米良亀雄と神風連 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

  (一)

 ペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の巡洋艦が、浦賀沖に来航したのは嘉永六年(一八五三)のことである。

 四隻合計一〇〇門の大砲から撃ち出される礼砲や合図の空砲に、江戸市中は上を下への大混乱に陥った。世にいう「黒船来航」である。この事件から明治維新、つまり大政奉還、王政復古(慶応三年(一八六七))までの十四年間を「幕末」と呼ぶ。

 教科書では、江戸幕府瓦解の過程がいくつかのキーワードで進行していく。日米和親条約(嘉永七年、大政奉還・王政復古の大号令、版籍奉還(明治二年(一八六九))、廃藩置県(明治四年)……。その間、吉田松陰、坂本竜馬、勝海舟、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)などといった面々が、時代の申し子のように登場し、激動の中を駈け抜けていく。

 文明開化を標榜した明治新政府は、欧米視察団を派遣し、また多くの外国人を雇い入れ、ハード、ソフト両面から近代文明を取り入れようと躍起になった。時代の趨勢(すうせい)が怒涛(どとう)のように洋化傾向に向かう一方、旧勢力となってしまった各地の士族が猛反発を起こす。

 慶応四年の鳥羽・伏見の戦いから翌明治二年の函館戦争までのいわゆる戊辰戦争を経、明治七年二月に佐賀の乱(佐賀)が勃発する。さらに明治九年十月二十四日の神風連(しんぷうれん)の乱(熊本)が起爆剤となり、三日後の二十七日には秋月の乱(福岡)、翌二十八日には萩の乱(山口)と飛び火していく。そして明治十年二月十五日、最大級の反乱となる西南の役(鹿児島)が勃発する。不平士族による〝保守反動的暴動〟である。

 これらの反乱は、やがて近代武装された新政府軍により一掃され、挙国一致の中央集権国家が始動する。江戸城が無血開城されたとはいえ、時代の大きな転換には、四半世紀の歳月と幾多の流血が不可避であった。

 日本史の授業では、この幕末期の動乱に差しかかるあたりは、もう教科書の後半であり、最終受験体制に入っている時期でもある。この日本史上最も濃密な時期はあっさりと通り過ぎ、五・一五事件、二・二六事件、大陸でのいくつかの事変を経、太平洋戦争へと一気になだれ込んでいく。勉強の密度も粗雑で慌(あわだだ)しかった印象が強い。

 当時の私は、この不平士族の反乱に、苛立(いらだ)ちにも似た思いを抱いていた。時代は変わった。今さら抵抗したって仕方ないじゃないか。ペリーじゃなくても遅かれ早かれ同じような状況が生まれていたはずである。彼らに対する微かな同情の念を抱きつつも、近づく受験に怯(おび)え、うろたえていた。彼らが新政府軍によって次々に鎮圧されていく状況を、胸のすく思いで俯瞰(ふかん)していた。早く日本が近代化しないものか、と。

 北海道生の片田舎で生まれ育った私にとって、教科書の日本史は、別次元の遠い世界の出来事であった。日本史に北海道が登場するのは、幕末の千島樺太探検や五稜郭戦争、屯田兵制度と明治政府が招聘(しょうへい)したお雇い外国人のことで終わる。まさかこの不平士族の反乱に自分の祖先がかかわっていよとは、考えてもいなかった。

 昨年(二〇〇六年)、縁あって東京の赤穂義士研究家の佐藤誠氏と熊本市在住の史家眞藤國雄氏の知遇を得た。かねてから自分の出自に興味を抱いていた私は、母方の系譜の作成に取りかかった。

 私の祖母(母方)の家系が、肥後熊本藩細川家にかかわりがあった。元禄十六年(一七〇三)二月、赤穂浪士事件で一党がお預けの大名屋敷で切腹する際、細川家下屋敷で堀部弥兵衛金丸(あきざね)の介錯を行ったのが、二代米良(めら)市右衛門(三〇〇石)である。市右衛門は、私の遠い祖先にあたる。

 私の祖母の弟、大叔父米良周策の自宅に保管されていた古文書を借り受け、その翻刻と同時に、系譜の作成をしてくれたのが前述の佐藤氏である。これによって初めて米良家に系譜がもたらされた。だがこの系譜は、米良家に保存されていた「米良家先祖附写(せんぞづけうつし)」(細川家が家臣に提出させた由緒書)と「米良家法名抜書(ほうみょうぬきがき)」(過去帳の写し)によって作成されたため、初代米良吉兵衛の寛永七年(一六三〇)の没年から、明治十年に戦死とある九代左七郎(一五〇石)までのものであった。

 左七郎から曾祖父四郎次(しろうじ)(周策の父)までの系譜が途切れており、四郎次の親兄弟や子についての消息は、まったくもって不明であった。現在、祖母の弟妹で存命なのは、この周策(大正十三年(一九二四))と姉のキク(大正九年)の二人だけである。

 佐藤氏の助言もあり米良家に除籍謄本の存在を確認したところ、三通の除籍謄本が周策家に保管されていることが判明した。キクが、かねてから気にかけていた自分の出自を調べるべく、昭和四十九年(一九七四)に除籍謄本を取得し、周策に渡していたものであった。

 この除籍謄本は、曾祖父四郎次を戸主とする北海道浦河町での除籍謄本と、四郎次から家督を相続した四男繁実(太平洋戦争後、抑留先のシベリアで死亡)のもの、最後が六男周策の三通であった。その後、私は四郎次の妾(めかけ)で後に後妻となる佐山チナの除籍謄本を入手する。

 これらの除籍謄本により、四郎次が熊本から来たこと、四郎次には少なくとも六男八女、十四人の子がいたことが判明した。私の祖母も含め、後半の九名は妾(本妻死亡後、昭和三年に入籍)との間の子であった。周策たちが自分の兄弟姉妹を把握していなかった事情がこのへんにある。

 米良四郎次は、明治二十二年七月、熊本県飽田(あきた)郡島崎(しまさき)村二二二番地から、札幌郡琴似(ことに)村大字篠路(しのろ)村字兵村六五番地に入植している(転籍届は九月二十四日)。活路を北海道に求め、二十四歳で熊本から屯田兵としてやってきたのだ。さらに明治四十五年四月十七日、浦河郡浦河町大字浦河村番外地に戸籍を移している。

 この除籍謄本で、本妻との間に一男二女がいたことがわかった。さらに、妾との最初の男子繁実が四男となっていることから、除籍謄本には名前の見当たらない二名の男子がいたことがわかる。そこで、札幌市と熊本市に四郎次の除籍謄本の請求を行ったが、除籍謄本の法定保存年数である八十年の経過に伴い、いずれも処分されていた。

 だが、この調査により、四郎次以下の系譜が判明し、全国に散らばる子孫に系譜作成の旨の手紙を記し、曾祖父四郎次以下現在に至るまでの系譜が完成したのである。だが、本妻の長男は、四郎次存命中に死亡しており、残る二人の男子を捜し求め、熊本の史家眞藤國雄氏が持っていた北海道在住の米良姓七名にその消息を尋ねたが、回答があったものの中には該当者はいなかった。手紙の半数は、転居先不明で戻ってきた。

 米良家伝来の文書、刀剣武具等の品々が米良周策家に伝えられていたこと、四男繁実が昭和八年(一九三三)に戸主となっていることなどから、この時点で次男、三男はすでに死亡しているものと推定される。五男繁輔は昭和七年に十七歳で死亡しており、家督は昭和二十一年、繁実から六男の周策に継がれている。

 さらに四郎次の除籍謄本によると、前戸主が米良亀雄とあり、四郎次が「亡兄米良亀雄弟」となっている。

 この米良亀雄の存在が明らかになったことで、「米良家法名抜書」にあった明治九年戦死とある大雄院守節義光居士が十代米良亀雄と断定できた。さらに佐藤氏の推測を裏付ける史料が、平成十九年(二〇〇七)一月に熊本の史家眞藤氏によってもたらされた。

 史料とは、明治七年作成の旧熊本藩の「有禄士族基本帳」で、熊本県立図書館所蔵の文書である。これは「改正禄高等調 禄高帳一号六百五十五」文書で、九代米良左七郎が白川県(熊本県の前身)権令安岡良亮宛に差し出したものである。そこには左七郎が明治九年八月に隠居し、家督が亀雄に相続されたことが記されていた。さらに官吏による次のような加筆があった。

「一、(明治)九年十月二十六日(米良亀雄)自刃(じじん)。弟米良四郎次、明治十年十一月十九日遺跡(ゆいせき)相続」

 この一文により、米良家十三代、四〇〇年におよぶ系譜が、完全な一本の太い線で結ばれたのである。

 

  (二)

