練馬に越して | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 夏は暑いと覚悟はしていた。今年も梅雨が明けたとたん、カーッときた。強烈な夏の日差しとモワーッとした湿気は、酷烈(こくれつ)である。

 日中の気温が体温を超えてくると、さすがに耐えがたい。加えて、夜中の最低気温が二十八度というのも、手に負えない。そもそも一日の最低気温というのは、ふつう夜明け前なのだから、寝入る時間あたりは、まだ三十度を超える気温なのだ。窓を開けると熱風が入ってくる。入ってくるならまだいい。空気がそよとも動かないときは、呼吸が苦しい。輾転(てんてん)反側、寝苦しい夜との格闘が始まる。

 練馬に越してきて、この(二〇〇二年)十一月で十一年になる。最近では、「練馬は、東京の熊谷だ」と、吹聴してまわっている。

 テレビの気象情報を観ていて、関東で最高気温を出すところが、決まって埼玉県の熊谷市である。次いで前橋(群馬)や、越ヶ谷(埼玉)だったりする。最もこれらの地域は、気象庁の観測定点であるため、もっと暑いところがその周辺に存在するはずだが、暑いとレッテルを貼られたところに住む人には、迷惑な話だろう。

 東京で最も暑いのは八王子で、前橋や越ヶ谷に匹敵する。二十三区内では、練馬が群を抜いている。東京の気温と発表されるのは、皇居のお濠(ほり)に面した気象庁のある大手町の気温で、最近では特に暑い日、都心の気温とは別に練馬の気温も発表される。都心からさほど離れていないのに、気温差は、一・五度から二度はある。さらにその上前をいくのが熊谷で、気の毒なことこのうえない。

 なぜ、こんなに練馬が暑いのか、諸説あるようだ。大方の見解は、東京湾から吹いてくる海風が都心の巨大な熱気を内陸へと飛ばす。それが秩父連山から吹いてくる風とぶつかり、下りてくるところが練馬だというのだ。さらに練馬には、東京の大動脈ともいえる環状七号線と八号線がドーナッツのように並走している。私の住まいは、その環七、環八に挟まれながら、さらに目白通り、千川通りに囲まれている。しかも窪地だ。これらの道路が熱気に拍車をかけているのではないか、という説がある。

 確かに、暑い日、車の横を通るだけで恐ろしく不快な熱気を感じる。エアコンの室外機からの熱風も思わず顔をそむけたくなる。それから考えると、都心の巨大ビル群から排出される熱気は、考えただけでもゾッとする。

 七月中旬の梅雨明けから八月いっぱいにかけて、練馬に光化学スモッグ警報の出ない日はない。外に出るな、と区のスピーカーが呼びかける。北海道の、絵葉書に出てくるような海と牧場のなかで育った私にとって、まったくもってコペルニクス的転向を余儀なくされる居住環境である。

 ちなみに冬は、右に掲げた地が関東の寒さを代表する場所となる。むかしから住んでいる人には誠に申し訳ないが、住まなくて済むならその方がいい場所だとさえ思っている。

 

 練馬に越してきた年、光ヶ丘公園でひろってきて埋めたドングリが、二階のベランダから見上げる高さに成長した。この十年で幹の太さはビール瓶ほどになった。木肌が美しい。隣家と接しているので、自由に伸ばしてやることができず、年に三、四回は剪定(せんてい)している。コナラが二本とクヌギが一本である。スラリと一本の幹になり伸びていくのかと思っていたら、いずれも途中から枝が二股に分かれた。どうなるのだろうと心配していたのだが、数年前からその片方が主流の幹になってどんどん太くなり、もう一方は、単なる細い枝になってしまった。新しい発見だった。

 三本の木がまだ苗木のころ、三、四歳だった娘が、それらに「コッコちゃん」、「ハッコちゃん」、「ミヤコちゃん」と意味不明な名前をつけ、ひとりごとのように話かけながら、水やりをしていた。当時、妻が大手広告代理店のモニターになっており、その話を書いて投稿したら、社内の小冊子に「植物と話す少女」と題して写真入りで採り上げられた。ほかにも二、三人が載っており、植物と話せる人を総じて「バックスター族」というらしい。自分の子なのに何とか族などと書かれて、あまり気分のいいものではなかった。

 その木も夏には、みごとな木陰を作ってくれて嬉しいのだが、厄介な問題があった。冬になっても葉が落ちないのだ。年を越しても去年の枯葉が残るのは、気分が晴れないものである。しかも、木枯らしが吹いた日には、ガサガサとうるさくて気が気ではない。まわりを見渡しても、誰もそんな木を庭木として植えていないわけである。枯葉が落ちるのは、次の若芽が出る早春である。失敗したと思ったが、後の祭りである。

 柿もビワも種から植え、大きく成長した。

 ビワは庭に植えるものではないと義母にいわれた。死人が出るというのである。北海道にビワはない。本州のルールに従い、しぶしぶ二メートルほどに成長したものを家の片隅に植え替えた。

 調べてみると、ビワは日当たりのいいところを好み、しかも成長が早いため大きな木陰をつくり、家の日当たりを悪くする。また、「その昔、ビワの不思議な薬効のあることを知った人たちが、病気になるとビワを植えてある家に入れ替わりたちかわりやってきて、時には病気を置いていったこともあるかもしれない」(『ビワの葉療法のすべて』神谷富雄著、池田書店からの概略引用)というのが真相らしい。ビワを植えている家は、あちらこちらにあるので、ひとまず安心した。

 そのビワが今年の初夏に実をつけた。小ぶりで見栄えは悪いが、一五〇個ほどの収穫があった。味は、驚くほど濃厚な甘味があり、スーパーで売っているビワとは比べ物にならないほど美味かった。ひどい偏食癖のある娘が、なぜかビワだけはよく食べた。

 柿もあと三年もすると実をつけるだろう。狭い庭がますます狭くなる。

 「桃栗三年、柿八年」とはよく聞くが、その後に「枇杷(ビワ)は九年でなり兼ねる。梅は酸(す)い酸い十三年」と続くらしい。何事もそれ相応の年月が必要である。

 この練馬の環境に慣れるには、あと何年かかるのだろうか。住めば都というが、この地で生まれ育たなければダメなのだろうか。私にはそんな気がしてならないのである。

 

  2002年8月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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