大地震 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

「ただ今、東京湾北部を震源とするマグニチュード七の大きな地震が発生しています。みなさん、机の下に入ってください」

 地震の最中に震源地と規模を言うとは、いかにも訓練である。

 九月一日(二〇〇一年)、娘の二学期の始業式の下校時刻に合わせて行われた小学校の「児童引き取り訓練」に参加した。出迎えの親はほとんどが母親で、終始ペチャクチャとおしゃべりをしており、緊張感のないのどかな訓練だった。

 新聞によると日本の面積は、地球の陸地面積の四百分の一を占めるにすぎないが、世界の十分の一の地震が集中するという。震度一以上の地震は、年間千回から千五百回にものぼる。過去百年間に、日本近郊で発生したマグニチュード(M)七以上の地震は、九十三回(うちM八以上が十三回)。毎年一回はどこかで大きな地震が発生している。

 最近(二〇〇一年の視点で)の主な地震では、新潟地震(M七・五)、十勝沖地震(M七・九)、宮城県沖地震(M七・四)、浦河沖地震(M七・一)、日本海中部地震(M七・七)、最大津波が二十一メートルにも達した北海道南西沖地震(M七・八)、死者・行方不明者五五〇四名を出した兵庫県南部地震(M七・二)などがある。最後が二〇〇〇年(平成十二)の鳥取県西部地震(M七・三)だ。

 避難訓練を見ていて、十勝沖地震を思い出した。

 私は幼いころから地震に対してとても臆病で、地震のたびにひどく怯えていた。私のふるさと様似(さまに)は、北海道の日高、日本でも有数の地震多発地帯である。気象庁の発表では、十勝沖とか浦河沖という名で震源域の発表がある。

 小学校三年の、まだ肌寒い一九六八年(昭和四十三)五月のことだった。二時間目の授業のベルが鳴り、担任の女の先生が教室のドアに手をかけたところでグラッときた。

「机の下に隠れなさい」

 先生の叫び声で、みな一斉にもぐったが、その机がバタバタと倒れ出した。地鳴りのような音を伴った強い揺れに、机の脚を両手で握りしめていたのだが、支えきれなかった。

「廊下に出なさい!」

 という叫びにも似たただならぬ声で廊下に出たものの、整列などできる状況ではなかった。廊下の左右の壁にぶつかりながら、立っているのがやっと。猛スピードを上げて走るバスの中で、脚を踏ん張って立っているような状態だった。何とか玄関までたどりついたが、木製の大きなゲタ箱がバタバタと倒れ、吊り下げ式の蛍光灯が天井にぶつかって大きな音で破裂するのを目の当たりにした。凄まじい音と土埃(つちぼこり)にまみれながら、悲鳴と叫喚(きょうかん)の中、無我夢中で校庭に走り出た。

 最大震度五という発表であったが、そんな生やさしい揺れではなかった。学校周辺一帯が泥炭地(寒冷地のため腐葉土が腐りきれずにそのまま堆積している土地)であるため、建物がスポンジの上に建っているのと同じ状態だった。しかも校舎は老朽化した木造で、私の母が小学校を卒業した当時のままの建物だった。

 校庭に走り出た私たちは、固まって座らされた。長い揺れが収まって校舎をみると、その破損のひどさに目を見張った。よく生きて脱出したな、というのが正直な思いだった。すべての荷物を教室に放置し、上履きのまま先生の引率で数キロ離れた自宅まで歩いて帰った。

 その帰る道は、小学生にとってとても長い距離に感じられた。海岸沿いの道を歩いて帰ったのだが、我々が通過した直後に津波が襲ってきた。幸いにも津波は、それほど大きなものではなかった。

 自宅に帰り着いて言葉を失った。あらゆるものがメチャクチャにひっくり返り散乱しており、家に入ることすらできなかった。しかも、数分おきに余震がくる。さすがの母も何から手をつけていいかわからない状態で、ただ呆然(ぼうぜん)としていた。

 漁業組合に勤めていた父もほどなく帰ってきたが、家族の安否を確認するや、津波が心配でまた戻っていった。まだ、一般家庭に電話もない時代で、父の不在が心細くてしょうがなかった。家族が全員生きていたことにホッとした。

 家の近くに小さな川が流れていたのだが、津波が川を逆流し、溢(あふ)れそうになっていた。津波の第一波が押し寄せてくる直前、海がどんどん後退し、見たこともないような岩が現われ、港の海水がそっくりなくなったという。海底の窪みに取り残された魚を、大勢の人が手づかみで捕っていたらしい。

 その日はどうやって食事をしたか、記憶にはない。夕方になり、最大級の余震がきたとき、私は我慢していた小便を漏らしてしまった。余震が怖くてずっと我慢していたのだ。夜になっても家に入ることはできず、外の物置小屋を整理して、隣の家族と一夜を明かした。いつ果てるともなく続く余震に怯える夜だった。学校は、一週間の休校となった。

 ダジャレじゃないがこの地震体験によって、私は地震に対し大いに自信がついた。その後(一九八二年)の浦河沖地震のときも、十勝沖の経験から冷静に対応できた。浦河沖地震のときは、大地震にもかかわらず、なぜ被害が少なかったのか、ということが話題となり、いくつかのテレビ局が特集を組んで街を検証する番組を作っていた。

 結論は、この地震が過疎地帯で起こったこと、人々が地震慣れしており、揺れと同時にストーブを消す習慣があったこと。それに地震に備え、大きな家具等を固定することが一般化していたことなどが挙げられていた。

 今、私は東京にいる。大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災から七十八年を経(二〇〇一年時点)、人々の意識の中では、すっかり歴史上の出来事、他人事になっている。

 平成七年(一九九五)の阪神大地震の前に、八戸と水戸に立て続けに大きな地震があった。そして神戸である。この三地域のキーワードは、「戸」だった。次は「江戸」だとささやかれた。

 神戸の地震から六年、そんなこともすっかり忘れてしまった。神戸の直後に慌てて買った備蓄食料も、すでに消費期限が切れ始めている。

 そろそろ「次」がきそうなころである。備えなければ。

 

 付記

 東日本大震災(M九・〇)は、二〇一一年三月十一日に発生している。この作品を書いた十年後ということになる。

 

  2001年10月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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