初めて東京で通勤電車に乗ったのは、大学受験のときであった。北海道から出てきて、目白の親戚の家に泊めてもらっていた。目白から山手線で新宿に出て、小田急線で生田(いくた)へ向かった。初めて東京に出てきた者が、朝の通勤時間帯に新宿駅でＪＲから小田急に乗り換えるのは、大きな試練である。
ありとあらゆる通路から人が出てきて合流し、またそれぞれの方向に進んで行く。それは歩くというより、怒涛(どとう)のような人の流れであった。世の中にこれほど人間がいるのかと驚くばかりで、ただただ圧倒された。乗換駅を示す看板を見過ごさないように歩く。ただ、周囲の歩調に合わせて歩いていると、その流れの速さに看板を見失い、別の方向に流されてしまう。まるで濁流(だくりゅう)に飲まれた流木である。
前日の昼間、受験会場までの同じ道のりを下見していた。だが、昼間と朝のラッシュ時では、駅もコンコースも様相が一変していた。下見は、まったく意味をなさなかった。なんとか小田急線のホームにたどり着いたのだが、電光掲示板を見ると、各駅停車、通勤準急、通勤快速、急行などいろんな種類の電車が並んでいる。前日に確認していた準急や快速とは、停車駅が違っていた。料金はみな同じであることは、事前に教えられていた。
東京に暮らし始めて考えてみると、新宿からは下りであるので、それほどの混雑はないはずなのだが、その日は猛烈なラッシュだった。電車に乗り込んだとたん、後ろから押されて反対側のドアに体当たりしていた。車内の乗客は駅を過ぎるたびに増していき、降りるべき駅に着いたときには、私は車両の中ほどに立っていた。まったく身動きが取れないのだ。
「すいません。おります。おりまーす」
降りられなくなる恐怖に慄(おのの)いていた。もし降りられなくても、次の駅で反対の電車に乗れば難なく戻ってこられるのだが、当時の私にはそんなことは考えられない。やっとの思いでホームに出たのだが、バッグが乗客に挟まれて車内にあった。ドアが閉まる恐怖にバッグのヒモを力の限り引っ張り、やっとの思いで抱え込んだときには、もう試験などどうでもよくなっていた。
（ボクは……、こんなところでは暮らせない）
そんな思いに打ちひしがれていた。それが専修大学法学部の受験であった。
数日後、日本大法学部の受験票を握り締めた私は、水道橋の駅にいた。通勤のサラリーマンも多くいたのだが、受験生の数が圧倒していた。私は少しホッとしながら、受験生の流れに乗ってゾロゾロと歩いていた。
たどり着いた大学の建物の前で、係員に受験票を差し出すと、
「君、ここは明治だよ。日大は向こうだ」
田舎者ゆえ、大学同士がそんな至近距離にあるとは思ってもいなかった。黙って人の流れについていけば大丈夫だと安心していたのだ。試験開始の十分ほど前であった。そこから流れに逆らって走りに走って、数分の遅刻で日大の試験会場に入ったのだが、私はもうすっかり疲れ果てていた。
目白の親戚は、私の伯母の弟の家だった。伯母の子、すなわち私の従兄も同じ受験生で、一緒に滞在していた。その親戚と私は初対面だったが、とても親切に私たちの面倒をみてくれた。
目白駅からその家までの経路が複雑だった。駅まで歩いて十分ほどの距離なのだが、都会の住宅街など歩いたことがなかった私には、山や川などといった目標物のない住宅だけの密集地は、不気味で恐ろしいものだった。道を一本間違えても、風景の違いに気づかない。よくテレビで何十万羽の水鳥が、迷わずに自分の巣に戻ってくる光景を目にする。都会の住宅街もそれと同じなのだなと思った。
親戚の家には数日間滞在したのだが、朝は人の歩く方向にいけば駅にたどり着けた。だが、帰りはそうもいかない。何度か電話して、迎えにきてもらった。こんなところには、とてもじゃないが住めないと思った。結局、私は一浪して、翌年、京都の大学に進学した。
東京に暮らして二十六年になる。今住んでいる練馬の住宅街は、目白より複雑である。渋谷、新宿、池袋、上野、東京、品川……、どんな主要駅も難なく利用している。朝のラッシュも電車と地下鉄を三本乗り継ぎ、一時間かけて会社へ行くが、立ちながら眠ることもできるし、乗り降りのコツも身体が覚えている。時々、降りるタイミングを逃し、次の駅まで乗り越していく不慣れな人を目にする。降車駅が近づいているのに、なんでそんな奥に入っているんだよと思いながら、かつての自分の姿に重ねている。
だが、都会生活を難なくこなせるようになって幸せかと問われると、宙を仰いでしまう。この生活と引き換えに失ったものが大きいような、そんな気がしてならないのだ。
2009年2月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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