祖母の家系 | こんけんどうのエッセイ

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 祖母(母方)の家系を調査し、一年がかりで家系図を作成した。

 熊本藩士の流れをくむ大叔父のことをエッセイにし、ホームページに掲載したことがきっかけであった。エッセイを読んだ赤穂義士研究家の佐藤誠氏が興味をもってくれ、以来佐藤氏と親交を深めている。

 佐藤氏の力強い後ろ盾を得た私は、大叔父が保管する古文書をもとに家系図を作り始めた。もっとも文書の翻刻(ほんこく)は佐藤氏にお願いし、私は曾祖父母以降現代までの調査を行った。

 

 大叔父の家系は、熊本藩主細川忠利の代に召し出された初祖(当家史料では初祖の次が初代となっている)が、寛永七年(一六三〇)に死去するところから始まる。現在(二〇〇七年時点)まで十三代(実質十四代)を数える。最大で三百石、途中知行の返上もあったが、百五十石で幕末を迎える。下級藩士の家系が四百年にわたって途切れることなく現在に伝えられるのは、稀有(けう)なことらしい。

 初代の時、たびたび知行を加増され、三百石を拝領する。

 二代目は、藩主綱利の参勤交代のお供で上京してほどなく、元禄赤穂事件(大石内蔵助以下四十七士による吉良邸討入事件)に遭遇する。翌元禄十六年(一七〇三)二月の義士切腹に際し、熊本藩下屋敷(東京の高輪)にお預けになっていた堀部弥兵衛の介錯を命ぜられる。大変な名誉である。だが、家系がよかったのはここまでであった。

 三代目は養子であったが、このときに三十日間の閉門を命ぜられる。謹慎理由はわからない。四代目が許された知行は二百石であった。さらに五代目のとき、身内からの申し出により知行がそっくり返上されている。理由は五代目の「不本心」としか記されていない。十六歳で家督を相続した五代目の二十二歳の出来事である。

 五代目の大失態とは何だろう。お家取り潰しの沙汰を前に自ら家禄を返上し、成り行きを見守ったと考えられる。四百年の間に、いくつかの困難に遭遇するが、この事件は、その中でも最大級の危機であった。この五代目もまた養子であった。

 この事件直後、隠居していた四代目にお上から堪忍分(かんにんぶん)(お心付け)として、五人扶持(ぶち)が与えられる。だが、四代目の心労は甚だしかったようで、一か月後に死亡している。四十六歳で隠居し、五十三歳での病死である。その後、当の五代目も三十四歳という若さで死亡している。

 そんななか、六代目がにわかに奮起した。六代目は四代目の弟の子で、四代目の娘と婚姻関係を結んでいる。従姉弟同士の結婚となる。この六代目の尽力により、わずか五人扶持だった禄高が加増され、三十九年をかけ一五〇石にまで回復する。この禄高が幕末まで続く。六代目は、当家の中興の祖となる。

 七代目以降、武術に関する記述が目に付く。犬追物、剣術、射術、槍術、居合、小具足、兵法など、誰からいつ目録を相伝したという記述が事細かに記されている。ある一定の武術を習得しなければ「家督相続まかりならぬ」という藩庁からのお達しがあったためである。

 八代目のときに幕末の動乱を迎える。八代目は家督を譲るべき子供が幼かったためか、弟に九代目を相続させている。

 九代目のとき、明治三年(一八七〇)の藩政改革を受け、禄高が一五〇石から一気に二十八石七斗に減俸される。廃藩置県の前年のことである。先代の長男が長じたのを機に、九代目は家督を八代目の子に譲り渡す。

 家督を受けた十代目は、そのわずか一か月後、明治九年の神風連の乱(熊本で起こった不平士族の反乱)に参加し、自刃する。武士の命である刀の携行を禁じた、廃刀令が発せられた七か月後のことであった。隠居した叔父である九代目も、その九か月後の西南戦争で西郷軍に合流し、戦死している。

 十代目の自刃により、その弟が明治十年に遺跡を引き継ぐ。弱冠十二歳であった。この十一代目が私の曾祖父である。

 明治二十二年(一八八九)、十一代目は屯田兵として北海道に渡る。屯田兵への志願は、逆賊として虐(しいた)げられていた遺族が、士族としての矜持(きょうじ)を保ちながら生きるギリギリの妥協であった。新政府にとっては、厄介者の旧幕勢力を合法的に県外に放逐できる、またとない手段だった。

 この十一代目は夭折者も含め、六男・八女、十四人の子供をなした。六人目以降は妾(めかけ)との子で、八人目の子が私の祖母である。本妻の子に家系を繋(つな)ぐ者がおらず、本妻の死後、妾とその子らを入籍させている。以降、妾の子が家系を継いでいく。

 十二代目は、太平洋戦争で樺太からシベリアに抑留され、死亡している。十二代目の弟も、海軍航空隊に志願する。時代の要請に応えたのだ。

 当初、弟は通信隊に配属されるが、戦局の悪化に伴い特攻隊に編成される。だが、出撃前に終戦を迎えた。これが現在(二〇〇七年時点)八十四歳になる十三代目現当主、私の大叔父(祖母の弟)である。この大叔父、十一代目曾祖父五十九歳の第十四子に当たる。十二代目の兄がシベリア抑留死したのを知るのは、終戦後しばらくたってからのことである。

 後世に家系をつないだ十三代目には二人の息子がおり、長男には男女二人の子がいたが、離婚。子供たちは一時母親のもとで暮らしていたが、現在は父親の籍に入り、生活を共にしている。平成元年早生まれの十三代目の孫は、今年、札幌の高校を卒業した。将来の十五代目である。

 こうして家系を俯瞰(ふかん)してみると、時々に劇的なドラマがある。四百年という長きにわたり家系を繋(つな)げたことは、驚嘆すべきことかもしれない。いくつもの危機的困難を、その時々の努力と奇跡ともいえる幸運に助けられ、今日に至っている。

 古文書を読みながら感じることがある。女性が全く登場しないことだ。それぞれの世代を支え、繋いできたのは、女性たちである。その姿は、よほど想像を逞(たくま)しくしなければ、浮かび上がってこない。

 幾多の戦乱を経、古い文書が現在に伝わるということも、それ相応の先人の努力の賜物である。今、その先人が残した文書を読める幸せを享受している。そして、想像を逞(たくま)しくして、記されることのなかった思いを、その行間から感じ取ろうと耳を澄ましている。

 

 追記

 平成二十八年(二〇一六)、将来の十五代目に男子が生まれた(後の十六代目)。これにより、祖母の家系は四〇〇年を超え、五〇〇年にわたって続くことになる。一方、令和元年十月、十三代目は、歴代最高齢の満九十五歳で死去する。

 これまで私は、祖母(母方)の家系を長年にわたり調べ、詳(つまび)らかにしてきた。それは、ご先祖様からのご指である。このバトンを次世代に繋ぐ、それが私に課せられた使命だと思っている。

 

  2007年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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