川崎高津寮 ~シリーズ寮Ⅳ 会社独身寮編~  | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 (一)

 寮長だけは、なりたくないと思っていた。寮生活が長かったばっかりに、会社の独身寮の寮長に担ぎ上げられた。

 寮長になって二日目の夜、「大きな栗の木の下で事件」が起こった。

「大きな栗の木の下で……あなたとワタシ……」

 という歌声に目が覚めた。時計を見ると午前二時を回っていた。栗橋と石毛の二部合唱が非常階段の下で響いている。そのうちに、何か大きなものを引きずる音がしだした。何だろうかと考えているうちに音が止み、そのまま再び眠りに落ちてしまった。

 朝、トイレにいこうと部屋を出て息が止まった。大きな木が廊下を塞(ふさ)いでいたのだ。木の枝に柔らかな青々とした栗がたわわについていた。幹の直径は二十センチはあっただろうか。私が廊下に出たとき、賄(まかな)いのオヤジが、鋸(のこぎり)でその大木を解体しようとしているところだった。

 

「おーい、コンドォーッ! バス停、持ってきてやったどォー」

 窓の外で先輩の叫ぶ声がする。駅まで歩いて二十分の距離だった。遅刻しそうになり、朝、私が駅まで走る姿をいつも見ていたのだろう。外に出てみると、寮の前にバス停があった。バス会社に怒鳴り込まれてはたまったものではない。対応は、私がすることになる。仕方なく真夜中にバス停をゴロゴロ転がしながら戻しにいった。途中、酔っ払いに「頑張れよ」とからかわれた。当時のバス停は簡単に動かせた。

 

 夜中に「ミーン、ミーン」と鳴いているヤカラがいる。窓を開けると、青森出身の社員が電信柱にしがみついている。

「おい、落ちるなよ」

 と声をかけると、鳴き声が「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」に変わった。彼は、酔うと決まって電信柱に登った。なぜ、東京電力に就職しなかったか、と思うほど電信柱が好きな男だった。ただ、鳴き声が悪かった。彼にメスが近づくことはなかった。五十歳を目前にした彼は、いまだに独身である。

 

 寮社員の親睦もかね、四か月に一度くらいの割合で寮会議を行なっていた。

「何かありませんか」

「……」

「何もないの、おい、対馬、なんかあるだろ?」

「……いんや、ねぇ」

 普段、陰で文句をいっている者に限って、腕を組みテーブルに視線を落としてダンマリを決め込んでいる。社員は、私も含め全員が東北・北海道出身者だった。しかもみな、市内から遠く離れた、いわゆる〝在(ざい)〟(都市から離れた場所)の出身である。もちろん、私も〝在〟である。

 そこで、酒を飲みながら会議をすることにした。

「それでは、寮会議を始めます、カンパーイ!」

 三十分もすると、自然と意見が出てくる。

「オジさん、ちょっと言いにくいんすけど……あの消しゴムみたいなサガナ、なんとかならないッスか」

 いつもビックリしたような顔をしている気仙沼出身の菅原が口火を切る。事前に「あの消しゴム、何とかならないかオヤジに言ってくれないか」と私から菅原に頼んでおいたのである。

「カジキのこと? 時間が経つと硬くなるんだよな……」

 と賄(まかな)いのオヤジもほろ酔い気分で頭を掻(か)いている。

「遅番で帰ってくると飯がないんスよ」

 こんな時間だ、もう帰ってこないだろうと、つい別の社員が夜食代わりに食べてしまうのだ。

「食わねば、朝、ナゲル(捨てる)だげだも、もったいねぇべよ」

 と青森が反論する。

「犯人、オメだなッ!」

 と岩手。

「帰ってこないヤツは、電話でキャンセルしたらイイベ」

「だども、オジサン寝るの早いがら、電話でぎねえべよ」

 酒が入ると、参議院予算委員会の審議並みの論戦が始まる。勢いあまって会議の後、外の飲み屋での二次会へと暴走し、新たな事件が巻き起こるタネになった。

 私が寮長だった間に、いくつかの重要な決議があった。私は会社のコピー機のガラス面に自分の顔を押し当てコピーし、その下に議決内容を書いて寮内に貼った。米国のOLがパンツを下ろし、コピー機に座った画像を売って副収入を得ていた、というニュースを見て閃(ひらめ)いたのだ。顔をコピーすると、似つかわしくない恐ろしい顔になる。

 まず貼ったのが、「他人のメシは、絶対に食うな」、「廊下や洗面所では、ヘドを吐くな」というもの。水洗便所を使い慣れていない新入社員向けに、「クソをした後は、必ず水を流そう!」と書いて貼った。顔が気持ち悪く、出るものも出なくなるとすぐに剥(は)がされた。

 食堂には、「カレーライスはスプーンで食べよう」で、カレーライスを箸で食べている新入社員に、

「カレーはスプーンだべよ」

 というと例外なく彼らは、失敗したという顔で赤面した。実は、私もそうだったのだが、当時、入寮していた田舎者は、カレーを箸で食べていた。実家にいたころは、ちゃんとスプーンで食べていたと思うのだが、不思議なものである。

