もう何年も京都へいっていない。
北海道の片田舎から札幌へ出て四年。そこからさらに京都で四年を過ごした。私にとって京都は、かけがえのない心のふるさとになっている。多感な学生時代を京都で過ごしたせいだろう。
東京にきて十九年(二〇〇二年時点)、生まれ故郷にいた年月を越す滞在になった。東京もふるさとかと訊かれると、「否」である。
古い社寺仏閣を見て回りたい、ただそれだけで京都を目指した。法学部に籍を置いたが英語ばかりやっていた。そういうクラブに所属したことによる。防衛、環境、農業、年金、選挙制度問題など、いかにもしち難しそうな内容を英語で討論する「ディベート」にどっぷりと浸っていた。今でこそディベートは、市民権を得つつあるが、当時は、
「なに? リベート?」
と訊き返されるのがオチだった。
三回生のとき、連盟のディベート専門委員長を引き受けなければならなくなった。しかもその年は、持ち回りで西日本の副委員長も兼ねなければならず、多忙な日々を送った。そのせいで四回生では留年の危うきをみた。ゆったりと古都を散策、という当初の目的とはかけ離れた学生生活になっていた。
今では、法学部にいたとか英語をやっていたなど、恥ずかしくて言えたものではない。気分爽快、と言わんばかりになにもかもすっかり忘れ、何一つ役立ってはいない。あのときの努力は、いったい何だったのだろうと思う。
親は学生時代の私の行動を、ほとんど知らない。訊かれもしなかったので答えなかった。逆に、根掘り葉掘り訊かれると困ったかもしれない。
講義そっちのけで大阪や神戸を行き来し、時には名古屋、東京にまで出張していた。試験が近づくまで、選択した授業の先生の顔すら見たことがなく、教室を覗いて、真面目そうな女の子を見つけては、
「この授業は、○○先生の××概論ですか」
などとマヌケな質問を繰り返していた。中には半年も前に病気で亡くなっていた先生もいた。
親は一生懸命働いて、せっせと仕送りをしてくれた。一度の遅滞もなかった。楽な生活ではなかったはずである。親の恩には頭が上がらない。この感謝の念は、終生消えることはないだろう。
そんな自由のおかげで、私は自分の大学の枠を越えて広い交友関係を持つことができた。交換留学生もいたし、外国人教授もいた。今でもそれらの人たちの名前を挙げることができる。
印象深かったのが、スタンフォード・ライマン教授だった。フルブライトの留学で来日していた先生だったが、ESS(クラブ)の活動への協力をお願いしたことがある。とても気さくな教授で、こころよく引き受けてくれた。だが、後で法学部事務長に呼び出しを食らった。
お前ら、あの方をどなたと心得る、というひどい剣幕の叱責を受けた。大学側がやっとの思いで招聘(しょうへい)した高名(こうめい)な先生だというのだ。社会学の世界的権威で、ノーベル賞候補に上がるほどの先生なのだそうだ。コンコンと説教をくらった。二度と気安いことはするな、先生はお前らが想像する以上にお忙しい方なのだ、と。
仕方なく我々は、ひそかに先生と連絡を取り合うことになった。日本文化に興味を持っていた先生をこっそりと大学の茶道部に連れていったり、居合道の稽古の見学に誘ったりした。先生は京都にきてから、有識者の案内で有名どころの社寺仏閣は一通り見学していたようだった。だが、異国の学生に囲まれ、遠慮なくすごす時間が、とても心地いいようだった。ライマン教授との密かな交流は、彼が大学を離れるまで続いた。
あっという間の四年間だった。試験さえなければ、またあの時代に戻りたい。大学をレジャーランドと勘違いしている学生もいたが、そういう者たちとは一線を画していた。充実していた四年間だったともいえるし、何をしていたかさっぱりわからない期間だったとも思う。ただ、この学生時代が人生における〝貴重な無駄な時間〟であったことだけは間違いない。
四回生の秋(一九八二年十一月十日)、嵐山へ遊びにいった帰り、四条河原町でソ連のブレジネフ書記長の死を告げる号外を手にした。時代が大きく転換していくんだなあ、と思いながらアパートに帰ると、私の帰りを待っていたかのように母から電話が入った。父が危ないと言うのだ。父は長く肝臓を患っていたが、入院していることは知らなかった。私に心配をさせまいと伏せていたのだった。年を越せない……、と言うなり母は電話口で泣き崩れた。晴天に霹靂(へきれき)を見る思いだった。
おりしも卒論提出の一か月前であり、資料こそ揃えていたが、私は何ひとつ書き出していなかった。担当教授に相談にいくと、何でもいいから文字を書いて学部事務室に提出しろと言う。事務長に直々話を通しておくとの温情の言葉であった。
卒論には、我ながら期するものがあり、夜に日をつぎ夢中で書いた。何でもいいから早くしろ、という先生からの催促の電話が二度もあった。結局、一週間後にやっと書き上げた。昼も夜もなかった。起きている間は書いていた。卒論を提出した日、高熱を発した。風邪かと思い病院へいくと、過労による肝機能障害だという。入院できますか、と言われ愕然(がくぜん)とした。事情を説明し、紹介状をもらって飛行機に乗った。父の看病をしながらの加療となった。もちろん父には内緒である。
夜は母、昼は私が父についた。日がなベッドの横で卒業試験のための勉強を行う。民法や刑事訴訟法といった分厚い本を、必死で読んだ。いつしか同室の患者や看護師の間で、私の勉強ぶりが評判になりだした。勉強熱心な立派な息子さんだ、と。父にすれば鼻が高かっただろうが、こちらはそれどころではなかった。四年間の遊びのつけが一気にきていた。卒業が危うい、とは口が裂けても言えなかった。父も必死だが、私も決死の覚悟だった。
年が明けて試験のために再び上洛する。試験終了とともに、荷物を今の会社の独身寮へ送り、病院へ取って返した。卒業できなかったら荷物はどうなるのか、そんな愚問にかまっていられない状況だった。
今考えると、父が入院していなければ、卒業は難しかったかもしれない。卒業式にいくかと母に言われ、いきたいとは言えなかった。本当にいかなくてもいいのかと執拗に訊いてくる父には、大学は卒業式に出なくても卒業証書を郵送してくれるから、と濁した。それが京都との別れとなった。いまだに大学を卒業したという実感が持てないのは、卒業式に出ていないという、このときの事情のせいである。
生きているのが不思議と担当医に言われながら、父は持ち堪(こた)えていた。私が就職で東京へいくことに、父も母も張り裂けんばかりに心細かったに違いない。
出発の朝、病院へ顔を出した。晴れやかな門出ではなかった。生き別れを覚悟の別れだった。病院を後にしながら、もうこれで父に生涯会うことはできまいと思った。
ろくに勉強もしていなかったくせに、大学に残りたいという気持ちがあった。アメリカへいきたいとも思っていた。そんな夢は儚(はかな)く潰(つい)えた。これが社会人になる厳しさなのだ、と自分にいい聞かせ、私は東京へと向かった。
父が亡くなったのは、その年の六月である。
2002年2月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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