 ここで錯綜(さくそう)する米良家の系譜を、いったん整理しておこう。

 八代米良勘助(のち四助)実明の弟が、市右衛門(のち左七郎)である。実明の子に亀雄、四郎次がいる。その四郎次の子が私の祖母を含めたキク、周策たちである。末子の周策は、慶応二年生まれの四郎次が、五十九歳のときの子である。本来ならば、この間にもう一世代あってしかるべきだが、二十も歳の離れた妾の九番目の子であるがゆえ、不自然に長い年月となっている。

 また、家督相続の代数が錯綜する原因は、当時の家督相続制度と明治初年という時代の混乱に起因する。

 八代実明は、明治三年に死亡している。本来なら家督を子の亀雄に相続すべきところだが、亀雄が幼かったこともあり、弟左七郎を養子に迎え家督を相続(九代)させている。当時の家督相続は、親から子へ相続させなければならなかった。

 やがて亀雄が長じたので、今度は左七郎が甥の亀雄を養子とし、家督を相続(十代)させた。つまり亀雄の視点に立つと、父実明の家督を叔父左七郎が相続し、後に自分が受け継いだ形になる。その後、弟四郎次(十一代)へとバトンが渡されていく。

 昭和八年に四郎次死亡後、その家督は四男繁実(十二代)に受け継がれた。昭和二十一年(一九四六)繁実死亡により、弟の周策が相続(十三代)し、現在に至っている。(令和元年(二〇一九)周策満九十五歳で死去。長男優樹が相続(十四代))

 私は赤穂義士研究家の佐藤誠氏と知り合ってから、何度か家系に米良亀雄という人物がいないかと訊かれていた。周策もキクも亀雄の存在を知らなかった。二人とも八十歳を過ぎ、私の問い合わせまで除籍謄本の存在すら忘れていた。覚えていたとしても、文字のかすれた除籍謄本に目を通すことは不可能であった。除籍謄本は青焼きによるもので、不鮮明な上に毛筆であったため、佐藤氏の助言がなければ判読すら難しいものであった。

 佐藤氏は、「米良家法名抜書」にあった大雄院守節義光居士が、米良亀雄ではないかと早い時点で推測していた。「法名抜書」には、

「大雄院守節義光居士 明治九子十月廿(二十)五日 戦死 勘助長男」

 とある。神風連の乱は、明治九年十月二十四日に勃発し、一日で鎮圧されている。佐藤氏はこの大雄院の戦死の日付と、この反乱に参加していた米良亀雄が同一人物に違いないと考えていたのである。米良という特異な名字が、それを確信に近づけていたが、その史料的な裏づけがなかったことと、九州には米良姓が多く存在していたことで、慎重になっていた。

 亀雄の存在が四郎次の除籍謄本によって確認され、さらに「有禄士族基本帳」によって左七郎と亀雄、四郎次のつながりが史料の上から確認できたのである。

 史料的裏づけが明らかになった日、私は佐藤氏から一通のメールを受け取っている。それは荒木精之(せいし)氏の『誠忠神風連』からの引用文であった。その中に「米良亀雄、神風連の乱にて自刃」という文言があった。「米良家法名抜書」に戦死とあったのは、割腹自殺ということであった。私にとって切腹とは、時代劇の中での出来事であり、自刃という言葉に強い衝撃を受けたのであった。

 私の視座から家系構成を眺めれば、祖母の妹弟であるキク、周策は私の大叔母、大叔父にあたり、彼らの父四郎次は曾祖父ということになる。つまり米良亀雄は、曾祖父の兄という位置になる。私はこの亀雄が自刃に至るまでの経緯を、探ってみたいと思い始めるようになっていた。

 そんな矢先、佐藤氏から紹介された荒木精之著『神風連実記』および、熊本の眞藤氏が自身のブログで紹介していた渡辺京二著『神風連とその時代』に、わずかながらではあるが、神風連の乱における米良亀雄の消息があった。その記述をもとに、今年(二〇〇七年)八十八歳になるキクと八十四歳の周策に、二十一歳で死んだ彼らの伯父の姿を伝えようという気持ちになったのである。また同時に、父親の四郎次が、熊本から北海道に渡らなければならなかった時代背景を、詳らかにしたいと思ったのである。

 

 まず、神風連の乱とはいかなるものか。

 教科書に倣って表記すれば、明治九年十月二十四日に熊本市で勃発した新政府に対する士族の反乱、ということになる。だが、この神風連の乱は、この時期相次いで勃発した他の反乱とは性質を異にするものであった。

 決定的な相違は、

「彼らは人間の智慧(ちえ)才覚判断を避け、〈うけひ(宇気比)〉という神慮(しんりょ)によって兵を挙げた。それが必敗であり、必死であり、そのために身家を破り、暴徒逆賊(ぎゃくぞく)となることを知りながら、信仰に殉(じゅん)じ、主義に殉じ、国の危機に殉じたのであった」

 荒木精之氏は、自著『神風連実記』の中で述べている。「神風連はわが国史上、数の少ない一つの異彩である」と。彼らは神に祈り神を動かすことで救国を試みようとしたのである。

 うけひとは、「神と誠心を尽くして誓約する行為であり、その誓約をよしとすれば神は適切な手段を提示して、その手段にしたがう限り誓約者に奇跡的な成果を恵む」(『神風連とその時代』)ものであり、上代から秘儀として伝承さてきた神意を仰ぐ一手段であった。

「わが国は泰平がつづいて軍備はお粗末、その上兵器も向こうと比較にならない。だから戦えば負けることは必定である。しかしながら上下心を一致して百敗にも挫(くじ)けず、防禦の術をつくすならば、決して国土を占領されるようなことはあるものじゃない」(『神風連実記』)

 というのが一党の理論であった。なぜ、彼らは犬死と知りつつも蜂起しなければなかったのか。そこには敬神党特有の神州古来の国風を崇(あが)める思想があった。その国風を犯す許しがたい出来(しゅったい)のために、彼らは立ち上がったのである。

 彼らが暴挙に至る原因に踏み入る前に、明治初年の熊本における敬神党の位置づけを明らかにしておかなければならない。

 尊王倒幕のもとに生死をともにした肥後勤王党は、明治五年に進歩派と保守派に二分していた。進歩派は、王政復古の大号令をみた以上、さらに進んで新政府とともに国運の発展に寄与していこうとする一派である。それに対し、倒幕の目的は達成したが、新政府による王政が間違った方向に進んでおり、与(くみ)できない。神明の力をもって現界の挽回をはかろうというのが保守派である。前者を勤王党といい、後者を敬神党といった。

 渡辺京二氏は『神風連とその時代』なかで、敬神党の行動原理を、

「国家統治原理としての古代神道を純粋な形で復元し、その復活をもって幕末の危機を克服しようとしたところに思想の中核を見る」

 と説明している。両派の争点の相違は、攘夷(じょうい)か否かという一点であった。

「かの外国人はわが国の国禁を破り、大胆にもわが要塞(ようさい)に乗入れ、脅迫の談判をしかけてきた。先方が先に策略をもって我が方を苦しめてきた。向うが無礼の振る舞いをしたのにこっちのみ礼儀など言うべきではない。無二無三に打払ってしまうがよい」(『神風連実記』)

 というのが敬神党の攘夷論である。

 

 そもそも敬神党とは、桜園(おうえん)林藤次が開いた私塾原道館(げんどうかん)にその源を発する。明治三年、桜園亡き後、その意志は門下三強といわれた河上彦斎(げんさい)、太田黒伴雄、加屋霽堅(はるかた)らによって継承された。中でも太田黒伴雄は、桜園の思想信条をそのまま引き継いだ者とされている。

 明治六年、初代県令(現在の県知事)として安岡良亮が熊本に赴任してくる。彼は、反政府的な開化的尊攘派の熊本士族にほとほと手を焼いていた。彼らは厚意で用意された民政の要職をことごとく拒否し、政府の施策の一切に反発した。苦肉の策として、彼らを県下の大小の神社の神職に挙用(きょよう)する。さすがの彼らも、その提案を拒否する理由はなかった。明治七年夏、それぞれに所定の任用試験を受け、その任についた。

 神官登用試験の彼らの答案には一様に「いずれも皇威国権の振張(しんちょう)を述べ、人心反正(はんせい)、皇道興隆(こうりゅう)せば、文永弘安の役の時のごとく、神風吹きおこり、敵を掃攘(そうじょう)することはまちがいない」と書かれていた。試験官は驚き「彼らは真の神風連だ」といったという。敬神党一党が神風連と呼ばれる由来である。ここでいう「連」とは、連盟や連合といったいわば仲間といった意味だが、熊本藩の場合は、郷党(きょうとう)といった意味合いが強い。

 郷党とは、士族の若衆組に起源をもつ地域集団であり、伝統的家臣団がほとんどこの郷党に属しており、一般的士族の別称であった。

 

「彼らは素行厳正、儀容また整粛(せいしゅく)、朝に斎戒(さいかい)して衣冠を正し神祇(じんぎ)に奉仕し、夕べに精進して容儀を整えて祈禱(きとう)をこらすのであった。その凝集する一念は君国の弥栄(いやさか)であり、国家の興隆であった。このため神社の尊厳にわかに高まり、敬神の風は地方につたわり、熊本の精神風土を形成する大きな影響をのこしたのであった」(『神風連実記』)

