幻の英語 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 こういっちゃなんだが、私にも英語が話せた時期があった。

 「あった」と過去形を使わねばならないことが、何とも口惜しい。それはもう四半世紀近くも前(平成十七年時点)のこと、すでに過去完了形となっている。

 大学に入り、どの部活に入ろうか悩んだ末、英語を克服するためにESSに入部した。といえば聞こえはいいが、美人先輩の甘い勧誘にまんまと引っかかったのだ。

「留学生との交流もようけあるんよ。二回生くらいにならはったら、日常会話もでけるようになるしぃ。迷うことあらへん、私がちゃんと面倒みたるしぃ」

 そういって叩いた先輩の胸が、ブルルンと揺れた。それが入部の決め手だった。男子校出身の私には、二十歳前後の女学生が、ひどく大人びた「お姉さん」に見えていた。バラ色の大学生活に足を踏み入れることにワクワクしながら、入部届けを出したのだった。

 遊び感覚のクラブを想像して入部したのが大間違いだった。チヤホヤされたのは最初だけだった。新歓(新入生歓迎)コンパの翌日から、先輩の態度が一転した。ブルルン先輩は、鬼ババアだった。

 最初に新入生を待ち構えていたのは、英語暗誦大会である。その練習で英語の発音矯正が行われ、多くの新入生が脱落していった。

 次に待っていたのは「外人ハント」、通称「ガイハン」である。「なぜ日本人は家に上がるとき靴を脱ぐか」という説明文を丸暗記し、街ゆく外国人を無作為につかまえ説明するのである。ホテルに出向き、何度も何度もそれを繰り返した。外人に対する羞恥心と抵抗をなくすことが主目的だったが、私の場合、抵抗はなくならなかった。

 英語弁論大会では、自分の原稿をアメリカ人に見てもらう。そのころには単独でガイハンにいかされる。

 春・夏の合宿では、留学生を伴って一週間、山深い民宿で缶詰になった。日本語厳禁である。言葉を出せない辛さに身悶えた。この合宿が、英語習得に大きく貢献した。

 だが、ESSでの本来の活動は、所属セクションでの大学対抗の大会に出ることだった。私は、ディベート(英語討論)に所属しており、全国の大学が共通のテーマに基づき、春と秋に競技大会を行なう。テーマは防衛問題、農業、原発、環境問題など様々である。学生のお遊びのように思う向きもあるだろうが、論文が一本書けるほど掘り下げて勉強した。

 私はこのディベートのお陰で、大学生活の大半を図書館ですごすことになった。大会が近づくと、大学の閉門後アパートに集まり、入手した資料を手分けして英文に直したり、論理の構築をああでもないこうでもないと話し合う。それが二週間、三週間と続く。朝靄の中をフラフラと歩いて帰りながら、

「朝の五時までやってる部活って、ほかにあるか」

 とよく話したものだった。

 そんなことをしている間に新入生が入ってきて、気づいたら片言の英語が話せるようになっていた。

 三回生のとき、私は京都の大学の集まりであるESS連盟(京都全大学ESS連盟)のディベート専門委員長をやらされた。しかもその年は持ち回りで西日本の連盟の副委員長も兼ねることになり、授業にもろくに出られない状況になってしまった。

 私はどうしても〈ガイジン〉なるものが克服できずにいた。あの青い目の奥で、何を考えているのか読めなかったのだ。親しくなったアメリカ人に、

「そこの喫茶店で、お茶でも飲みながら話をしないか」

 と誘うと、

「ノー」

 とそっけない返事が返ってくる。日本人なら、決してそんな無愛想な断り方はしない。気乗りしなくても一緒にいくか、都合が悪い場合はそれなりにやんわりと断る。彼らは、ただ「ノー」である。私にはそのノーが「嫌だ」と聞こえて仕方がなかった。なんとわがままなやつらなんだ、と気分を悪くしたものだった。そんなこともあって、彼らと相対すると私は過剰に緊張した。また不愉快な思いをさせられるのではないかという恐れである。

 

 あるとき、ディベートのジャッジ(判定委員)の依頼で、数名の「ガイジン」に電話をしなければならなかった。アパートの赤電話の前に十円玉を積み重ね、心臓の高鳴りを聴いていた。

 電話の前で話す手順を反芻(はんすう)する。まず、自分の正体を明かし……、大会の日程等を説明し……、相手の都合を訊く。了解が得られれば、追って招待状を出す旨を告げる、それでおしまい。この手順を何度も反芻し、意を決してダイヤルを回した。

「ハロー、ディスイズ・ケン・コンドウ・スピーキング。アイム・ア……」

「はぁ? どなたはんどす?」

 しわがれた老婆の声が返ってきた。間違い電話である。気を取り直して、再びダイヤルを回す。

「おかーさん、でんわー……」

 シマッタと思ったら、本人が出てきてペラペラのペーラペラ(当時の英語を再現できないのが口惜しい)。不思議なことに、彼らは片言の日本語ができるはずなのに、誰ひとりとして日本語を使ってくれなかった。日本人なら頑張って英語を話すところである。そこがまた癪(しゃく)に障るところだった。

 この連盟の仕事のおかげで、京都はもとより関西一円、東京の大学にまで足を運ぶ機会があった。自分の学校にいる時間がほとんどなく、一体自分はどこの学生なのかと思うほど、方々を飛び回っていた。

 そのつけは、後日しっかりと回ってきた。専攻する学科の単位をことごとく落とし、留年の窮地に立たされたのだ。今でも年に一、二度、試験の悪夢にうなされる。

 東京の会社に就職し、英語を使う機会を失った。せっかく身につけた英語を維持しようとそれなりの努力をしたが、やはりダメだった。それは「腕が錆びついた」といったレベルの話ではなく、まったくの白紙に戻ってしまったのである。あの苦労は一体何だったのか。今考えると残念でならない。

 英語は跡形もなく消失したが、大学間を飛び歩いた経験は、その後の私の大きな糧となった。当時の仲間との交流は、細々ながら未だに続いている。ブルルン先輩の胸の振動は、私の人生を大きく変えた。その彼女は、ブルルンで二人の子供を育てた。

 目を閉じれば、当時の仲間とのやり取りが、つい数年前のことのように鮮やかに浮かび上がってくる。

 

  2005年9月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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