ゴールデンウィークが明けると、運動会の季節がやってくる。東京にいたころ、会社の裏が小学校の校庭に面しており、この時期になると連日、運動会の練習が行われていた。都心の小学校である。仕事の合間に、その練習風景に目をやることがある。そんな時思い出すのが、娘の幼稚園の運動会であった。
娘は、前日まで風邪で幼稚園を休んでいた。娘にとっては初めての運動会である。何とか参加させたい。私たち夫婦は気をもんだ。そして祈った。
「どうか明日まで雨が降り続き、運動会が延びますように」と。
その夜、娘を案じた担任の先生からも電話があった。
「ギャー大変。とってもいい天気!」
妻の声で目が覚めた。窓の外は見事な晴天だった。が、祈りは……通じていた。娘の熱が下がったのだ。熱が下がると子供は、それまでの姿がうそのように元気になる。
「よし、行こう!」
娘は病み上がりを押して、運動会に臨んだ。
親子障害物競技でのこと。
六組の親子で走るのだが、最初の跳び箱をよじ登った段階で、私たちはすでに最下位だった。マット、平均台と障害物が現れるたびに、その距離が広がっていく。大網をくぐり終わったところで、先頭集団は遥か前方にいた。今にも泣き出しそうな娘の顔。娘は走るだけで精一杯なのだ。競争相手のことなど眼中になかった。
最後の障害は人間キャタピラというもの。冷蔵庫や洗濯機などが入っていた大きな段ボール箱の天と地をくり抜きキャタピラ状にし、その中に入ってハツカネズミが輪の中をグルグルと走るように、四つん這(ばい)で前へ進むのだ。そこで私は、少しでも五番手の親子に近づこうと、しゃにむにスピードを上げた。私のスピードについていけない娘は、乾燥機の中の洗濯物のように、段ボールの中で揉みくちゃになっていた。
段ボールから出ると、先頭集団はすでにゴールし、五番手の親子が最終コーナーを回り、ゴールを目前にしていた。娘は「ワー、目が回る」とふらついている。私の胸には悲壮な思いが満ちていた。初めての運動会、体調が万全ではないとはいえ、これほど圧倒的な差をつけられたビリはマズイ、と。
娘の手をとって走り出した私は、何とかしなければ、と焦(あせ)った。周りからは「ガンバレー」という同情の声援が聞こえてくる。その中には、ひときわ大きな妻の声があった。そのときだ。私の脳裡に苦肉の一策が閃(ひらめ)いた。
「オリエ、後ろを見てごらん。誰もいないよ。一等賞だ!」
ハッとして娘が振り向いた。
「ホントだ、誰もいない。ワァー、一等賞だ」
バテ気味の娘の顔がパーッと輝き、俄然、力強く走り始めた。誰もいないトラックを走り続ける私たち親子に、大きな声援が湧き起こった。コーナーを大きく回って、いよいよ直線コース。私は笑顔で、
「一等だ、一等です」
「コンドウ選手、ただいま大きくコーナーを回りました」
「凄いぞ、凄いぞ、一等賞だ」
娘の背中に実況中継まがいの声をかけ続けた。その声が、高まる声援にかき消されていく。
ゴールを担当していた先生が機転を利かせ、テープを張り直していた。不意に涙が込み上げ、ゴールが曇った。娘は私の手をふりほどき、両手を広げてテープを切った。大きな拍手が巻き起こった。
「ほら、やっぱり一等だろう」
ゴールした娘の耳元で囁(ささや)くと、
「ヤッタ、ヤッター、一等賞だ!」
娘が飛び跳ねた。その姿をボンヤリと眺めながら、私は地面に座り込んでいた。
興奮が収まらない娘は、そばにいた先生や友達に、「一等だよ!」と言いまわっている。
「頑張ったね、オリエちゃん」
笑顔の先生の目にも光るものがあった。一緒に走っていた友達までが、
「すごいね、一等賞!」
と口々にしている。幼稚園児なので、お互いわけがわからないのだ。
自宅に戻ると「ババに電話する」と娘が受話器を取った。
「一等賞だよ、チチと走ったの。後ろに誰もいなかったンだよ」
得意満面である。状況が飲み込めないはずのバアさんたちまで、
「凄いねぇ、一等かい。たいしたもンだ。誰の血筋だい」
二人のバアさんは、一様に口をそろえた。
運動会での一等賞は、後にも先にもあの一回きりである。
2006年1月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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