 現在では想像も及ばない敬神の風儀があった当時としても、彼らの思想行動はひときわ特異なものであった。一党の中には資産を傾け、家計を窮迫(きゅうはく)させる者もいた。彼らを敬神党と称するところである。

 

  (三)

 倒幕の後、悲願の王政復古が実現した。だが祭政一致とは名ばかりで、文明開化の名のもとに、天下の大勢は洋風欧雨の方向に進んでいた。

 明治四年八月、「自今散髪脱刀勝手たるべし」という布達が発せられる。元来、保守化傾向の強かった熊本にも、丸腰、断髪、洋服、洋帽姿の開花風に倣(なら)う者が出てきていた。

 そんな中で敬神党は、我関せずと腰に両刀を佩(はい)し、頭に総髪を結び、一切の洋風を排し、洋物を退け、旧来の国風を固守していた。

 彼らにまつわる珍談の多くは、このころ生まれたものである。あるものは、電線の下を通るとき扇子を広げたり、紙幣を箸(はし)で挟んでやりとりしたりした。また、袂(たもと)には常に塩を携帯し、洋装の者に出会うと汚らわしいとまいて歩いていた。これら開化期の有名な話は、彼ら敬神党による奇行である。

 一党を憤激させた政府の処置の第一は、いうまでもなく明治維新による開国である。彼らにとって攘夷(じょうい)とは、先帝の意志であった。第二は、明治四年に重鎮(じゅうちん)河上彦斎が反政府の志士を匿(かくま)ったとして斬殺に処せられたことである。刑の軽重に対する憤懣(ふんまん)もさることながら、わが国古来の武士に対しての通則である割腹自裁の式をもとらせず、草賊(そうぞく)の輩(やから)になす斬殺(ざんさつ)の法をもって処刑したことに憤激したのである。三番目が、明治五年の神祇省(しんぎしょう)の廃止である。期待した祭政一致が、擬態に過ぎなかったということである。四番目は、明治八年に政府がロシアとの間に交わした千島樺太交換条約である。新政府は精神ばかりではなく、国土すら売ろうとするのか、という憤りである。そして決起に直接つながる最大の大憤激は、明治九年三月の廃刀令の布達であった。

 廃刀令とは「今後は、大礼服着用の者、軍人、警吏等正規の制服を用いたものの外は、一切刀剣を帯ぶることはならぬ」というものである。廃刀令の布告は、神州古来の風儀を固守してきた彼らに決定的なとどめを刺した。

 

 彼らは相次いで首領太田黒のもとに集まった。「もはや我慢がなりませぬ。死なせて下さい」と詰め寄った。「刀は武士たるものの魂であり、帯刀は神州古来の美俗であると信ずる者、刀を奪われては生き甲斐もない、これは堪ゆるべからざる圧迫だ」(『神風連実記』)

 一般の武士にとっても廃刀令は、「武士の魂」を奪うものであり、特権の剥奪であった。敬神党にとっての帯刀とは、士族の特権を超えた「神州日本」の象徴であり、武器を超えた神器であった。つまり廃刀令は、彼らがよりどころとする理念の根幹を真っ向から否定するものであった。

「国を思う士族たちが刀を帯して何が悪いか。彼ら士族はすでに俸禄(ほうろく)を離れ、一文の支給も受けていない。そんな中で君国(くんこく)を憂(うれ)い、身家(しんか)を忘れて忠誠を尽くそうとしているのである。そのどこがいけないのか」(『神風連実記』)

 彼らの憤激は、もはや臨界点に達していた。

 帯刀が禁じられた後、彼らは刀を手に持って歩いたり、袋刀として携えた。帯刀さえしなければいい、という苦肉の策である。廃刀令布達の狙いは、反政府士族勢力の弱体化にあったことはいうまでもない。

 廃刀令の三か月後の明治九年六月、追い打ちをかけるように断髪令が発せられた。「なぜ我々が西洋文化に屈しなければならないのか。刀を奪われ坊主にされ、捕虜も同然ではないか」彼らは歯噛(はが)みし、こぶしを握り、髪を逆立てて憤激に打ち震えた。

 これまで敬神党は、決起の願をたて二度のうけひを行っている。最初は明治七年の佐賀の乱のときである。だが、いずれも神慮にかなわなかった。二度目のうけひで不可と出たとき、一党は落胆のあまり言葉を失った。さらなる神明の冥助(めいじょ)を祈願すべく励むのである。

 なかでも太田黒は、「七日間、あるいは十日間の辟穀(へきこく)、断食をなし、また、あるいは五十日間、百日間の火の物断ちを厳修(げんしゅう)する」など、激烈なものであった。「唯(ただ)天地神明の応護(おうご)によって始めて尊攘の大功を全うすることができる」という信念に貫かれた行動である。

 二度目のうけひで不可と出た一党は、やむに止まれぬ思いながら、さらなる結束を神前に誓った。そのひとつは、「わが国神聖固有の道を奉じ、被髪脱刀等の醜態(しゅうたい)決して致すまじく、たとえ朝命ありとも死を以って諫争(かんそう)し、臣子(しんし)の節操を全うすべき事」というものであった。廃刀令は、この誓いの一年後に出たものである。ついに行き着くべきところまで行ってしまった、という感があった。

 

 敬神党の構成要員は、士族社会の中でも最下級の軽輩士族がその中核をなしていた。百石取りのいわゆる「お侍」は、彼らの中では上士と認識されていた。つまり彼らは、封建社会崩壊の衝撃を最も強く蒙(こうむ)る立場にいた。彼らの憤懣(ふんまん)の背景にはそんな事情があった。

 隠忍(いんにん)に隠忍を重ねていた太田黒が重大決意を行う。

「このままでは国体の廃も同然である。そしてわれは泉下(せんか)の同志に申しわけもたたなくなる。諸君のかねての希望のごとく、この際天下のために大義のため旗をあげようと思う。さすれば四方忠勇の士、必ずや響のものに応ずるごとく応ずるにちがいない。たとえわが党利あらずことごとく死するもまた本懐ではないか」(『神風連実記』)

 深夜、太田黒が潔斎(けっさい)して神前にすすみ、精誠(せいせい)を込めて三度(みたび)のうけひが行われた。一同が固唾(かたづ)を呑む中、神慮(しんりょ)はとうとう可と出たのである。さらにその後のうけひで、決行日が十月二十四日(陰暦九月八日)、月の入り(午後十一時)を合図にとなった。

 彼らは天皇のために立ちながら、天皇の軍隊と戦わねばならなかった。戦いに破れれば逆賊(ぎゃくぞく)となる。逆賊の謗(そし)りを覚悟で西洋文明の侵入、つまり異神の侵攻から守らねばならなかったのが、上代から連綿(れんめん)と受け継がれてきた民族神なのである。その一念が、彼らを突き動かした。

 神明(しんめい)を得た彼らは、神軍となった。「成敗(せいはい)は問うところではない。ただ勇往奮迅(ゆうおうふんじん)するのみ」であった。太田黒伴雄を首領、加屋霽堅を副首領と仰いだ一党一七〇名は、ついに死に場所を見つけたのである。

 太田黒のもとで開かれた最後の軍略会議で、長老上野堅五が長兵(ちょうへい)の利を説いて火器を用いるよう主張したが、「洋風の兵器は我が神軍には不要」と一蹴(いっしゅう)された。もっとも焼き討ちに使う焼玉などは用意されたが、彼らは古来からの刀槍(とうそう)だけで起(た)ち向かったのである。近代装備された軍隊に素手で挑んだも同然で、この一件だけとってもこの反乱が無計画で無謀であったことがわかる。だが、それは現代の我々の感覚によるもので拙速(せっそく)を尊(たっと)び巧遅(こうち)を喜ばないのが武士たるもので、話が決するや否や速やかに同志を糾合(きゅうごう)し、敵地を探ることが肝要であったのである。勢いに乗じ一気呵成(かせい)に敵営を乗っ取れば、盟約を交わしていた地方の同志たちが次々に立ち上がると考えたのである。

 だが、彼らの行動は時代の残滓(ざんし)が武士の一分(いちぶん)をたて、武士として死ぬために、最後にたどりついた究極の選択であった。

 決起の夜、浮き立つような足取りで総集所に集まった彼らを、渡辺京二氏は『神風連の乱とその時代』の中で次のように記している。

「……時流にそむき、しかも時流こそが勝利者かも知れぬという絶望感に襲われながら生きるものの、やっと時代に否認を完了して死ぬことができるというよろこびが踊りださせた一歩でもあったにちがいない。時代にそむいて生き続けるのには超人的な意志が必要とされるゆえに、彼らはほっと肩の荷をおろしたのである」

 

  (四)

