愛子先生と母 ― 第八回随筆春秋賞受賞に寄せて ― | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 北海道の日高、太平洋に面した浦河町のはずれに東栄という小さな漁村がある。その集落の小高い山の中腹に、ぽつんと一軒の白い家が建ったのは一九七五年、私が高校生になる年のことである。そんなところに家を建てるなど、地元の者には考えつかない場所であった。生活するために家を建てる立地ではない。それが作家佐藤愛子さんの別荘だった。

 私は隣町の様似(さまに)に生まれ育った。牧場と昆布の町である。著名人などがくるようなところではない。別荘が建ったこと自体、大事件だった。なにせ、誰も別荘などという建造物を見たことがなかったのだから。

 その町の人々とのふれあいをユーモラスに描いたエッセイが、『日当たりの椅子』(佐藤愛子著 文化出版社・PHP文庫)である。それを読んだのは大学時代のことだった。

 

 昨年(二〇〇二年)の暮れ、忘年会で飲んで遅く帰宅したら、懸賞エッセイの入賞通知がきていた。発表予定より一か月も早かったので、何かのお知らせかなと思って開封したら、「優秀賞」という文字が飛び込んできた。そこに自分の名前を見つけ、心臓が肋骨に激突し、卒倒しそうになった。酒気も吹き飛び、興奮のあまり明け方まで眠れなかった。

 エッセイを書き始めて三年になろうとしている。こつこつと書き溜めたものが八十作を超えた。二週間に一度の割合で、会社内を中心に十数人の方に、一方的にeメールにエッセイを添付して送りつけている。

 書き始めのころは物珍しく「面白かった」などの返信もあったが、ここしばらくはパッタリと途絶えている。忙しくてそれどころではないというのもあるが、褒(ほ)めようのない文章に書くことがなくなったのだ。送られる側にとっては、たまったものではない。さながら、脅迫状である。

 書き始めて二年を経過したころ、はたして自分の書いているものが読むに耐え得るものなのか、という疑念が頭を擡(もた)げ出した。それが投稿のきっかけである。要は、このまま書き続けよ、という専門家のお墨付きが欲しかったのだ。

 かくしてこの三月の下旬、件(くだん)のエッセイが掲載された同人誌『随筆春秋』が届いた。自分の文章が活字になるということは嬉しいものである。佐藤愛子さんから身に余る選評をいただき、生まれて初めて平伏する思いを抱いた。

 あの佐藤愛子さんから褒められたのである。知る人ぞ知る「怒りの佐藤愛子」、「憤怒の大佐藤」からである。授賞が決まってから猛烈に佐藤愛子を読み、初めて知った「怒り」や「憤怒」であった。以来、私の中では「佐藤愛子先生」となった。

 愛子先生は随筆春秋の選考委員のひとりである。

「あの辛口の愛子先生が褒めていらしたのですから、それは凄いことですよ」

 と後日、事務局の方が教えてくれた。

 こういう場合、礼状を出すのが礼儀だろうと考え、早速、事務局の方に先生の住所を訊ねた。「――私たちにはわからない、先生独特の《常識》がおありかもしれないので……」という返信があった。結局、事務局宛に礼状を送り、先生宅に届けてもらうことになった。

 いろいろと考えているうちに、礼状にかこつけたファンレターになってしまった。ユーモアを散りばめながら無理やり礼状に仕立て上げ、やれやれと安心していたら、間もなくその手紙が戻されてきた。封書の宛先は「佐藤愛子殿」ではなく「佐藤愛子様」が普通ですよという。恥じ入る気持ちで、手紙の内容までもカッチリとした文章に書き直した。

 一週間ほどして巻末に愛子先生の墨書入りの『随筆春秋』が届いた。佐藤愛子と読めないほど達筆だった。ありがたく拝領し、神棚がないので本棚の真ん中に据え、我が家の家宝となった。

 

 授賞のことは、実家の母に知れると大ごとになるので、しばらく黙っているつもりでいたら、ひょんなことからバレてしまった。

 母は現在、六十七歳。二十年前に父を亡くして以来、様似でひとり暮らしをしている。耳こそ遠くなったが、現役で事務仕事をしている。少しもじっとしていない性分で、常に車で飛び回っている。地方議員にでもなった方がよかったのではないか、と思うほどのバイタリティーを持ち続けている。

 母は、生まれ育った町から一歩も出ていないので、やたらと顔が広い。交際範囲は天下一品で、目覚めてから寝るまでの間、ずっと喋(しゃべ)り続けている。たぶん私が今後五百年生きたとしても、母の喋ってきた会話量には及ばないだろう。

 それゆえ、今回の件は慎重に対応しようと思っていた。だが、バレてはいたし方ない。久しく実家にも帰っていないことだし、これも親孝行と腹を括って静観を決めた。とはいえ、不安はつのる。何を仕出かすか気が気ではないのだ。

 三週間ほど耐えたが、とうとう限界がきて、恐る恐る母に尋ねて愕然(がくぜん)とした。自ら事務局に電話し、同人雑誌を取り寄せ、町の教育委員会、警察、消防など様々なところに持ち込んでいた。町長にまで手渡していたのだ。その数、六十冊!

 話題のない田舎のことである。教育委員会から地元の新聞社にも連絡が入った。かくして、何も知らずに取材のため実家を訪れた記者は、まんまと母の餌食となった。二社きたらしいが、二人とも夕食まで食べなければならない羽目になった。数時間は引き留められたに違いない。取材が終わっても喋り続ける母に、ゲッソリと疲れ果てて帰る彼らの姿が目に浮かんだ。田舎の支局に配属された駆け出しの若手記者にとっては、忘れ難い経験になったことだろう。

 かくして、地方紙の地元版に、私の写真とともに記事が掲載された。今度帰ったら、「近藤先生お帰りなさい」の垂れ幕が下がっているんじゃないの、と同僚から冷やかされた。

 今回は、一同人誌が募集していたエッセイにたまたま入賞したに過ぎない。どう考えても、新聞に載せるほどの大それた賞ではないのだ。母の迫力に気おされたということもあるだろう。だが、我がふるさとにおける愛子先生の存在感に負うところが大きかった。

「『随筆春秋』って聞いだごどないよなァ。『文藝春秋』なら知ってるけど……」

「少しは関係あるんでないかい、シュンジュウだもの」

「佐藤愛子も出でるんだから、やっぱり大したもんだべ」

 だいたいこんな調子であったことは、容易に想像がつく。

 四月下旬、授賞式が終わり一段落したので、とりあえず母に電話を入れた。さすがの母も落ちついているだろうと高をくくっていたが、甘かった。

「いやー、雑誌、足りなくって頼んだンだけど十冊しかダメなンだと。もう在庫ないンだって。――夏になったら佐藤愛子さんに会いにいがなきゃなんないわ。今年もくるべか」

「エッ! ……」

 

  2003年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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