雄氏の承諾を得ております。

 

  2009年6月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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