 敬神党が討ち入ろうとしたのは熊本鎮台(ちんだい)である。鎮台というのは明治四年、地方にうごめく反政府勢力を威圧し、武力で鎮圧する目的で作られたものである。当時九州には、熊本城を本営とする熊本鎮台が置かれていた。

 

 太田黒伴雄を首領、加屋霽堅(はるかた)を副首領と仰いだ一党一七〇名は、三つの部隊に分かれ襲撃を行った。

 第一隊は三十名で、さらに五部隊に分かれ、要人襲撃を担当した。第二隊は、約七十名で本隊として鎮台の砲兵営(砲兵第六大隊、約三二〇名)の襲撃、第三隊も約七十名の人員で、鎮台の歩兵営(歩兵第十三聯隊(れんたい)、約一九〇〇名)の襲撃に当たった。さらに鎮台には、工兵、輜重(しちょう)兵(軍隊の荷物弾薬等をほろ車で運ぶ兵)の二小隊があったので、総勢では二三〇〇名であったことになる。一方の敬神党は、加勢もあったが二百名足らずの勢力であった。武器は、焼玉と竹筒に仕込んだ灯油、刀槍のみで、鉄砲を所持する者はいなかった。「洋風の兵器は我が神軍には不要」と容(い)れなかったのである。

 彼らの軍装は、甲冑(かっちゅう)をよろう者、腹巻をまとう者、烏帽子(えぼし)直垂(ひたれ)姿や紋付袴(もんつきはかま)とまちまちであった。一番多かったのが常服短袴(たんこ)の扮装(ふんそう)で、草履(ぞうり)脚絆(きゃはん)、腰に双刀を手挟(たばさ)み、白布の鉢巻に白木綿の襷(たすき)を綾取(あやど)っていた。また、乱戦中「天」と呼べば「地」と応ずる合言葉をつくったり、白布の小片に「勝」の字を付した肩章を全員につけさせた。

 この日彼らは、小集所に落ち合い、夜更けを待って総集所である本陣となった愛敬(あいきょう)正元宅に集合することになっていた。ほとんどの者が家族に決起のことを明かしていない。神社の例祭の準備がある、または祭典に出かける、断食祈願に出かけるから三、四日は戻らないとそれぞれに口実をつけて家を出ている。老親を残す者、幼子を残す者、新妻を残す者、様々であった。今生の別れをさりげなく告げ、密かに辞世の歌を残して出た者も数多くいた。

 なかには、その挙動の不審を質(ただ)され、親の反対を押し切って出た者もいた。別れの杯を交わし、負けたら速やかに割腹し、逃げ隠れして父母妻子に恥をかかすなと励まされた者もいた。

 弦月(げんげつ)が金峰山(きんぼうざん)に傾くころ、愛敬宅の本陣を出た一党は、藤崎八幡宮の社前に集結した。一党の前に立った太田黒の背には、先師桜園ゆずりの軍神八幡宮の御霊代(みたましろ)が背に捧持(ほうじ)されていた。秋の夜風にはためく幾本もの旗の中、首領太田黒伴雄の太い声が響き渡った。満を持した一党の静寂を破るのは、檄文(げきぶん)を読み上げる副首領加屋霽堅の大音声(だいおんじょう)である。明治九年十月二十四日午後十一時、陣貝(じんがい)を合図に武者震(むしゃぶる)いする一党が怒涛(どとう)のごとく動き出したのである。

 

 第一隊、第二隊の攻撃状況の詳細は省くが、第一隊はほぼ当初の目的を達成し、加勢のために鎮台に向った。余談だが、一党が襲った五人の要人のひとり、陸軍少将種田政明はそのとき愛妾(あいしょう)小勝と一緒に眠っていたところを斬殺された。後日、小勝が東京の親許に「ダンナハイケナイ、ワタシハテキズ」と打電した話は有名で、まだ電報が一般市民に浸透していなかった当時、簡潔に要点を述べる伝文の模範と賞された。以降、電報が普及するきっかけをつくった。

 砲兵営を攻撃した第二隊も寝入りばなを襲ったため、何が起こったのかわからぬまま、兵たちは大混乱を起こし、次々に斬られまたは遁走(とんそう)し、討伐(とうばつ)は完全に成功した。勢いを得た彼らは、隣の歩兵営を襲撃する第三隊の加勢へ向う。米良亀雄は、第三隊に属していた。

 

 荒木精之の『神風連実記』から第三隊の襲撃の様子を引用する。

 

「二の丸は歩兵第十三聯隊一千九百有余名のこもる歩兵営の所在地であった。これを襲ったのは参謀長富永守国(もりくに)を中心に、福岡応彦(まさひこ)、吉海(よしがい)良作、深水栄季の諸参謀、荒木同(ひとし)、愛敬(あいきょう)正元らの各長老をはじめとする七十余名の第三隊であった。本陣に近い西門に攻め寄せたが堅く門扉が閉ざされている。沼沢春彦が柵にとりつきよじのぼって「一番乗り」と叫び、飛びこんで一哨兵(しょうへい)を斬殺(ざんさつ)した。荒木同が用意した一筋の縄梯子(なわばしご)を柵(さく)に投げかけると、我も我もと先を争ってとりすがったため、縄は途中で切れてしまった。荒木の下男久七が梯子代わりにおのが肩をたたいて「これを踏台にして行きなされ」とさし出したので、次々に久七の肩を踏み台にして飛びこえ、柵門を開いたので一同ドッと駆けこみ、兵舎のあちこちに用意の焼玉を投げこんだ。

 たちまち火は燃え上がる。兵舎は寝耳に水で上を下への大騒ぎ、兵舎の出口には神風連がかまえて片っ端から斬りまくる。何がおこったか、敵は何者か、全然見当もつかぬので、一同恐怖にうちふるえ、ただもう身をまもるに汲々(きゅうきゅう)たるありさまであった」

 

「聯隊(れんたい)側では必死になって防戦しようと指揮督励(とくれい)するが、片っ端から一党に斬(き)りこまれ、着剣して防ごうとしても舎内の混乱の収拾がつかず、弾丸はその前兵士の騒動があって以来、一切持たせていないのでどうにもならぬ。そのうち聯隊本部、第一、第二、第三中隊舎はすでに燃え上がり、営庭を白昼のように照らしだした。その中を、白鉢巻をし、あるいは甲冑をつけ、あるいは烏帽子直垂をきこみ、刀槍をもった者たちの活躍にまかせ、軍は射(う)つに一弾もなく、斬るに刀なく、二千の鎮台の兵も戦うに処置なしのあわれな状態であった」

 

 第三隊は、一九〇〇名の敵に対し、わずか七十名で斬り込んだのであった。奇襲攻撃とはいえ多勢に無勢、この優勢な状況は長くは続かなかった。弾薬庫を開いた聯隊側の反撃が始まったのである。富永守国率いる第三隊は、たちまち形勢不利となり、いたずらに敵弾の餌食(えじき)となっていく。兵営の炎が白昼のように堂内を照らし、それが逆に鎮台側を有利にしたのである。

 長老の斎藤求三郎が陣没し、副首領の加屋霽堅が戦死する。幹部が次々と倒れていく中、加勢に加わった総帥(そうすい)太田黒伴雄はひるまず先頭に立って奮迅するので、それに励まされた同志たちも喊声(かんせい)をあげて斬り込んでいく。そんな太田黒もついに重症を負う。敵弾が胸を貫いたのである。

 民家に担ぎ込まれた太田黒は、指示を仰ぎに来る同志に指令を発していたが、もはやこれまでと観念し、しきりに介錯を促す。最初は躊躇していた同志たちも、やむなしと判断し、大野昇雄(ひでお)の介錯により絶命する。太田黒伴雄、四十三歳であった。

 

  (五)

 被弾した者たちが次々と近隣の民家に運ばれていく。そんな中、参謀の富永守国、広岡斎(いつき)らが、上野堅五を戸板に乗せ、本陣の愛敬正元宅に引き上げると、

 

「弟の富永喜雄(つぐお)をはじめ、管八広(すが やひろ)、今村栄太郎、松尾葦辺(あしべ)、大石虎猛(とらたけ)、米良亀雄、猿渡常太郎、渡辺只次郎、友田栄記らがそこここに倒れ、呻吟(しんぎん)しており、それらの間を立川運(はこぶ)や上田倉八、青木又太郎らが介抱してまわっていた。

 富永守国は、弟の喜雄が深手をうけて苦痛をうったえているのを知ると、じっとしておれず、もっと安静な場所におきたいと喜雄の名を呼びながら自ら背負い、そこからほど近い鹿島甕雄(みかお)の家にうつし、また、吉岡の手にしていた太田黒の御軍神をとって鹿島家に安置した。この時、管八広や大野昇雄らも自らの刀にすがってついてきた。大野はつい今しがた上野堅五を愛敬宅に運んでくる途中、敵の乱射する流弾に傷ついたのである。(略)

