ふるさとの山 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 冬の楽しみがある。

 東京に住んで二十二年(二〇〇五年時点)。数年前に通勤電車の路線が高架となってから、冬の間だけ関東周辺の山々が見えるようになった。筑波山、少し離れて榛名山(はるなさん)、妙義山、さらに秩父連山から丹沢山系まで、ぐるりと見渡せる。何より、高いビルの狭間にほんの一瞬、富士山が顔を出す。昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックの千円銀貨に刻印されていたのと同じ、あの勇壮な富士である。数秒後には、ビルの中に消えてしまうのだが――。

 私は練馬区富士見台に住んでおり、最寄りの駅も西武池袋線の富士見台駅だ。かつてはどこからでも富士山が見えたのだろう。今では、空気が澄む冬季間、しかもよく晴れ渡った日にだけ、その姿を見ることができる。

 通勤電車の中から富士を見ながら、私はふるさとの山を重ねている。

 中学を卒業し、私は札幌の高校に進学した。それまでは、朝起きると窓の外にアポイ岳があり、学校へ向かう自転車の先にもアポイがあった。

 昭和四十五年(一九七〇)に統合されるまでの様似小学校の校歌の二番は「アポイヌプリのお花畑……」であり、中学校の校歌の歌い出しは「雲光るアポイ……」である。その日の天気は、アポイにかかる雲の様子で大方の見当がつく。

 群青色の山裾(やますそ)を太平洋に浸し、もう片方を日高山脈に結ぶ。街を見下ろす山容は、名実共に街のシンボルである。

 山が好きだった父は、よく私たち家族をアポイへ連れていった。私が幼いころは、もっぱらアポイ山麓のポンサヌシベツ川で遊んだ。私が小学生になると、五合目にある山小屋まで登るようになった。父は私との登山が夢だったと、後に母が言っていたことがある。私がもの心ついたころには、テントや寝袋、炊飯道具まで登山用具一式が揃(そろ)っていた。

 だが父とは、一度も山頂を踏むことなく終わった。あるとき五合目の山小屋で、

「ねえ、お父さん、頂上までいこうよ」

 と父を促したことがある。よしいってみるか、と腰を上げたのだが、

「もうだめだ……疲れた」

 といって、結局引き返した。それが父との最後のアポイとなった。今思えば、そのころから父の体調は思わしくなかった。

 中学生になると、友達と連れ立ってアポイに出かけた。ひと夏に三回、四回と山頂を目指した。勢いあまって隣の吉田山にいたこともある。山頂を踏破するという醍醐味もさることながら、岩場にひっそりと咲く高山植物に魅了されていた。

 関西の大学に入ってからは、大学の友達を誘って登山をした。父はそのたびに、

「おぅ、気をつけていってこい」

 と声をかけた。もう自分が登ることをすっかり諦めていた。私が山から戻ると、馬の背や山頂の様子を聞きたがった。若いころ自分が見た高山植物の群落の様子を、語ることもあった。アポイ岳は高山植物の宝庫であり、国の特別天然記念物に指定されている。

 大学を卒業し、私の就職を見届けるようにして、父は逝った。

 父の荼毘(だび)を待つ間、私は小高い山の上にある焼き場の外に佇んでいた。目の前にはひときわ大きなアポイ岳が聳(そび)えている。山頂付近には、いく筋もの雪渓が見えた。穏やかな海風に煽(あお)られた父の煙が、アポイに向かって長くたなびいていた。父が昇っていくように思えた。

 ふるさと様似(さまに)を離れ三十年。札幌、京都、東京と居所を変えながら、学生から社会人となり、結婚し、子供を持ち、私の生活も刻々と変化している。だが、ふるさとへの思慕は変わらない。アポイは、いつまでも変わらぬアポイであって欲しい、そんな思いがある。

 今日もまた、電車の中から富士を探す。満員電車のドアに顔を押しつけられながら、私の目が追っているのは、遠いふるさとの光景であり、父の姿なのかもしれない。

 

  2005年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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