 だが、これらの貼り紙は、すぐに剥がされた。夜遅く帰ってくると、気持ち悪くてやってられないという理由だった。

 寮の社員は、全員、ガソリンスタンド勤務であった。こいつはムリだと判断したらしく、私は三か月でガソリンスタンドをクビになっていた。

 

 (二)

「お宅の社員、バイクで事故を起こしていますよ」

 夜の十一時過ぎ、近所の人から寮に電話が入った。受話器を置いて間もなく、救急車のサイレンが近づいてきた。賄いのオヤジと一緒に駆けつけると、寮の裏道の百メートルほど先で、バイクと一緒に同期入社の高橋が倒れていた。

「おい、高橋、大丈夫か」

 と声をかけると、

「うう……。むねが……、苦しい……」

 同期とはいえ、私は一浪の大卒で、高橋は高卒。五歳年下だった。

「なんだテメエ、大卒だからってデカイ顔するなよ」が高橋の口癖だった。

 その高橋が今にも死にそうな声で、芋虫のように丸くなって転がっていた。病院まで同乗してくださいと救急隊員にいわれ、否応なく救急車に乗った。

「高橋さん、大丈夫ですか」

 救急隊員の呼びかけに、

「うう……」

 というばかりで、ろくに返事もできない。これはただごとではないと思った。(後で考えると、問いかけに反応していたということは、重傷ではなかった)

 病院は、寮からさほど遠くない個人病院だった。対応に当たったのは、若いインターンの医師だった。

「指と肋骨が折れている可能性がありますね。一晩様子をみましょう」

 レントゲン検査は明朝でなければできないという。生まれて初めて救急車に乗り、初めて救急治療室を目の当たりにした私は、そんなものなのかと思った。

 個室に運ばれた高橋は、点滴につながれて、相変わらず唸(うな)っている。今なら心電図や血圧のモニターに監視されるのだが、一緒についてきた看護師から、

「三時間くらいで点滴が終わりますから、終わったらこのボタンを押してください。あ、それと、容態が急変する可能性もありますので、そのときも」

 コーヒーを飲みたいときには遠慮なくおっしゃって、砂糖もミルクもありますよ、という気安さで彼女は出ていった。時計を見たら、すでに午前零時を回っていた。

 私は高橋が本当に死ぬかもしれないと思っていた。隣の空いているベッドにもたれ、薄暗い部屋で、点滴の落ちるのを固唾(かたず)を呑んで見守っていた。早押しクイズよろしく、手の届くところにナースコールのボタンを用意した。

 午前三時半、やっと点滴が終わってほっとして看護師を呼んだら、にこやかに入ってきた看護師の手には別の点滴があった。結局私は、朝の七時まで点滴のしずくを数えていた。

 明け方、眠っていた高橋が突然、カッと目を見開いた。スワーッと身構えると、高橋がかすれた声で、

「……うう、ションベン」

 と言った。小便が漏れそうだという。なにィー? 小便? ……クソよりはましかと思い直した。どうやって小便を採ったらいいんだ。まさか、高橋のモノを私が引っ張り出さねばならないのかと考えながら、ナースステーションで尿瓶(しびん)を借りてきた。高橋は自分でその尿瓶を蒲団の中に入れた。

「なかなか出ねえ。オメエ、あっちいげ。見るなよ」

 と生意気なことをいう。仕方なく部屋の窓から青白くなり始めた外の風景を眺めていた。スズメの鳴き声があちらこちらでする。ずいぶん時間が経った。

「すまん……、たのむ」

 渡された尿瓶には、溢(あふ)れんばかりの小便が入っていた。屋上ビアガーデンの大ジョッキのビールよろしく表面には泡まで立っている。

「お前、途中で止められなかったのかよ」

 と言うと、

「オレも、こんなに小便を出したのは、生まれで初めでだ」

 と高橋も驚いている。こぼさないように運ぶのにえらく難儀した。

 高橋は相変わらず、胸が苦しいと唸っている。実家に電話するから電話番号を教えろというと、実家には母親しかいないからダメだという。父親が出稼ぎで千葉にきているというのだ。高橋の実家は北海道の松前で漁師をしていたのだが、そのときは何か事情があったのか、父親が出てきていた。

 レントゲン技師が出勤する時間になり、ベッドの上で唸りながら高橋はレントゲン室に運ばれていった。その間、私は寮のオヤジへ電話し、会社へも一報を入れた。

 検査の結果、骨折はなかった。そのことを高橋に伝えると、今の今まで唸っていた高橋が、突然、ベッドから起き上がり、

「ホントか。折れでないのがぁ」

 と普通の声で訊(き)いてきた。

「単なる打撲だ!」

 私は憮然(ぶぜん)と言った。高橋はみるみる回復し、その日の夕方には退院した。私の徹夜は一体なんだったのか。えらく損をした気持ちになった。

 だが、この一件で高橋と私の距離はグーンと縮まった。それまで私を「おい、てめえ」とか「近藤!」と呼び捨てにしていたのだが、さん付けで呼ぶようになった。それもそのはず、ことあるごとに、