 そのうち夜は段々あけてくるが富永からの連絡もなく(学校党から反乱に呼応するという情報があり、加勢が来ないのでその確認に赴いていた)、その他どこからも何のたよりもない。吉岡はどうしたことかと焦燥(しょうそう)し、せめて上野翁をもっと静かなところに移そうと、ふと岩間小十郎の家を思い出し、立川運や上田倉八らの手をかりてそこに移してやった。この時両眼を失った大石虎猛や米良亀雄、友田栄記らも刀にすがったり、杖をついたりしてあとを追ってきた。すでに瀕死の重傷の松尾葦辺、猿渡常太郎、渡辺只次郎、今村栄太郎らも暗中必死で身を動かし、岩間の家に近い藪中(やぶなか)に入っていった。

 岩間邸はもと千五百石どりの大身で、広い邸宅であった。勤王の志あつく、神風連とも昵懇(じっこん)なものが幾人となくいた。その夜変動を知った岩間は家族の者は他に避難させ、みずからは北岡御邸(おやしき)に入って、家には下男が一人いるきりであった。吉岡軍四郎はこの家にくると、しばらくお宅を拝借したいといって上野翁を座敷に入れ、大石や米良、友田らも上がりこみ、吉岡軍四郎、立川運、上田倉八らはしばらくここにあって数時間にわたる歴史的動乱の中にしばし骨身(ほねみ)をやすめるのであった」

 

「その日の朝、藤崎宮周辺、愛敬宅、岩間宅、鹿島宅などを探索したのは坂本少尉の率いる一隊であった。愛敬宅からは、種田少将、高島参謀長と、太田黒の首が発見された。この探索に同行した巡査の報告によると、

 

 廿五日朝岩間小十郎方に賊徒潜伏致し居(お)り候段(そうろうだん)通知により兵員同行、表と裏門より踏みこみ候。凶徒(きょうと)二名は裏手の竹藪(たけやぶ)に逃げこみ候に付発砲いたす際自刃致し居、家は厳重に戸締りをいたし居るにつき、石で毀(う)ち、間内に踏みこみ見候ところ座敷へ一名、玄関へ四名自殺或は割腹いたし居るに付、屋敷内精々吟味候ところ藪の中に五名あり、中今村栄太郎自殺いたし、未だ存命なるを以て捕縛、鎮兵より連れ越し候事。 三等巡査 河野通誠

 

 検死によって、座敷にあったのが一党の長老上野堅五(六十六)、玄関にあったのが友田栄記(二十)、立川運(二十九)、米良亀雄(二十一)、上田倉八(二十四)であった。また藪中が渡辺只次郎(二十)、大石虎猛(二十三)、今村栄太郎(二十九)で、ほか二名は坂本少尉らがここにきた時、すでに絶命していたと見られる松尾葦辺(二十九)と猿渡常太郎(二十二)であった。このうち立川や上田はともに営中で力戦し、敗れると退いて負傷者を扶(たす)けて傷の手当などに手をつくしてやり、そして探索の手がせまったのを見て一同ともに自刃したものである。

 また同邸近くの鹿島甕雄家には深傷をうけて呻吟していた富永喜雄(二十八)、脚を撃たれていた大野昇雄(二十八)、管八広(二十九)、それらを看護していた青木又太郎(二十一)らがいたが、これらも坂本少尉の一隊の踏みこむのを知り、このままにして敵手(てきしゅ)にかかる前に相共に死のうと潔く自刃して果てた」

 

 以上は、荒木精之氏の『神風連実記』からの引用であるが、徳富猪一郎(蘇峰(そほう))著『近世日本国民史』(九四巻)にも同様の内容があり、亀雄の自刃の様子が若干詳しく記されている。

 

「坂本少尉は、尚ほ屋内深く入りこんで捜索したが、吉岡軍四郎が隠し置きたる総帥太田黒伴雄の首級(しゅきゅう)が出て来(きた)り、尋(つい)で種田少将・高島参謀長の首級が出て来(きた)った。少尉は此の二首級を収め、出て眼を戸外に配れば、竹藪伝ひに草踏み分けたる跡がある。さてはと覚った坂本少尉は、分隊を指揮して竹藪伝ひに岩間宅に押寄せると、重傷にて篁(たけやぶ)中に倒れたる渡辺只次郎は自から短刀を引き抜き、吭元(のどもと)に突き立たると同時に、官兵の銃剣に乱刺せられた。此の物音に立川運・上田倉八・猿渡常太郎・大石虎猛・米良亀雄・友田栄記等何れも枕を並べて自刃した」

 

 米良亀雄は、熊本城二の丸にあった歩兵第十三聯隊の歩兵営付近で膝を被弾し、敬神党の本陣である愛敬正元宅に退却し、第三隊の参謀長富永守国らとともに鹿島甕雄宅に移動し、さらに岩間小十郎宅に移った。夜が明けて探索隊の気配を察知しもはやこれまでと、岩間宅の玄関で自刃したのである。

 かくして神風連の乱は三時間にわたる激闘の末、鎮圧された。凄烈(そうれつ)な一夜であった。一党一二三名のうち、戦死したもの二十八名、自決したもの八十七名、死刑三名、禁獄四十三名(獄中死三名)と、七割が死亡している。この死者の割合は、ほかの士族の反乱には見られない特異な数で、三十代の者が三十三名、二十代に至っては六十三名を数える。

 一方、県庁関係者を含めた鎮台側の死傷者は、二五六名にのぼる。この中には、流れ弾などで巻き添えをくらった一般市民も含まれている。

 

  (六)

 私が入手した荒木精之氏(明治四十年熊本生まれの小説家、歴史家。昭和五十六年死亡)の三冊の著書に見る米良亀雄に関する記述は、次の通りである。

 

『神風連烈士遺文書』(昭和十九年 第一出版協会刊)

「米良亀雄。名は実光、当夜歩兵営にて重傷し、岩間小十郎宅に退き自刃す。年二十一」

 

『神風連実記』(昭和四十六年 人物往来社)

「米良亀雄。米良家は百五十石取りの家であった。武道にすぐれ、慷慨(こうがい)の心ふかく、一挙のさそいをうけて欣然(きんぜん)参加し、敵弾を膝にうけ、刀を杖ついて本陣に退き、岩間邸にうつって自刃した。年二十一」

 

『誠忠神風連』(昭和十八年 第一藝文社刊)

「米良亀雄。墓は熊本市本妙寺常題目(じょうだいもく)墓地にある。名は実光。家は島崎にあり兼松群喜・繁彦ら近くにありて最も親しく高麗門連(こうらいもんれん)に属し、尊攘の志あり。一挙のことあるや蹶然(けつぜん)起つて参加し、鎮台歩兵営襲撃にありて奮戦し、弾丸にあたって重傷をうけ、岩間小十郎宅に退き、官兵捜索に来るを見て立川運、上田倉八、大石虎猛、猿渡常太郎、友田栄記らと共に自刃す。年二十一」

 

 荒木氏は昭和十六年頃より、神風連の乱に参加した者の墓を、凄まじい執念で探索している。その様子は『誠忠神風連』の序に語られている。

 

「私はここ数年来、神風連に深く傾倒しているものである。私にあっては世のつねの郷土史家風な興味や研究からではなく、み国の切迫した内外の諸情勢を深慮するところに源を発し、道の一筋を世に明らかならしめたいひそかにもつあつい願いに外ならなぬ。その故に昭和十六年の夏より思い立って神風連烈士百二十余士の墓さがしをもはじめたのであった。墓地という墓地をめぐり、古老や身寄りをたずね、草叢山野(そうそうさんや)をさがしつづくること一年有半、まさに湮滅(いんめつ)に瀕(ひん)していたものを、その直前に発見することが出来た。かかる狂人のごとき私の仕業も、私にしてみれば必死のみそぎであり、また行であった」

 

 荒木氏には、神風連探索にかかわる数首の歌がある。

 

  夏ふたたびめぐりてにじむ汗をふきさがしつづくるみ墓のありど

 

  としよりをあるは遺族をたづぬなどわが墓さがし墓地のみならぬ

 

  志士の墓さがしあぐみてその夜には夢にみしといふ遂げしめたまへ

 

 亀雄の墓を本妙寺常題目の墓地域(現在の岳林寺管理墓地、島崎・小山田霊園)に探し当てた荒木氏は、その時の感慨を二首の歌に託している。

 

  藪(やぶ)をわけさがせし墓のきり石に御名はありけりあはれ切石

 

  まゐるものありやなしやは知らねども藪中の墓見つつかなしえ

 

 さらに墓碑銘は次のように刻まれているという。

 

        明治九年

   (正面) 米良亀雄実光墓

        旧暦九月九日卒

 

 亀雄に関する記述の中に「蹶然起って参加し」「欣然参加し」とある。広辞苑によると「蹶然」とは、「地を蹴って勢いよく立ち上がるさま。〈―として起つ〉」とあり、「欣然」は、「よろこんで快く物事を行うさま。〈―として死地に赴く〉」とある。亀雄は決起の知らせをその直前に聞き、即座に応じたことが窺(うかが)える。

