ズンドウ、ダルマ、ルンペン……、人間の容姿ではない。石炭ストーブの名称である。
私が幼いころの北海道では、まだ薪(まき)ストーブが主流だった。燃料が、薪から石炭に変わったのは、小学校の高学年あたりである。だが、駅の待合室や学校の教室など公共施設では、早くから石炭ストーブがあった。ビア樽のような形をした「ズンドウストーブ」といわれる大型の石炭ストーブである。
石炭ストーブといえば、中学校の教室が目に浮かぶ。私のふるさと様似(さまに)は、北海道の南東部に位置し、比較的温暖な土地である。それでも寒冷地のこと、年間を通してストーブに火が入らないのは三か月にも満たない。ズンドウは教室の主役だった。
冬、体育の時間の後、ストーブの周りには手袋や靴下、長靴がずらりと並ぶ。外での体育といえば、雪中サッカーだったり、クラス対抗の雪合戦だった。グラウンドには全校生徒総出で雪を踏み固めて作った大きなスケートリンクがあった。濡れた手袋や長靴が、ストーブの前でもうもうと湯気を上げる。
授業中先生の目を盗んで、女の子の間で秘密のメモが回される。休み時間、そのメモを男子に取られそうになり、大騒ぎしながらトーブに放り込む。ストーブは証拠隠滅に打ってつけだった。
男たちは無邪気に、雪玉や氷柱(つらら)をストーブの煙突につけて、ジュージュー溶けるのを楽しんでいる。上履きの底をストーブにサッと擦(こす)りつけて、煙を出して楽しんでいる輩(やから)もいた。私もそのひとりで、度が過ぎて靴底のゴムの凹凸がほとんど平坦になっていた。
休み時間になると、遠く離れた席の者が、我先にとストーブの回りに群がってくる。手をあぶる者、尻を温める者。
「ン? 臭い!」
「なンか、焦(こ)げてる!」
「キャー、アッチチチチッ!」
スカートの裾が焦げる臭いだ。
ストーブの周りは、いつもワイワイ、ギャーギャーと大騒ぎだった。燃え盛るストーブは、思春期の炎そのものだった。みんなの中心にストーブがあった。
クラスの席替えともなれば、目の色が変わった。だれもがストーブの側に陣取りたい。祈る思いで席替えの行方を見守った。教室の端はシベリア級の寒さだが、ストーブの最前列は、みんな赤い顔でのぼせていた。うっかり石炭を入れ過ぎてしまうと、ストーブはおろか煙突まで真っ赤になる。机の端から煙が出ることもあった。
三時間目の授業が終わると、ストーブの周りに弁当が並ぶ。冷えた弁当を温めるのだ。弁当の時間には給食と称して牛乳がついた。給食当番が牛乳箱を二人がかりで運んでくる。牛乳瓶の触れ合う音が、木造校舎の廊下のあちらこちらで響く。
厳寒期には、凍てついてシャーベット状になった牛乳が、膨張して蓋(ふた)を押し上げている。水を張った大きなブリキの容器に牛乳瓶を入れ、それを石炭ストーブの上で温める。温め過ぎて、いつも何本かの瓶の底が割れて抜け落ちた。
朝、石炭ストーブに火を入れるのは用務員がやってくれるのだが、後始末は生徒たちが行う。それは石炭当番の仕事で、掃除当番が兼ねていた。
ストーブの上蓋の小さな穴に、デレッキ(先が鍵状になった鉄の棒)を引っかけ蓋を開ける。そのデレッキでストーブの中にある鉄の網を引っかけ、網の上の石炭殻(石炭の燃えカス)をストーブの底に落とす。
今度は石炭ストーブの下部にある口から、ジューノ(鋼鉄製の柄の長いスコップ)で石炭殻と灰を掻(か)き出し、ブリキの塵取りに移す。石炭殻はまだかなり熱い。それを学校の前の道路にぶちまけ、その足で、翌日分の石炭を小屋へ取りにいく。
石炭小屋は校舎から少し離れたところにあった。だが、そこへの一番乗りは禁物だった。小屋に吹き込んだ雪が石炭の表面に積もり、凍った石炭が巨大な固まりになっている。それをスコップで砕くのにひと汗流すことになる。寒風の吹きつける中、石炭を入れた重い木箱を教室まで運ぶのは、辛い作業だった。
私が掃除当番のとき、とんでもない失敗をしでかしたことがある。
教室の掃除が終わり、灰をとる段になってストーブの蓋を開けると、石炭がまだ赤く燻(くすぶ)っていた。ストーブの口がちゃんと閉まっていなかったため、石炭が燃えていたのだ。さて、どうしたものかと見回すと、牛乳を温め終わったブリキの容器に、お湯がたっぷりと残っていた。そこでストーブの上蓋を開け、そのお湯を勢いよく注いだ。一気に消そうと思ったのだ。
ところが、ストーブにお湯を注いだとたん、ジュワーッという凄まじい音とともに、ストーブの中からもの凄い勢いで灰が舞い上がった。
「大変だ、逃げろ!」
大騒ぎをしながら教室の外に出て、廊下の窓から中の様子を見守る。教室の中はひどい降灰で、真っ白である。ストーブが、爆発する火山さながらに噴煙を上げていた。
先生に見つかったら大変なことになる。ほかの当番からさんざん文句を言われながら、大急ぎで掃除をやり直した。床は雑巾がけである。母の代からの古い木造校舎で、モップなどはなかった。冷たいバケツの水で雑巾を濯(すす)ぐ。みるみる手が真っ赤になる。何度も何度も床を往復する。灰は床だけではなく、机の上、黒板、教卓、ガラス戸の桟(さん)にまで降り積もっていた。数か月分の掃除をまとめてやったほどの重労働だった。さんざん文句を言いながらも、掃除当番のみんなが手伝ってくれた。
小学校五年になって、教室からストーブが消えた。学校が建て替わったのだ。中学校も我々が卒業後、数年で新築された。その後、私はふるさとを離れたが、多くの同級生は、そのまま地元の高校へとなだれ込んだ。みな幼稚園からの仲間である。そこでも彼らはストーブを囲んでいたに違いない。
「高校も新しくなっちゃったよ。俺たちが卒業した後で、みんな新しくなるもんなァ。嫌ンなっちゃうよ」
帰省した私に、幼なじみがぼやいた。相次ぐ建て替えは、昭和四十三年(一九六八)に道東を襲った十勝沖地震の影響である。小学校三年のことだった。マグニチュード七・九の地震は、老朽化していた校舎の建て替えに、拍車をかけた。
学校が新しくなるたびに、教室からストーブが消えていく。幸い私たちがストーブのない教室を経験したのは、小学校を卒業するまでの二年間だけである。ストーブのない教室が物足りなく、しばらくは居場所が定まらなかった。
中学に進学し、古い校舎に逆戻りしてガッカリしたが、再びストーブが復活した。ストーブの周りでふざけて騒ぐ者もいれば、だまって炎を見ている者もいる。ストーブに尻をあぶりながら、窓の外に目をやる者もいる。窓の外の寒々とした海に、将来への不安を重ねているようにもみえた。中学を卒業し、「金の卵」と称した集団就職で、ふるさとを離れる者が、クラスに四、五人はいた。まだ、そんな時代だった。
ストーブは、身体はもちろん、心まで温めてくれた。みんながストーブの周りにいた。
2005年12月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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