「てめえ、オレは、お前の小便を運んでやったんだからな」

 と恩着せがましく言っていたのだ。その甲斐あってか、

「近藤さん、ウニ」

 といって実家から送ってきたと言ってプラスチック製の折りを持っている。塩ウニがびっしりと詰まっていた。それまで高橋は、寮の飯は食えたモンじゃねえと、ドンブリにご飯だけ盛って部屋に上がっていた。ひそかにウニ飯を食べていたのだ。たまたま用があって高橋の部屋に入ってそれを発見した。この自家製の塩ウニは、しょっぱ過ぎず甘過ぎず、地場でしか味わえない美味いものだった。

 しばらくの間、私も部屋にこもってウニだけで過ごした。高橋にはあの一件以来、ケジメとしてバイクに乗るのを禁じていた。ウニが尽きたある日、

「おい、バイク、乗っていいぞ」

 とその禁を解いた。高橋のウニは、それほどの絶品だった。

 

 (三)

 川崎高津寮の賄人は、今時めずらしく六人家族だった。子供は男、女、女、男で、上の二人はすでに就職しており、下の二人は小学校の低学年だった。私が寮に入ったころは、下の二人は何の抵抗もなく寮生と一緒に風呂に入っていた。しかも寮生の格好のオモチャになっており、犬がじゃれあうようにいつも誰彼となくプロレスをしていた。そのうち、次女がその遊びから抜け出した。胸が膨らんできたのである。

 あるとき、食堂で遅い夕食をとっていると、弟が擦り寄ってきて、

「ねえねえ、近藤さん、いいこと教えてあげようか」

 とニコニコしている。

「お姉ちゃんさ、今日、ブラジャー買ってきたんだよ」

 悪ガキは満面の笑みをたたえている。その日、次女は、中学校への進学準備のため、母親と一緒に買い物にいっていたのだ。

「お前、そんなことオレにいちいち報告せんでもいい」

 私に叩(たた)かれた頭をかきながら、

「だって変じゃん、ぺチャパイなのにさ」

 マモルの言い分もわかる。お母さんも大姉ちゃんも巨漢体質で、バストは優に一メートルを超えていた。マモルはこの秘密を誰かに伝えたくて仕方がなかったのだ。

 マモルは中学生になっても、平気で風呂に入ってきた。

「オイ、マモル、チ○ポに毛、生えてきたか」

「ん……少し生えてきた」

「どら、見せてみろ」

 寮生生活をしている賄いの子は、一般家庭の親が羨(うらや)むような環境にいる。常に誰かが遊んでくれるので、寮である自宅が楽しくて仕方がないのだ。そんな中、マモルは天真爛漫に育ち過ぎていた。勉強がまるでダメだった。見かねた父親が、私に英語の勉強をみてくれと頼み込んできた。

 マモルがしぶしぶ教科書を持って食堂に現れた。もうすぐ二年生だというのに、教科書は新品同様だった。これはかなり手ごわいなと思い、

「マモル、お前サッカー好きだよな、手は英語で何だ」

 と訊くと、即座に、

「ハンド!」

 と返ってきた。

「じゃ、頭は」

「ヘッド!」

 得意気である。

「よし、いいぞ。じゃ、足は何だ」

「んー、キック!」

 一段と元気のいい声が返ってきた。私が思わず吹き出すと、

「あ、間違えた……シューズ?」

 重症だった。教科書レベルの問題ではなかった。まずは身近な英語遊びから始めた。

「耳は、イヤー。イヤ・ホーンだ。ホーンは音、ヘッド・ホーンっていうだろ」

「家はハウス。ハウス食品のマークは家だ。ホームともいう。野球のホームベースのホームだ」

 といったのはいいが、ホームとハウスの違いがおぼつかない。とりあえず、家はハウスで、帰る自分の家をホームとごまかした。

「じゃ、ホーム・ルームって」

 と訊かれ、苦し紛れに膝蹴りを食らわせ、

「ニー・パット。ニーは膝だ」

 かなりいい加減な家庭教師である。オヤジは、いかがわしい勉強が終わるたび、缶ビールを持ってきた。いくらいらないと言っても持ってくるのだ。この勉強、いつまで続いたかは記憶にないが、仕事が忙しくなり私の帰りが遅くなり、自然消滅した。

 マモルは平気で二階の私の部屋に入ってきたが、次女のエイ子がくると、母親は心配なのである。階下からエイコー、と呼ぶ声がする。エイ子は小柄でかわいらしい中学生になっていた。母親の目を盗んでは、私の部屋に遊びにきていた。

 私が二十八歳になって寮を出る日、学生時代に使っていた英文タイプライターをエイ子にプレゼントした。まだ、ワープロもパソコンもない時代である。玄関に立ったエイ子が、必死に涙をこらえる姿が印象的だった。

 

  2007年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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