 

 『忠誠神風連』の記述にもあるように、亀雄は敬神党ではなかった。当時、熊本の高麗門にあった高麗門連という郷党に所属していた。ここでいう「連」とは郷党のことで、士族の若衆組に起源をもつ地域集団である。伝統的家臣団の多くが郷党に属しており、一般的士族の別称であった。

 高麗門連は百石から四、五百石の家禄の士族二十二名からなる一団で、植野常備(つねとも)が率いていた。敬神党とは気脈相通じるところがあり、一挙の際には協力提携するという盟約ができていた。ほかに通丁連や保田窪連などからも一挙に参加している。

 細川家の菩提寺である熊本の妙解寺(みょうげじ)の隣、現在の北岡自然公園のすぐ向いに安国時がある。安国寺は細川九曜紋(くようもん)を寺紋としており、細川家との深いかかわりが窺える。この安国寺の墓域に、地元高麗門連の志士を顕彰(けんしょう)する「招魂碑(しょうこんひ)」がある。碑には上野常備、井上平馬、上野継緒、小篠一三、山田彦七郎、西川正範、大石虎猛、小篠清四郎、高田健次郎、小篠源三、井上豊三郎、兼松群記(喜ヵ)、米良亀雄、兼松繁彦ら十四士の名が刻まれている。彼ら高麗門連は、時習館(じしゅうかん)教授を勤めた井口呈助(いのくち ていすけ)(後の奉行)の薫陶(くんとう)を受けた人々である。亀雄もその一人であった。

 また、亀雄の死亡日が史料により若干異なっている。まず、神風連一二三士の墓碑がある桜山神社の墓石(真墓(しんぼ)ではない。遺骸はそれぞれの家の墓地に埋葬)には、「米良亀雄之墓 明治九年十月廿(二十)八日自刃 年二十一」(『神風連実記』)とある(これは著作時の誤植の可能性もある)。一方、明治七年の旧熊本藩「有禄士族基本帳」では、「一、(明治)九年十月二十六日(米良亀雄)自刃」となっている。だが、「米良家法名抜書」には「明治九子(ね) 十月廿五日 戦死」とあり、荒木氏が探し当てた本妙寺常題目の墓地(現岳林寺管理墓地)の墓碑銘にも「明治九年 米良亀雄実光墓 旧暦九月九日卒(新暦二十五日)」となっている。

 岩間小十郎宅の座敷で自刃した長老の上野堅五や玄関で共に自刃した友田栄記、立川運、上田倉八らの死亡日がいずれも二十五日(桜山神社の墓碑銘)とあることから、亀雄の死亡日も同じく十月二十五日と考えて間違いないだろう。

 亀雄がどのような人物であったか、興味深いところだが、それを語る史料がない。そんなあるとき、赤穂義士研究家の佐藤誠氏から徳富蘇峰の自伝に亀雄に関する記述があることを伝えられた。亀雄の素顔を知るうえで、貴重な史料である。

「……また時々付近の神風連から(蘇峰が寄宿していた塾にむけて)石を見舞われたりしたことがあった。先生の塾の程遠からぬところに、兼松某(なにがし)、米良某など、いずれも神風連の荒武者がいた。彼らは明治九年の暴動にいずれも切腹して死んだが、予は途中彼らに出会(しゅっかい)することをすこぶる危険に感じていた。さればなるべくそれを避けていたが、時たま余儀なく出会いせねばならぬ場合にも遭遇した。彼らはことさらに横たえる双刀を、前に一尺ほども突出して佩(はい)し、結髪はもちろん、大手をふって途中を歩き、もし万一まちがって彼らにさわりたらば、たちまち打つとか殴るということになるから、さわらぬ神にたたりなしで、なるべく近づかないことにした。予は仕合せに一度も彼等にいじめられなかったが、しかしそのためには、かなり心配をした」(『蘇峰自伝』)

 渡辺京二著『神風連とその時代』ではこの一文の引用に続けて「これは明治五、六年のことであり、このとき米良亀雄は十八歳、兼松群喜は二十歳ぐらいになる。両名とも九年の一挙に敗れた後、自決した」と記されている。

 亀雄の素顔は意外なことに、恐ろしく凶暴な輩であった。数多くの神風連の乱参加者が、がなにがしかの辞世を残しているのに、亀雄には史料がない。蘇峰に恐れられていた兼松群喜でさえ、

 

  けふ迄も待兼(まちかね)しつつ武士(もののふ)の打ちとけてこそ嬉しかりけれ

 

 と歌っている。

 亀雄の辞世などの史料が残っていないのは、明治二十二年(一八八九)に十歳年下の弟四郎次(しろうじ)が熊本を引き払い、北海道に渡ったことにほかならない。神風連の乱から十三年後のことである。荒木氏が昭和十六年前後に神風連の探索をしたときには、四郎次が去って半世紀以上の歳月が流れていたことになる。

 大叔母キクの幼いころの記憶に、大きな木箱に入った夥(おびただ)しい数の古文書が自宅にあり、父四郎次が大切に保管していたという。おそらくその中には亀雄の手がかりとなる史料も含まれていたのだろう。だが、キクの記憶も七十年以上も前のことであり、残念ながらそれらの文書は、今に伝えられていない。亀雄の血を受け継ぐ者にとって、荒木氏の二首の歌はせめてもの慰めである。

 

  (七)

 神風連のその後を語ることは、自裁(じさい)物語となる。

 県外の萩や秋月へ逃れ、再挙を図ろうとする者たち、再び鎮台にとって返し戦おうとする者、意見は二分した。だが、すでに官兵による厳重な警戒態勢が敷かれ、県外への脱出はおろか再挙すら不可能な状況になっていた。

 一党は敗走の途次、または逃げ帰った自宅で探索の手が近づくのを知ると、もはやこれまでと縄目(なわめ)の恥を受ける前に自裁していく。神風連に関する著書をひもとくと、彼らが古式にのっとり従容(しょうよう)として腹を切っていく様子が、丹念に描かれている。

 武士として当たり前のことなのだろうが、自宅に帰った者も敗走している者も、誰ひとりとして命が惜しいとは考えていなかった。再挙を秘めた敗走であり、追い詰められた末の自刃なのである。

 熊本鎮台から一里半のところにある金峰山に逃れた一団があった。秋風が傷口に染み入るのに耐えながら、次第に夜が明けてくる。痺(しび)れを切らした年少者たちは、「長老はなにをしておる、切腹か再挙か、いずれか」と迫る。集議の末、二十歳に満たない者は、自宅に返すことになったのだが、帰り着いた者たちも、結局は自決していくのである。十六歳の猿渡唯夫は、周囲の者が止めるのを振り切り「生きて何の面目あって地下の同志にまみえよう」と自刃している。

 自決を前に不幸をわびる息子たちを、両親もまた従容として受け入れる。お国のためにやったこと、立派に死ねと励ます。死に遅れて、見苦しい様に陥ることのないようにという思いである。障子一枚を隔てた向こうで自決する息子たちを、息を潜めて見守るのだ。それが当時の士族の倫理であり、本分の達成を願う純粋な愛情であった。母親は、息子が武士として潔く死ぬのを願い、妻は、夫の見事な最期を妨げないつつしみを保った。

「彼女たちは、自分の見知らぬ世界で何ごとかをしでかした夫や息子たちが、その生涯の終わりの日に家に立ち帰ったさいに、自分の男たちの死を自分たちの了解可能な世界にしっかりとからめとったのである」(『神風連とその後』)。烈子は烈母によって生み出されたことを物語る。

 楢崎楯雄(たてお)(二十六)の母は、息子の死骸を棺におさめる際、首と胴が一寸ほどしかつながっていなかったので、ひしゃくの柄を胴と首に差し込んで合わせ、継ぎ目を畳針で縫い合わせた。

 富永光子は、守国(三十五)、喜雄(二十八)、三郎(二十一)の三人の息子を失った。六十四歳の光子が三人の遺体を引き取ったとき、自決した守国と喜雄にはそれぞれ「本意であった」、「手柄であった」と述べたが、末っ子の三郎の斬殺された死体を見たとき、「さぞ無念であったろう」と打ち嘆いた。

 阿部景器(かげき)(三十七)の妻以幾子(いきこ)(二十六)は、肥後勤皇党の鳥居直樹を兄にもち、尊攘に感化されて育った。以幾子は志士として夫を大いに助けた。夫景器が腹を掻(か)き斬るそのときに「お供いたします」といって自らの咽喉を突いた。桜山神社の墓碑には一二三士の墓碑のほかに、以幾子の墓も加えられている。

