平成十三年(二〇〇一)、初めて仙台へいった。会社の出張である。
東京駅から東北新幹線に乗ると、しばらくコンクリートのビル群の風景が続く。殺伐とした眺めである。走り出して三十分、大宮を過ぎたあたりから田畑が見え始める。冬枯れの光景にホッとする。そのあたりから新幹線は速度を増し、次の停車駅である仙台を目指す。風景を飛ばし、山を串刺しにしてひたすら走る。
大宮を出てほどなく、遙か右手に筑波山とそれに連なる連山が見えてくる。さらに進むと今度は左手に、群馬や栃木の山々が近づいてくる。東京を出てから小一時間、宇都宮を過ぎたところで関東平野が尽きる。あらためて関東平野の広大さを思う。
関東の内陸部である熊谷、宇都宮というところは、夏冬の気温差が大きい。毎夏、その年の関東の最高気温を記録する。昨年(二〇〇〇年)も三十九度を超えた日があった。小春日和とも思える陽射しのなかで、窓外に広がる田園風景と、そこで営まれる実際の寒暖差の激しい生活との落差は、想像に難い。
平日の朝の新幹線なので、家族連れはほとんどいない。スーツ姿の東京がそのまま電車に乗っているような、異様な雰囲気である。
みなそれぞれに、何らかの使命や目的を帯びて先を急いでいる。いく先で大きな商談があるのかもしれない。不動産の取引、新商品の拡販で工場のラインを見にいく人もいるだろう。得意先への訪問や困難な問題を打開するために向かっている人もいるはずだ。行楽の電車とは違い、張り詰めた静けさが車内に満ちている。
ときおり、窓外の景色に家が増え、街が現れる。数分、数十秒の風景である。ゆえに、白河の関をいつ越えたのかも、まったく気づかなかった。窓外に現れる街は、郡山だったり福島だったりするが、基本的に東京の風景と何ら変わりない。東京でいつも目にするスーパーやサラ金、生命保険会社の看板である。
そうしているうちに、あっという間に仙台平野の広がりのなかに出てしまう。いくつもの山や河を越えてきたはずなのに、その実感がない。山が途切れてすぐに名取川を渡ったのに気がついた。それが、せめてもの慰みだった。
「名取川を渡りて仙台に入る。あやめ葺(ふ)く日なり」
『奥の細道』、仙台の記述である。旧暦三月の終わり、芭蕉は曾良(そら)を従え東北へと旅立つ。それからすでに一か月が過ぎ、家々の軒に菖蒲を葺く五月を迎えていた。日光街道の第一宿、足立区の千住にて舟を上がって、「前途三千里の思ひ胸にふさがりて」、見送りの人々と惜別の涙をかわす。当時の旅は、命を賭(と)したものだった。まずは松島を目指す旅、白河の関を越える思いは、格別なものであった。当時、白河の先は、夷狄(いてき)の地だった。わずか数百年前のことである。
苦難の旅程を経、やっとの思いで関東平野を歩き切り、白河の関にたどり着く。
便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと 平 兼盛
都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関 能因法師
古来より多くの旅人が特別の思いでこの関を通過した。これから先は、歌枕すら存在しない未知の国だった。やっとここまできた、という思いが溢れ出す。ここでいう都は、京都である。
新幹線が仙台平野に入って、せめて冬枯れの宮城野の情景にでも出会えたら、と期待するものがあった。左右の窓を注意深く見守る。逃すまいと風景を追いかけるのだが、新幹線の速度にはかなわない。またたく間に、東京の延長を思わせる風景が出現し、軽快なチャイムと共に、「仙台」という車内放送がある。せめて藤村の宮城野を……という私の思いは、あえなく打ち砕かれた。
心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
独りさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲しみ深き吾目には
色なき石も花と見き
仙台へ行ったら島崎藤村の風景を見てみたい、という思いを二十年来温めていたのだが……。
私は、二時間で仙台に至り、数時間仕事をし、その日のうちに東京へ戻る。現代のスピードは、芭蕉や藤村への思いを寄せる時間すら与えてくれない。
時間を短縮した分、ゆとりができたかと問われると、そうとも言えない。相変わらず忙しい日々の中にいる。便利でいい時代になった。これが豊かさと繁栄に繋がるのかと考えると、首をひねってしまうのである。
2001年1月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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