従兄 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

「今日の泊まりで一名なんですが、空いていないでしょうか……」

「申し訳ございません。あいにく満室でございます」

 電話口の男の口調は丁寧なのだが、ピシャリとした拒絶の表示である。その間髪入れぬ即答に、問答無用という強い姿勢を感じた。

 もう何年も前のことである。出張で東京にきた社員の宿泊予約の電話である。女子社員が宿の手配をうっかり忘れ、予約がとれず四苦八苦していた。次々に予約を断られ、三十分以上も電話に追われていた。そんな彼女を見かねて、助け舟を出したのだ。会社からさほど離れていないビジネスホテルで、従兄がフロント係をやっていた。

 早々に電話を切ろうとする相手に、

「あの……、○○さんは、今日いらっしゃいますか」

 従兄の名前を告げると、男が怪訝(けげん)そうな口調で、どちら様でしょうかと問う。自分の名前を告げたとたん、

「なんだよー、オレだよ、オレ! バカヤロー、最初から名前、いえよな」

 快活な従兄の声が返ってきた。数年ぶりの電話だったのと、お互いよそいきの口調だったのでわからなかったのだ。

「部屋ならいくらでもあるよ。ケチなこといわないで三室くらい取っておこうか」

 なんとも呆れた答えだ。

 受話器を握りながら横にいる女子社員にOKサインを出すと、あっけない幕切れに、安堵と拍子抜けの入り混じった顔が返ってきた。

 休日明けの夕方、しかも当日泊まりの宿泊予約はなかなか難しい。ホテル側も特別な顧客に備え、満室とはいいながら常に数室は確保しているという話を、以前この従兄から聞いていた。

 数多くいる従兄弟のなかで、彼は異色な存在だった。中学受験でつまずき、大学受験では三浪。せっかく入った大学も留年を重ね、六年目で中退していた。私より四つ年上なのだが、大学の受験期を札幌で共にすごした仲だった。

 あるとき浪人中の彼のアパートへ遊びに行くと、分厚い大学ノートを持ってきて、三年かけて完成させた「日本史完璧ノート」だと誇らしげに見せてくれた。バカじゃないかと呆れたが、恐ろしく緻密なノートだった。それに感化されたわけではないが、私も似通ったノートの作成を始め、気がついたら予備校の門を潜っていた。

 東京に就職した私が、大学を中退してほどない彼のアパートを訪ねたことがある。三十歳までにアルバイトを三十種やった後、小説を書くと胸を張っている。彼はいつも将来に大きな夢を抱いていた。身内からは困ったものだという溜め息が漏れていたが、そんな雑音を意に介する従兄ではなかった。彼は通常の社会の枠に収まりきれない人間だった。

 ホテル勤めもアルバイトの一環であったのだが、いつしか正社員となり、知らぬ間に結婚していた。オレも落ち着いちゃったよ、と照れ笑いをみせたのが彼と会った最後だった。

 しばらく経って彼に連絡をとろうとしたときには、すでにそのホテルも辞めており、どこにいるのかさえわからなくなっていた。歳月と、お互いの生活が、二人の間に距離を作っていた。だが、その距離はまたたくまに埋まることを知っていたから、私はさほど気にも留めてはいなかった。

 そうしたある日、郷里から彼の訃報(ふほう)がもたらされた。四十五歳、喉頭(いんとう)ガンだった。

 十年ぶりでの再会となった彼は、すでに棺桶の中にいた。千葉県の葬祭場である。

 夫を亡くした三十七歳の妻と、父親を失った九歳と七歳の子供たち。息子に先立たれた七十五歳の父親と弟を見送る兄……それぞれの思いが幾重にも重なり、横たわる彼を囲んでいた。

「弟は骨太の人生を生きたと思う――」

 弟を送る兄の言葉が耳に残った。従兄の母親もまた、四十七歳のときガンで亡くなっていた。

 棺桶(かんおけ)の蓋(ふた)を閉める直前、気丈な父親が息子の額に手を置いた。父親にとってそれは何十年ぶりかの行為だったに違いない。その手が痛ましいほど皺(しわ)深かった。妻は、両手で顔を覆ったまま、大きく肩を震わせており、その背中の陰で男の子が声を押し殺して涙を拭(ぬぐ)っていた。

 いよいよ最後というとき、九歳の兄に促された七歳の女の子の小さな手がスーッと伸びた。棺の中に横たわる父の胸元へ、白い封筒が置かれた。

 封筒には、鉛筆書きで「パパへ」とあった。そのあまりにも拙い文字を目にした瞬間、それまで堪えていた私の感情が堰(せき)を切った。

 女の子は、父親の葬儀で思いがけず同じ年の従姉妹に会えたのが嬉しく、無邪気に走り回っていた。父親の死を悼む思いより、仲よしに会えた喜びの方が勝っていたのだ。父親の死をきちんと認識できない、その幼さが胸に迫った。

 もう父親の姿を目にできないのだよ、という大人たちの思いが、彼女を不自然に神妙にさせていた。

 荼毘(だび)を待つ間、梅雨明け間近の空を眺めながら、あの宿泊予約の電話がふと浮かんだ。父親に瓜二つの女の子に、いつかこの話をしてあげなければ、と漠然と考えていた。

 

 

 追記

 従兄が亡くなったのは、平成十三年(二〇〇一)七月五日である。平成三十年(二〇一八)十二月二十日に従兄の父親が亡くなった。満九十二歳だった。この父親の妻が、私の亡父の姉に当たる。つまり、父親は私にとっては伯父ということになる。

 札幌で行われた伯父の通夜に、この従兄(伯父の次男)の妻と息子が千葉から駆けつけた。娘は仕事でどうしても都合がつかなかったという。当時九歳だった息子は、二十六歳になっていた。彼にとっては祖父の死になる。

 二人に会うのは、従兄の告別式以来、二度目のことである。もちろん二人とも私のことは覚えていない。それは当然のことである。

 私はこのエッセイを平成二十年(二〇〇八)九月発行の同人誌『随筆春秋』三十号に発表し、亡くなった従兄の兄を通じて、従兄の妻に送ってもらっていた。

 今回、従兄の妻と息子の前でそのことを明かすと、二人は息を呑んで目を瞠(みひら)いた。妻は深々と頭を下げ、涙を見せた。息子はじっと私を見つめていた。

「ついこの間のことなんですが、たまたま娘がこのエッセイを読み返し、涙している姿をみました」

 従兄の妻がそんなことを漏らした。私は、少なからず自分の役割が果たせたことに、ホッと胸をなで下ろした。

 母親の陰で声を押し殺して涙を拭っていた男の子は、警視庁に勤務する頼もしい青年になっていた。   平成三十一年(二〇一九)一月

 

  2001年8月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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