「内報によって警部新美吉孝は、巡査数名を率いて山へのぼって来た。中腹に至ったとき、慌(あわただ)しく駆け下りてくる猟夫があって、今、山頂で、六人の神風連残党が腹を切りかけている、と告げた。新美ははやる一同を制し、〈ここで一服して……〉と、一木の根方に憩(やす)んで煙草に火をつけた。一党の最期を全(まっとう)からしめようと思ったのである」(『奔馬』三島由紀夫)

 兼松群喜ら五名の慷慨(こうがい)の青年たちが、いよいよ自決しようとするとき、探索隊の姿が見えた。兼松群喜(二十四)、小篠清四郎(二十二)が歩み寄り、「いかにも自分らは一挙を起こした党類である。しかしながら、いまここで最期を決したところである。暫時(ざんじ)お待ち願いたい。潔く割腹してお目にかける」というなり、五名は見事に果てた。若槻少尉が自らの処置を児玉少佐(のちの児玉源太郎大将)に報告すると、「ようでかした」と賞辞(しょうじ)を与えられたという。兼松は兄弟二人、小篠は四兄弟そろって一挙に参加し、いずれも自刃している。

 神風連はいずれもひときわ豪勇剛毅な志士の集団なのだが、なかでも勇猛義烈、古武士の風儀をもっていたのが吉村義節(ぎせつ)である。吉村はほとんど肉体的苦痛というものを知らない人間であった。

 平素は暇さえあれば武技(ぶぎ)を練っており、あるとき体術を試みて誤って足の骨を折ってしまった。下手な医術のせいで歩行の釣り合いが取れなくなってしまっており、当時、整骨の名医であった井上謙斎を訪ねて治療を乞(こ)うた。もう筋肉が固まっており、どうにもならないと井上が告げると、「それでは困る。なんとかしてくれ」と執拗(しつよう)にいうので、井上は「二度折るなら治してやろう」と答えると、吉村は井上の目の前で即座に自分の足を折ってみせた。驚いた井上は「君、痛くはないか」と尋ねると、「痛いといえば、痛くないのか」という。「痛いといっても、痛さは同じだ」と井上が答えると「それならいうまい」といったという。

 金峰山を下り、鎮台再襲撃を諦めた吉村義節(三十二)、植野常備(三十六)、松井正幹(四十二)、古田孫市(二十六)が、自刃することになった。彼らはいずれも米良亀雄と同じ高麗門連に属していた。三人の介錯を吉村が引き受けた。三人目の古田のときに、さすがの吉村も手元がぶれた。疲労困憊(こんぱい)だったのである。豪気の古田が下から「おそろしゅう痛かぞ、痛くないように斬ってくれ」と振り返ったので、顔を赤らめた吉村は「わるかった」と再び刀を振り下ろし、身首(しんしゅ)を異にした。

 激戦の後の山中彷徨(ほうこう)と飢餓(きが)が重なり、三人の介錯をすませた吉村は、目も眩(くら)むばかりの疲労を覚えていた。腹を斬って喉を突いたのはいいのだが、急所をはずしたらしくこと切れない。しまったと思って刀を引き抜いてまた突いたが死に切れなかった。朦朧(もうろう)とした意識の中で、指を気管につっこんで掻(か)き毟(むし)っているところを捕縛(ほばく)された。

 結局、吉村は斬刑(ざんけい)三名のひとりとなってしまった。その無念は、察するにあまりあるものがある。

 

  ふりすてて出(い)でにしあとの小草にはさびしき秋の風や吹くらむ

 

 吉村義節の時世である。

 自首した者にも事情があった。木庭(こば)保久、緒方小太郎、高津運記の三名の身の処し方にその典型が窺える。緒方と高津が自刃をいい出したとき、小庭は「同志がみんな死んでしまったら、わが党積年の素志を誰が明らかにしますか、死は同じだから暫らくしのんで平生の志を法廷に述べ、然る後刑に死するも不可ではないでしょう」と主張した。緒方は「死すべき時死なねば死にまさる恥があるという。事ここに至ってなお生きるなどとんでもない、早く死のう」と繰り返すが、木庭も譲らず、死は易く生は難いといってきかない。そこで神慮を乞うと、自首と出た。何たる神慮かと憮然(ぶぜん)とした高津は、

 

  かもかくも神のみことにそむかぬぞますらたけをの道にはありける

 

 と歌い、緒方も決意して自首状をしたためている。

 

 天皇のために立ちながら、その天皇の軍に誅殺(ちゅうさつ)されるという髪の毛の逆立つような無念を秘めて彼らは死んでいった。腹に突き立てた短刀を真一文字に引き、返す刀で咽頭を突いて打ち伏した。彼らは、日本古来の武士として従容と死んでいったのである。日本の古典的切腹は、この事件をもってその歴史を閉じたといわれている。

 

 (八)

 一挙の後、神風連敬神党は明治天皇制国家にとっての逆賊となった。凶徒(きょうと)、賊徒(ぞくと)、暴徒(ぼうと)などと呼ばれ、人々の嘲笑(ちょうしょう)の的となった。残された家族は、ひっそりと息をしずめて生きなければならなかった。

 敬神党の死士の葬儀は暗葬礼といって夜間にひっそりと行われていた。「逆賊の身を白昼葬礼するとは官を恐れぬふとどきな振る舞い」であったのだ。

 逆賊の母となった亀雄の母キトは、一挙の二年半後の明治十二年四月に死んでいる。死亡年齢や死因は不明だが、夫実明が明治三年に四十五歳で亡くなっていることから、五十代前後であったと推定される。「有禄士族基本帳」によると、明治七年の「改正禄高調」では、米良家は一五〇石から二十八石七斗に改正されている。

 困窮の生活の中、逆賊の家族として世の嘲笑誹謗(ちょうしょうひぼう)に耐え、幼い息子四郎次を残して死ななければならなかったキトの心痛は察するにあまりある。

 曾祖父四郎次つまり亀雄の弟は、五歳で父を亡くし、十一歳で兄を失い、十四歳で母を看取ることになる。さらに米良家の史料では、七歳のときに弟が夭折している。また、父親から家督を受け継ぎ、その後亀雄に家督を譲った叔父左七郎も、明治十年に西南戦争で戦死している。

 十四歳で天涯孤独の身となった四郎次は、どのようにして生きたのだろう。米良家史料では、天野正寿(八代(やつしろ)御城附、二百石)に嫁いでいる姉はつの存在が確認できる。はつが四郎次の面倒をみたのか、それとも叔父左七郎夫婦のもとで養育されたのか、まったくもって詳(つまび)らかではない。

 ただ、はつの嫁ぎ先である天野家の「有禄士族基本帳(改正禄高等調)」は、はつの夫天野正寿が明治七年二月二十日に届け出たもので、「八代 第四十二大区長丁(ながちょう)六拾六番宅地」と居所が記されている。はつの嫁ぎ先が八代であることを考えると、四郎次の面倒を見たのは左七郎亡き後の左七郎家族と考えるのが自然であろう。

 兄亀雄の自刃から一年後の明治十年十一月十九日(除籍謄本では十一月三日)、四郎次は十二歳で米良家の家督を相続している。

 明治十七年、四郎次十八歳の年に二歳年上の妻ツルを娶(めと)り、五年後の明治二十二年七月、妻と二人の幼子を伴って、屯田兵として北海道に渡っている。屯田兵制度は、北方の守りもさることながら、困窮士族救済のために設けられた制度であった。かくして肥後熊本藩士米良家は、時代の波に翻弄(ほんろう)された果てに先祖伝来の地、熊本を後にするのである。今から一二〇年前のことで、四郎次二十四歳、神風連の乱から数えると、十三年後のことであった。

 

 その後神風連の精神は、日本史の底流に深く沈潜(ちんせん)することになる。

 明治三十七年の日露戦争後、官民一致の国家目標を失った国民の間には、一種の倦怠感と失意が広がっていた。社会主義者による天皇暗殺計画を企てたとされる大逆事件(明治四十三年)などがあり、神風連の純真無垢な忠誠心がにわかに注目されるようになる。

「敬神党は思想頑固(がんこ)、その行動凶暴なるに相違なきも、しかもその精神気魄(きはく)の敬虔(けいけん)にして醇粋(じゅんすい)なる、真に欽尚(きんしょう)すべきものあり」(『神風連とその時代』)と謳(うた)われ、逆賊であった彼らが、天皇制国家の思想的正統として位置づけられる。そんななか、大正十三年(一九二四)、太田黒と加屋に贈位がなされた。時代が彼らの精神を必要としたのである。かくして半世紀におよぶ潜伏期間を経、神風連は復権を見たのである。家族にとっては、逆賊の残累の無念がはれたのであった。

 

 神風連の乱から六十年を経た昭和十一年(一九三六)、二・二六事件が勃発した。陸軍皇統派の影響を受けた青年将校が、一四八三名の兵を率い「昭和維新断行・尊皇討奸(そんのうとうかん)」をスローガンに決起した。元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し腐敗が収束すると考えたのである。渡辺京二氏は二・二六事件の幹部のひとり、磯部浅一の言葉を著書の中で引用している。

「磯部が獄中で〈如何(いか)に陛下でも、神の道を御ふみまちがへ遊ばすと、御皇運の涯てる事も御座ります〉と書いたとき、彼は『廃刀奉議書』における加屋の口吻(こうふん)に戦慄的に合致していたのである。(中略)神風連と昭和十一年二月の反乱者とのあいだに存在する本質的な関連は、両者がともにこの国に導入された西欧的市民社会に対する鋭い違和の表現」(『神風連とその時代』)であったと述べている。

 さらに下って昭和四十五年、三島由紀夫は「盾の会」の青年たちと東京都市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部へ討ち入り、同志の介錯により割腹自殺をする。いわゆる三島事件である。そのとき、営舎のバルコニーに立った三島は、檄文(げきぶん)をばらまき自衛隊員を前に演説を行った。

「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」

 腕を振り上げ叫ぶ映像は、いまだテレビに映されるところである。演説は、自衛隊の決起と憲法改正による自衛隊の国軍化を呼びかけるものであった。

「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎの偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗(こと)、自己の保身、権力欲、偽善にのみささげられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱(おじょく)は払拭(ふっしょく)されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆(つぶ)してゆくのを歯噛(はが)みしながら見ていなければならなかった……」

 三島のいわんとするところは国家に対する憂いであり、嘆き、憤りであった。明治九年に廃刀令が出されたとき、加屋霽堅は数千語に及ぶ一大文書『廃刀奏議書(そうぎしょ)』を書き上げている。単身上京してその奏議書を元老院に呈上(ていじょう)し、その場で割腹する覚悟を固めていた。神風連の乱はその矢先のことであった。三島の割腹自殺は、加屋が果たせなかった死諫(しかん)の道を選んだものである。

 決起の朝、編集者に手渡した小説『天人五衰(ごすい)(豊饒(ほうじょう)の海・第四巻)』が、三島の遺作となった。この小説の第二巻『奔馬(ほんば)』で、三島は神風連を語っている。この小説の取材のため三島は熊本を訪れているのだが、とりわけ加屋霽堅に心酔していたといわれる。三島由紀夫四十五歳、ノーベル文学賞の有力候補と目されていた中での自殺であった。

 

 (九)

 私はつい最近まで、この神風連の乱を単なる不平士族の反乱のひとつと片づけていた。もっと正直に言うなら、神風連という言葉すら目にしてこなかった。自分とは無関係なものと受け流していたのである。神風連の乱は、私の記憶の深いところに沈殿する受験時代の残滓(ざんし)に過ぎなかった。

 私は以前に、米良家と赤穂浪士事件のかかわりをエッセイに書いていた。それが赤穂義士研究家の佐藤誠氏の目に留まったのが、私たちの交流の始まりである。熊本藩士を研究する眞藤國雄氏と佐藤氏の執念が私を探し出した。この佐藤氏と眞藤氏の力強い後ろ盾を得た私は、母方の祖、米良家の探訪を開始したのである。

 「米良家法名抜書」に、「大雄院守節義光居士 明治九子十月廿五日 戦死 勘助長男」との記述があり、さらに米良家の除籍謄本に「前戸主 米良亀雄」という記載があった。佐藤氏はかつて読んだ神風連の乱に関する書籍に、米良の名前があったのを記憶に留めていた。米良という特異な苗字が幸いしたのである。これにより、神風連が私の前に再び立ち現れた。

 神風連の乱が熱烈な至誠(しせい)、鉄火の信仰に裏打ちされたものであったことを始めて知る。暴徒逆賊となることを知りながら、信仰と主義、国のために殉じた彼らの赤誠(せきせい)、純真無垢(むく)な思いに強い感銘を受けたのである。必負、必死と知りながら、一身一家を顧(かえり)みず、死を賭(と)して決起しなければならなかった彼らの心情に思いを寄せるとき、この反乱を単に非合理に貫かれた歴史的小事件と片づけられないものを感じる。

「この鎮台と、この県庁ありて、これを未然に制圧することを怠りたるは如何(いか)にも怠慢とは云はんか、油断とは云はんか。実に言語道断の沙汰(さた)ではあるが、しかも彼らをして斯(しばら)く油断せしめたる所以(ゆえん)は、神風連が、沈黙実行の為めと云はねばならぬ。佐賀に見よ、萩に見よ、秋月に見よ、其他(そのた)の地方に見よ。彼等はいずれも官軍に機先を制せられ、然(しか)らざれば事(こと)志と違(たが)ひ、江藤と云ひ、前原と云ひ、その末路は、如何にも陰鬱であり、悲惨であった。これに比し神風連の首領、太田黒・加屋の徒の最期は――我等は決してその優劣を判ぜんとするではないが――如何にも痛快であり且(か)つ光明である。これは何故(なぜ)であるか。彼等神風連は、ただひたすら神意を奉体(ほうたい)して、一点の私心・私情を加えず、悉(ことごと)く皆な神意によりて行動したるが為めだ。これを称して「うけひ」の戦と云ふ」(『近世日本国民史』)

 徳富蘇峰の言葉が、彼らの行動、真情を端的に語っている。

 

 荒木精之氏が本妙寺常題目の墓域(現在の岳林寺管理墓地、島崎・小山田霊園)に亀雄の墓を探し出してから、すでに七十年近い歳月が流れている。その後亀雄の墓は、ふたたび時間の中に埋もれている。

 熊本の眞藤氏の協力により、荒木氏のいう本妙寺常題目が、本妙寺からやや離れたところにある日蓮宗の別寺で、聲音梵寺であることがわかった。さらに、『平成肥後国誌』(高田泰史編)に亀雄と叔父の左七郎の墓が並んで写っており、兄弟として紹介されているという情報がもたらされた。

 米良家の菩提寺は曹洞宗(そうとうしゅう)の宗岳寺で、屋敷は島崎にあった。逆賊の汚名を受けた二人を菩提寺に葬ることができず、やむなく島崎に隣接する常題目に葬ったものと思われる。残された家族が、人目を忍んでひっそりと香華(こうげ)を手向(たむ)けていたのだろう。

 この文章を書いているさなか(平成十九年八月)、佐藤氏から更なる一報が舞い込んできた。

「『戦袍(せんぽう)日記』、本日到来。早速に拝見したところ、〈高隈山(たかくまやま)ニテ戦死ス 伍長(ごちょう) 米良左七郎〉とありました。左七郎は熊本隊では一番中隊伍長だったことが判明いたしました。それも一番中隊隊長は岩間小十郎、あの米良亀雄が自刃した屋敷の主だったのです」

 この熊本隊とは、西郷隆盛が西南戦争で挙兵した際、不平士族たちにより組織されたもので、彼らは西郷軍に合流し、鹿児島で戦ったのである。

 佐藤氏と眞藤氏は米良家の恩人といわねばなるまい。私の歴史探索、〝縁〟をめぐる旅は、まだまだ終わりそうにない。 了

 

 追記 

 平成二十年九月六日、拙作を読んでくださった熊本(当時)の髙久直広氏のご厚志により、岳林寺墓地にて米良亀雄、左七郎を含む米良家の五墓碑が発見された。これを受け、平成二十年十月三十日、岳林寺住職により永代供養が執り行われた。岳林寺墓域は、本妙寺常題目墓地に隣接している。

 末筆になりましたが、亀雄の墓の探索にかかわってくださったみな様に、心から感謝申し上げます。

 

 付記

 本文は、近藤健・佐藤誠著『肥後藩参百石 米良家』(平成二十五年六月一日発行 花乱社)の歴史編・第六章「神風連の乱と米良亀雄」に相当する。

 

〈参考文献〉

『誠忠神風連』荒木精之著(昭和十八年 第一藝文社)

『神風連烈士遺文書』荒木精之著(昭和十九年 第一出版協会)

『神風連実記』荒木精之著(昭和四十六年 人物往来社)

『神風連とその時代』渡辺京二著(平成十八年 洋泉社MC新書)

『蘇峰自伝』徳富猪一郎著(昭和十年 中央公論社)

『近世日本国民史』九四巻―神風連の事変篇― 徳富猪一郎著(昭和三十七年 時事通信社)

『奔馬(豊饒の海・第二巻)』三島由紀夫著(昭和五十二年 新潮文庫)

『丁丑(ていちゅう)感旧録』宇野東風著(昭和五十二年 文献出版〔復刻版〕)

『戦袍日記』古閑俊雄著(昭和六十一年 青潮社〔復刻版〕)

『屯田兵』札幌市教育委員会編(昭和六十年 北海道新聞社)

『平成肥後国誌』高田泰史編(平成十年 平成肥後国誌刊行会)

「有禄士族基本帳」(明治七年 熊本県立図書館所蔵)

「米良家先祖附写」(明治七年 米良周策家所蔵)

「米良家法名抜書」(明治二十二年〈推定〉 米良周策家所蔵)

 

  2007年8月 初出  近藤 健(こんけんどう)
 

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